翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 44-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「もうすぐですよ」この質問のせいで老人をさらに陰鬱にさせてしまったようだった。

 二人はフール通りのソワッソン邸の前を通り過ぎた。建物も玄関も通りに面していたが、その壮麗な庭園はグルネル通りやドゥー・ゼキュ通りにまで広がっていた。

 教会の前を通りかかった時、ジルベールはその美しさに打たれ、しばし立ち止まって見とれて。

「綺麗だなあ」

「サン=トゥスターシュ教会(Saint-Eustache)です」

 老人はそう言って見上げると、「もう八時ですか! 急ぎましょう、さあ早く」

 大股で歩き出した老人の後をジルベールも追った。

「言い忘れていましたが――」あまりにも無言が続いたためにジルベールが不安になりだした頃、老人が口を開いた。「わたしには妻がいます」

「えっ!」

「家内は正真正銘のパリっ子パリジェンヌなのですが、遅くなると口うるさいんです。それから、家内は初めて見る人間にはよそよそしいことも覚えておいて下さい」

「出て行けということですか?」ジルベールはこの言葉に縮み上がった。

「違います、違います。こちらから招待したんですから、どうぞいらっしゃい」

「ではお邪魔します」

「ここを右に、それからこちら、さあここです」

 ジルベールが目を上げると、翳りゆく陽射しの下で、その場所の角、食料品店の上に、「プラトリエール通り(Rue Plastrière)」と書かれてあるのが見えた。

 老人はなおも足取りをゆるめないどころか、家に近づけば近づくほど、それまでにも増して大きく動揺していた。見失うまいとしてジルベールは、通行人、行商人の荷物、四輪馬車や二輪馬車の轅にぶつかった。

 老人はジルベールのことをすっかり忘れてしまったようだった。せかせかと歩きながら、明らかに気がかりな考えに囚われていた。

 やがて老人は上部に鉄格子のついた入口の前で立ち止まった。

 穴から出ている紐を引くと、扉が開いた。

 老人は振り向いて、戸口でぐずぐずしていたジルベールを見た。

「早くいらっしゃい」

 そう言って扉を閉めた。

 すぐ先は暗がりになっており、ジルベールは一歩踏み出しただけで暗く急な階段にぶち当たった。歩き慣れている老人はとっくに何段も上にいた。

 ジルベールは老人に追いつき、老人に倣って階段を上り、立ち止まった。

 そこは擦り切れたマットの敷かれた踊り場で、目の前に二枚の扉があった。

 老人が呼び鈴の握りを引っ張ると、室内で甲高い音が鳴り響いた。スリッパの足音がのろのろと聞こえ、ガラスの付いた扉が開いた。

 五十代前半の女性が戸口に現れた。

 不意に二つの声が混じり合った。一つは老人のもの、もう一つは戸口から現れた女性のものだ。

 老人がおずおずと口を開いた。

「遅くなってしまって、テレーズ」

 女性がぶうぶうと文句を言った。

「夕飯くらい時間通りに取りましょうよ、ジャック!」

「この埋め合わせはするよ」老人はいたわしそうに口にすると、扉を閉めてジルベールの手からブリキの箱を預かった。

「荷物持ちとはね! 結構なことじゃないの。薬草を運ぶのに自分の手をわずらわすことも出来なくなったなんてねえ。ムッシュー・ジャックが荷物持ちを連れて歩くなんて! 立派になったもんだね!」

 ジャック氏と呼ばれてたしなめらた老人は、じっと堪えて暖炉の上に植物を並べながら答えた。「ねえ、少し落ち着こう、テレーズ」

「せめてお金を払うなり追い返すなりしておくれ。ここにスパイはいらないよ」

 ジルベールは死んだように真っ青になって扉をくぐりかけたが、ジャック氏に止められた。

 ジャック氏がきっぱりと告げた。「この人は荷物持ちでも、ましてやスパイでもないんだ。わたしが連れてきた客人だよ」

 老婦人の手がだらりと下がった。

「お客さんですって! お客さんとは恐れ入ったよ!」

「さあテレーズ」老人の声に柔らかさが戻ったが、どことなく威圧的なところも感じられるようになっていた。「蝋燭を灯して。暑かったので喉が渇いた」

 老婦人は初めこそはっきりと聞こえるようにぶつぶつと呟いていたが、そのうち声は小さくなった。

 老婦人は火打ち石を手に取り、火口の詰まった箱の上で打ちつけた。すぐに火花が散り、箱中に火が燃え上がった。

 会話が続いている間も、その後に囁きと沈黙が訪れてからも、ジルベールはじっとしたまま口も利かず、扉の側で固まったまま、戸口を跨いだのを後悔し始めていた。

 ジルベールが困っていることにジャック氏が気づいた。

「どうぞお入り下さい、ジルベールさん」

 夫がやけに丁寧な口を利いている人物をよく見ようとして、老婦人はその若く陰気な人物を振り返った。そのため、銅製の燭台の上で燃え始めたばかりの乏しい蝋燭の光の中で、ジルベールは老婦人を見ることが出来た。

 皺の刻まれた赤らんだ、ところどころに悪意の滲んだ顔。目つきは快活というよりは激しく、激しいというよりは淫乱だった。品のない顔には表向き優しそうな表情が浮かんでいたが、その顔つきは声や応対を裏切っており、ジルベールは一目で激しい嫌悪を抱いた。

 老婦人の方でも、ジルベールの青白くて弱々しい顔や、用心深く押し黙っているところや、ぎこちない様子がまるで気に入らなかった。


 続く。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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