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『ジョゼフ・バルサモ』42-2「老人」、43-1「植物学者」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

老人(承前)

 ジルベールは飢えた狼のようになって、空き地にたどり着いた。その中央に澱んだ水をたたえた池があり、葦や睡蓮に縁取られていた。

 草の生えた斜面を下ると、長い脚をした昆虫が水の上を行き交い、トルコ石か勿忘草の茂みが敷かれているかのようにきらめいていた。

 この景色の背景、いわば円周の外側に当たる部分には、大きなポプラが生垣を形作り、その銀色の幹の隙間を埋めるようにして榛が枝を茂らせている。

 六本の道がこの広場らしき場所に通じていた。そのうちの二本は太陽にまで続いているように見えた。遙か遠くの木々の梢が太陽によって金色に彩られている。残る四本は星型に広がり、青い森の奥深くに消え失せていた。

 この緑の広場は森のどの場所よりも涼しく華やいでいるように感じられた。

 ジルベールが通って来たのは薄暗い道の一本だった。

 ジルベールは上記の光景を一通り見渡した後で、真っ先に目に飛び込んで来たものに目を戻した。溝のような薄暗がりの中、倒木に腰かけている白髪の人物である。顔つきが穏やかで線が細く、茶色の粗羅紗の上着、同じ素材のキュロット、縦に灰色の刺繍の入ったベスト(ジレ)を着ていた。灰色の綿靴下が形の良い逞しい足を覆っている。留金付きの短靴にはところどころ汚れたままだったが、爪先の先っぽだけは朝露で洗われていた。

 傍らには蓋の開いた緑色の箱が置かれ、摘んだばかりの植物が詰まっていた。足に挟んだ棒には丸い握りが光っており、先端は幅二プス長さ三プスの鋤になっていた。

 ジルベールは以上のことを一瞥したものの、何よりもまず目に飛び込んで来たのは、老人が千切って口にしていたパンであった。遠くから窺っている花鶏アトリ川原鶸カワラヒワにも分けてやると、鳥たちはすぐにパンくずに群がり、けたたましく囀りながら茂みの奥に飛び去っていた。

 老人は穏やかながらも鋭い目つきでそれを眺めながら、時折り格子模様のハンカチに手を入れてパンの合間にさくらんぼを味わっていた。

「よし、この人だ!」ジルベールが枝を掻き分け、その人の方に四歩進んだところで、老人が我に返った。

 ジルベールは三分の一も進まないうちに、老人の穏やかで物静かな様子を目の当たりにして、立ち止まって帽子を取った。

 老人の方も他人がいることに気づき、急いで服に目をやり、ボタンを留めた。

 
 

第四十三章 植物学者

 ジルベールは腹を決めて側まで近づいた。だが口を開いた後で何も言わずにまた閉じてしまった。気持は揺らいでいた。施しを乞うような気がしたのだ。正当な権利を要求するのではなく。

 ジルベールが躊躇っているのを見て、老人も気が楽になったようだ。

「何かお話が?」と微笑んでパンを木の上に置いた。

「ええ、そうなんです」

「何でしょう?」

「失礼ですが、鳥に餌をやっていらっしゃいますよね、『神は之を養ひたまふ』というのに」

「神はきっと養って下さるでしょう。それでも、人間の手も鳥たちを養う手段の一つには違いありません。それを責めるのは間違っていますよ。人気のない森の中であろうと人通りのある町中であろうと、パンには事欠かないのですから。ここでは鳥たちがついばみ、そこでは貧しい人たちが手に取るのです」

「ああ!」ジルベールは老人の明晰で穏やかな声にひときわ胸を打たれた。「こうして森の中にいながら、鳥たちとパンを奪い合う人間もいるんです」

「あなたのことかな? もしやお腹が空いているのですか?」

「腹ぺこなんです。もしよければ……」

 老人はすぐさま気の毒そうにパンに手を伸ばした。そこで不意に考え込んで、鋭く射通すような目つきでジルベールを眺めた。

 考えてみると、目の前にいるのはそれほど飢えている人間には見えなかった。服は整っている。確かにところどころ土で汚れてはいるが。肌着は白かった。それもそのはず、前日ヴェルサイユで荷物から引っぱり出したシャツなのだ。そのシャツも確かに湿ってしわくちゃではあったが。つまりこの青年は明らかに森で一夜を過ごしたのだ。

 それでいて白く細い腕はやはり、労働者ではなく夢想家のものだ。

 如才のないジルベールのことである。老人が自分を疑い躊躇っていることに気づき、そうだとすると好意に甘えられなくなると思い慌てて前に出た。

「お腹が空きっぱなしなんです。昨日の昼から何も食べていなくて。もう二十四時間、何も取っていません」

 その言葉の真実であることは、真剣な表情、震えた声、青白い顔から明らかだった。

 老人は躊躇うのを(正確には不安がるのを)やめて、さくらんぼの入ったハンカチとパンを差し出した。

「ありがとうございます」そう言いながらジルベールはハンカチを返した。「でもパンだけで充分です」

 そのうえパンを二つに千切って半分だけもらい、もう半分は老人に返すと、傍らの草の上に腰を下ろした。それを見て老人はますますびっくりしていた。

 食事はあっという間に終わった。パンは少ししかなく、ジルベールは飢えていたのだ。老人はジルベールを困らせるようなことは何も言わなかったが、無言のままひそかに観察を続けた。その間も表向きは箱の中の草花に注意を払い、草花は深呼吸でもするように背筋を伸ばし、匂い立つ頭をブリキの蓋の高さまでもたげている。

 だがジルベールが池に近づくのを見て、慌てて声をあげた。

「飲んじゃいけない! 汚れているんです。去年の枯草が腐っているし、水面を泳いでいる蛙が卵を産んでいるので。どうせならさくらんぼを食べなさい。これだって喉の渇きは癒えますよ。さあお取りなさい、どうやら出しゃばりな押しかけ客ではないようですね」

「ええ、確かに僕は出しゃばりとは正反対の人間だし、出しゃばることほど嫌なことはありません。ついさっきヴェルサイユでそれを証明して来たばかりです」

「おや、ヴェルサイユからいらしたのですか?」

「ええ」

「あんな豊かな町で飢え死にするのは、よほど貧しいかよほど高潔な人だけでしょう」

「どちらも正解です」

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