翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 43-4・44-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「よかった」ジルベールはこの厭世家の冗談に傷つくどころか心が軽くなった。「僕が好きなのは言葉です。お世話になります、お礼の言いようもありません」

「それでは一緒にパリに来ることは決まりですね?」

「はい、そうしていただけるのなら」

「もちろんですよ、こちらからお願いしたんですから」

「絶対にしなくてはならないことはありますか?」

「何も……働くだけで結構です。それに、どれだけ働くかを決めるのはあなた自身です。あなたには若々しくする権利がある。幸せでいる権利や自由でいる権利……それに暇を見つけて何もしない権利だってあるのですから」

 老人は心ならずといった微笑みを浮かべてから、空を見上げた。

「ああ、若さ! 力! 自由!」そう言って溜息をついた。

 この言葉の間、線が細く整った顔立ちに何とも言えぬ翳りが広がっていた。

 やがて老人は立ち上がって杖に凭れた。

「それでは」とようやく明るさを取り戻して言った。「今後のことも決まったのですから、よければもう一箱分植物を集めませんか? ここに灰色紙がありますから、初めに集めた分を分類しておきましょう。それはそうと、もうお腹は空いていませんか? まだパンは残っていますよ」

「お昼に取っておきませんか」

「さくらんぼだけでも食べて下さい。かさばってしまいますから」

「そういうことでしたらいただきます。だけど箱は僕がお持ちします。そうすれば楽に歩けるでしょうし、僕はこういうのに慣れているせいで無理をさせてしまうかもしれませんから」

「しかしまあ、あなたは幸運の使者ですよ。あそこに見えるのは髪剃菜picris hieracioïdesじゃありませんか。朝からずっと探していたというのに。それに足許、気をつけて! 牛繁縷cerastium aquaticumです。駄目です、抜かないで! まだまだ勉強することがありますよ。一つには摘むには湿り過ぎていますし、それにまだそれほど大きくないでしょう。午後の三時に戻って来た頃にコウゾリナpicris hieracioïdesを摘みましょう。ウシハコベcerastiumの方は一週間後に摘みに来ましょう。それに、採取する前に友人の学者に見せてやりたいんです。その友人にはあなたのことをお願いするつもりなのですがね。それはそうと先ほどお話ししていた場所に案内してもらえますか。きれいな蓬莱羊歯アジアンタムがあったのは何処ですか」

 ジルベールは先に立って歩き出した。老人がそれを追い、二人は森の中へ姿を消した。


第四十四章 ジャック氏

 絶望の真っ直中にこうして支えを見つけてくれた幸運に喜びながら、ジルベールはずんずんと前を歩き、時折り老人を振り返った。この老人がつい先ほどほんの一言二言で、とても穏やかで素直な気持ちにさせてくれたのだ。

 こうしてジルベールは羊歯のあるところまで老人を案内した。確かに素晴らしい蓬莱羊歯アジアンタムだった。それを採取し終わると、二人はまた別の植物を探し始めた。

 ジルベールは自分で思っている以上に植物に詳しかった。森で育ったために、森の植物のことなら友達も同然だった。ただし知っていたのは俗称だけだ。ジルベールが名前を挙げるたびに、老人が学名を教えてくれたので、同じ科の植物を見つければそれを懸命に繰り返した。二、三回ギリシア語やラテン語の名前を間違えた。そのたびに老人が一音一音ばらばらにし、音節と原語との関係を教えてくれたので、ジルベールは植物名だけではなく、プリニウスやリンネやド・ジュシューが名づけたギリシア語やラテン語の意味まで覚えることが出来た。

 その合間合間にジルベールは話をした。

「残念だなあ! こうして一日中あなたと植物を探して六スー稼げればいいのに。絶対に休んだりはしませんし、それに六スーだっていらないのに。朝くれたパン一切れで一日持ちますし。タヴェルネの水と同じくらい美味しい水も飲んで来たばかりですし。昨晩は木陰で休みましたけど、屋根裏よりもよほどぐっすりと眠れました」

 老人は微笑んだ。

「やがて冬が来れば、植物は枯れ、泉は凍り、今は木の葉をそよがせている風も裸の木々の間を吹きすさぶことでしょう。そうなればねぐらに服に火が要りますからね、一日六スーあれば部屋、薪、洋服を捻出できたでしょうに」

 ジルベールは溜息をつき、新たに植物を摘み、新たに質問をした。

 二人はこうしてオルネー、プレシ=ピケ、クラマール・スー・ムドン(Clamart sous Meudon)の森で充実した一日を過ごした。

 ジルベールはこうしていつしか打ち解けていた。老人の方もうまく質問を問いかけていた。それでもジルベールは、疑り深く、慎重で、臆病だったため、自分のことについては出来るだけ口をつぐんでいた。

 シャティヨン(Châtillon)で老人はパンと牛乳を買い、半分はジルベールの手に押し込んだ。それから二人はその日のうちに到着できるようにパリに足を向けた。

 パリにいるというそのことを考えるだけで、ジルベールの胸は高鳴った。ヴァンヴ(Vanves)の丘から、サント=ジュヌヴィエーヴ、廃兵院アンヴァリッド、ノートル=ダム、そして家並みが広大な海となってモンマルトルやベルヴィルやメニルモンタンの傍らにぱらぱらと波のように打ちつけているのを目にした時には、その高ぶりを隠そうともしなかった。

「ああ、パリだ、パリだ!」

「そう、パリ、家屋の山、諸悪の深淵です。壁に染み込んでいる苦しみが外に洩れ出すことがあれば、その石材の上に涙が滲み血が染まるのが見えることでしょう」

 ジルベールは昂奮を抑え込んだ。もっとも、昂奮はそのうち次第に治まったのだが。

 二人はアンフェールの市門を通った。パリの周縁は臭くて汚れていた。病院に運ばれて来た病人たちが担架に乗せられて通り過ぎた。裸同然の子供たちが泥水の中で犬や牛や豚とじゃれていた。

 ジルベールは顔を曇らせた。

「ひどいものでしょう? ですがこんな光景すらそのうち見られなくなりますよ。豚や牛がいるのはまだ恵まれていますし、子供がいるのはまだ救われているのです。泥水だけは何処に行っても見かけますがね」

 ジルベールはパリの暗い部分を目にする覚悟は出来ていた。だから老人の話にも嫌な顔はしなかった。

 一方初めのうちこそ饒舌だった老人は、町の中心に近づくにつれて、徐々に口数が少なくなっていた。どうやら随分と気になることがあるらしく、ジルベールも遠慮して、柵の向こうに見える公園のことやセーヌ川に架かっている橋について聞くことが出来なかった。ちなみにこの公園はリュクサンブールであり、橋とはポン=ヌフであった。

 しかしこうして歩きながらも、老人の心が不安に占められているように思えたので、ジルベールは思い切って口を開いた。

「お住まいはまだ遠いのでしょうか?」
 

 続く。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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