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『ジョゼフ・バルサモ』第46章-1 「ジャック氏の正体」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十六章 ジャック氏の正体

 ジルベールが意気込んで取りかかると、丁寧に写された音符で紙は埋められていった。ジャック氏はしばらく様子を見ていたが、やがてもう一つの机で、豆を包んでいたのと同じような印刷物の校正を始めた。

 こうして三時間が経ち、掛け時計が九時を打った時、テレーズが駆け込んで来た。

 ジャック氏が顔を上げた。

「ほら急いで! 部屋に来て下さい。大公がいらっしゃいましたよ。殿下たちの行列はいつになったら終わるんでしょうねえ? あの日のシャルトル公爵みたいに、昼食を一緒に取りたいだなんて気まぐれを起こしてくれなければいいんだけれど!」

「どちらの大公です?」ジャック氏が声を落とした。

「コンチ公閣下です」

 この名前を聞いてジルベールは、(当時生まれていたとすれば)ブリドワゾンならソの音符というより染、染みと呼んだであろうものを五線の上に落とした。

「大公、殿下!」とジルベールは呟いた。

 ジャック氏は笑みを浮かべてテレーズの後ろから部屋を出て扉を閉めた。

 ジルベールは辺りを見回し、一人になったことに気づいて狼狽えて顔を上げた。

「僕は何処にいるんだ? 大公に殿下がジャック氏の家に? シャルトル公やコンチ公閣下が写譜屋の家に?」

 ジルベールは扉に近づき聞き耳を立てた。心臓が割れるようだ。

 ジャック氏と大公は既に挨拶を交わし終えていた。大公が口を開いた。

「一緒に来てもらえないだろうか」

「どういったご用件でしょうか?」ジャック氏が答える。

「王太子妃に紹介したくてね。哲学の新時代の幕開けだよ」

「お申し出はありがたいのですが、お供することは適いません」

「しかし六年前はフォンテーヌブローでポンパドゥール夫人にご同行したではないか?」

「六年前は若かったのですから。今では足腰が立たないため、椅子から離れられなくなりました」

「人間嫌いのため、だな」

「だとすると、そのために時間を割こうと思うほど世間に関心を持つわけがないではありませんか?」

「うん。いや、サン=ドニや大典礼に連れて行くつもりはない。王太子妃殿下が明後日の夜に泊まるラ・ミュエットに来て欲しい」

「では妃殿下は明後日サン=ドニに?」

「お付きを連れてね。いや、二里などあっという間だ、大きな混乱は起きない。聞くところによると、大公女は大した音楽家らしい。グルックに教わっていたそうだ」

 ジルベールはそれ以上は聞いていなかった。「妃殿下は明後日サン=ドニに」とい言葉を聞いて、一つのことを考えていた。つまり、明後日にはここから二里のところにアンドレがいるのだ。

 そう思うと、強い光の当たった鏡を見たようにくらくらとした。

 二つの感情のうち、強い方がまさった。愛情が好奇心を退けた。この部屋には空気が足りない。不意にそう感じて窓を開けようと駆け寄ったが、窓には内側から南京錠が下りていた。恐らくジャック氏の書斎で起きていることを向かいの部屋から見られないようにするためだろう。

 ジルベールは椅子に戻った。

「盗み聞きなんかもうやめだ。ブルジョワの秘密なんて嗅ぎ回るもんか。大公が友人扱いしたうえに、未来のフランス王妃に紹介しようとした人か。王太子妃だって皇帝の娘で、アンドレが跪かんばかりにしていた人だ。

「だけど聴いていれば、アンドレのことがわかるかもしれない。

「駄目だ駄目だ。それじゃしもべと一緒じゃないか。ラ・ブリもよく戸口で耳を澄ませていただろう」

 ジルベールは勇気を振り絞って壁から離れた。手は震え、目は霞んでいた。

 何かで気を紛らせたい。とてもではないが写譜などはやっていられない。ジャック氏の机上にある本を手に取った。

「『告白』」題名を読んで意外な喜びに打たれた。「昨夜、貪るように何ページも読んだ本だ。

「著者肖像画付き。

「ルソー氏の肖像画か! どんな顔なんだろう。見てみよう」

 版画を覆っていた薄紙をめくるのももどかしく、現れた肖像画を目にしてジルベールは声をあげた。

 その瞬間、扉が開いて、ジャック氏が戻って来た。

 ジルベールはジャック氏の姿と手にしている肖像画を見比べた。身体が震えて両腕からは力が抜け、本を落として呟いていた。

「今、僕はジャン=ジャック・ルソーの家にいるんですね!」

「上手く写せたか見てみましょうか」微笑んだジャン=ジャックは、輝かしい人生で経験した幾百の勝利よりも、この思いがけない称讃を喜んでいるようだった。

 震えているジルベールの前を通り過ぎて、机に近づき紙を眺めた。

「音符はよく書けていますね。欄外を忘れていますよ、それから、一続きの音符をきちんと一本の線で結んでいませんね。おや、この小節には四分休符が足りません。それにほら、小節の線が曲がっています。二分音符も半円二つで書いて下さい。音符は厳密にくっついていなくとも構いません。音符の玉がどれも不格好ですし、旗もきちんとくっついていませんね……ええ、その通りです、あなたはジャン=ジャック・ルソーの家にいるのですよ」

「ああ! 馬鹿なことをいろいろとしゃべってしまって申し訳ありませんでした」ジルベールは両手を合わせて土下座しようとした。

「ではわからなかったのですね」ルソーは肩をすくめた。「大公がここに来ない限り、目の前にいるのが迫害された不幸なジュネーヴの哲学者だということに気づかなかったのでしょうか? 可哀相に、迫害を知らぬとは幸せなことです!」

「ええ! ええそうです。僕は幸せです、死ぬほど幸せなんです。でもそれはあなたに会えたからで、あなたと知り合えたからで、あなたの側にいるからなんです」

「ありがとう。ですが幸せだけがすべてではありませんよ。働かなくては。練習が終わったのでしたら、今度はこの輪舞曲を楽譜に写して下さい。短いのでそれほど難しくはありません。何よりきれいですから。それにしても、どうしてわかったのですか……?」

 ジルベールは胸を震わせ、『告白』を拾ってジャン=ジャックの肖像画を見せた。

「なるほど、そうでしたか。『エミール』の第一ページにあった肖像画は燃やされてしまいましたからね。もっとも、明るく照らすのであれば、太陽の光であれ焚書の光であれさして違いはありませんが」

「おわかりになりますか? まさかこんなこと、あなたのおそばで暮らせるなんてこと、夢にも思いませんでした。そうしたかった気持と比べたら野心だって些細なものでした」

「恐らくわたしの側で暮らすことにはならないでしょう」とジャン=ジャックが言った。「わたしは弟子を取りませんから。客人として遇するにも、もてなしたり、ましてや住み込みさせたり出来るほど豊かでないのはご覧になった通りです」

 震えるジルベールを見て、ジャン=ジャックは手を握った。

「ですが、がっかりすることはありませんよ。あなたと出会ってからいろいろと観察させてもらいました。あなたには悪いところもありますが良いところもたくさんあります。直感に反する意思と戦い、自惚れをこらえて下さい。哲学者を蝕む害虫ですから。では楽譜を写しながら時機を待っていて下さい」

「ああ、何が起きているのか考えるとくらくらします」

「しかし、ごく当たり前で自然なことしか起きてはいませんよ。当たり前のことこそが心根と知性を揺れ動かすのは事実ですがね。あなたは何処かから逃げていました。わたしはそれが何処なのか知りませんし、あなたが隠していることを根ほり葉ほりたずねたりもしませんでした。あなたは森を抜けて逃げていました。そして森の中で、植物を採集している男に出会った。その男はパンを持っており、あなたは持っていなかった。ですからその男は二人でパンを分けました。何処で休めばいいかもわからないあなたに、その男は寝床を貸しました。その男はルソーという名だった、それだけのことです。そしてその男はあなたにこう伝えるのです。

「哲学者の第一条、

「人間よ、自ら給して自ら足らん。

「そういうわけですから、この輪舞曲を写し終われば、今日の糧を手に入れていることでしょう。さあ写して下さい」

「ご親切ありがとうございます!」

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