翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 46-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「それにねぐらもあなたのものです。ただし、夜中に本を読むのは止して下さい。蝋燭を使うのであればご自分で用意することです、さもないとテレーズに叱られますよ。それはさておき、お腹は空いていませんか?」

「いえ、結構です!」ジルベールは息を呑んだ。

「朝食べる分くらいなら昨日の夜食が残っていますから、遠慮はなさらずに。これからも友人でいられるのなら、招待した時は別として、わたしと食事をするのはこれが最後ですよ」

 ジルベールが合図しかけたが、ルソーは頭を振ってそれを遮った。

「プラトリエール通り(rue Plâtrière)には労働者のための食堂があるんです。話を通しておきますから、安い値段で食べることが出来ますよ。今日のところは、では食事にしましょうか」

 ジルベールは何も言わずにルソーに従った。恭順したのは人生で初めてのことだった。従ったのがほかの人間よりも優れた人間であるのは確かだったが。

 ジルベールは数口食べると卓子を離れて仕事に戻った。先ほどの言葉に嘘はなかった。衝撃のあまり胃が縮こまってしまい、何も受けつけなかったのだ。一日中ずっと譜面から目を上げず、午後八時頃、紙を三枚反故にしてからようやく四ページの輪舞曲をきれいに写し終えることが出来た。

「お世辞を言うつもりはありません」とルソーは言った。「出来はまだまだですが、読みやすいですね。これなら十スーになりますよ、これをどうぞ」

 ジルベールはお辞儀して十スー受け取った。

「戸棚にパンが入ってますよ、ジルベールさん」とテレーズが言った。ジルベールの慎み、優しさ、勤勉さに好印象を抱いたのだろう。

「ありがとうございます。お心遣いは決して忘れません」

「ほら、これですよ」テレーズがパンを手渡した。

 ジルベールは断ろうとした。だがジャン=ジャックの眉が鋭い目の上でひそめられ、薄い唇がひきつり始めたのを見て、断れば傷つけることになるのだと気がついた。

「ありがとうございます、遠慮なくいただきます」

 そう言って小部屋から退出した。手にはジャン=ジャックからもらったばかりの六スー銀貨と四スー銅貨が握られていた。

 ジルベールは屋根裏に入りながら思った。「結局、僕は僕の主人なのだろうか。いや、まだかな。こうして善意でパンをもらったのだから」

 腹が減ってはいたが、パンには手をつけずに天窓の窓敷居の上に置いた。

 眠れば空腹も紛れようと思い、蝋燭を吹き消して藁布団を広げた。

 翌日――ジルベールは一晩中ほとんど眠れなかったのだが――翌日、朝日が顔を出した頃には目を覚ましていた。そう言えば、窓に面した庭のことをルソーが話していたっけ。天窓から身を乗り出すと、話通り美しい庭の木々が目に飛び込んで来た。木々の向こうには庭の所有者の家が聳えており、家の入口はジュシエンヌ通りに面していた。

 若木や花々で彩られた庭の一隅に、鎧戸の閉じた小さな建物が立っている。

 初めのうちは、鎧戸が閉まっているのは時刻のせいだと思った。住人がまだ目を覚ましていないのだろう。だが木々の葉が鎧戸にぴったりくっついているのを見ると、少なくとも冬から人が住んでいないらしい。

 そこで母屋の手前にある美しい菩提樹に目を戻した。

 空腹が募って、前夜テレーズがくれたパン切れに何回か目を走らせた。だがそのたびに、食べたい気持を抑え、パンには手をつけなかった。

 五時の鐘が鳴った。門が開く頃だろう。顔を洗い、ブラシを掛け、髪をとかし――ジャン=ジャックが屋根裏に用意してくれたおかげで、ささやかな洗面所には日用品が揃っていたため――ジルベールは顔を洗い、ブラシを掛け、髪をとかし、パンを手に下に降りた。

 ルソーは今朝は起こしに来なかった。恐らく疑いが募ったためと、ジルベールの習慣をよく確かめるためであろう、昨夜は扉を閉めずにいて、降りてきたのを耳にして様子を窺った。

 ジルベールがパンを抱えて出て行くのが見えた。

 乞食が近づいて来たのを見て、ジルベールはパンを与えると、自分は開店したばかりのパン屋に入ってパンを一切れ購入した。

 ――今度は弁当屋に向かうのだな、とルソーは考えた。――そこでなけなしの十スーを使うのだろう。

 ルソーは間違っていた。ジルベールは歩きながらパンを食べ、街角の水汲み場で立ち止まり、水を飲んだ。パンの残りを口に入れ、また水を飲み、口をすすぎ、手を洗うと、来た道を引き返した。

「何てことだ」とルソーは呟いた。――わたしはディオゲネスよりも運がいい。人間を見つけたようだ。

 階段を上るジルベールの足音が聞こえ、ルソーは慌てて扉を開けに行った。

 一日が仕事に追われて過ぎた。ジルベールは単調な写譜作業を、気合いを入れ、頭を働かせ、極めて熱心に片づけていった。わからない部分は見当を付けた。鉄の意志に突き動かされ、手は躊躇なく、間違えることもなく記号を描いた。努力の甲斐あって夕方頃には七ページまで進んでいた。無骨ではあったがよく出来ている。

 ルソーが判事や哲学者のように仕事ぶりを確認した。判事のように音符の形や線の出来、休符や丸の間隔をあげつらった。だが昨夜よりも格段に上手くなっているのは目に見えていたので、ルソーはジルベールに二十五スー渡した。

 ルソーは哲学者のように人間の意思の力を讃えた。恐らく十二時間休みなく働いていたのだ。この十八歳の若者は、しなやかで弾力のある身体や、情熱的な意思を持っている。そうだ、ルソーにはすぐにわかった。この若者の胸には激しい情熱が燃えている。だがそれが野心なのか愛なのかはわからない。

 ジルベールは手の中にあるお金の重さを確かめた。二十四スー貨と一スー貨。一スー貨を上着のポケットに入れた。中にはまだ前夜のお金も残っていたはずだ。右手には二十四スー貨を嬉しそうに握り締めていた。

「考えたのですが、あなたは僕の主人です。あなたのところで仕事を見つけたうえに、只で宿まで貸してくれているんですから。だから、何をするのかを伝えずに行動したら、きっと気を悪くなさるでしょうね」

 ルソーが怯んだような目つきをした。

「いったい何をするつもりなのです? 明日は働かずにほかのことをするつもりなのですか?」

「はい、許していただけたなら、明日は自由に行動したいんです」

「理由を聞いても構いませんか? さぼるわけではありませんよね?」

「僕は」とジルベールが言った。「サン=ドニに行きたいんです」

「サン=ドニですか?」

「はい。王太子妃が明日サン=ドニにいらっしゃるので」

「ああ、なるほど。明日、サン=ドニで王太子妃の歓迎会がありますね」

「それです」

「あなたがそんなに物見高いとは思いませんでした。きらびやかな絶対権力など軽蔑しているように見えたのですが」

「それは……」

「わたしをご覧なさい、あなたはたびたびわたしのことを手本にしているようなことを口にしていたでしょう。昨日、大公がここに来てわたしを宮廷に招きました。国王の馬車が通り過ぎるのをあなたのように近衛兵の肩越しに爪先立って眺めるためではなく、王子(大公)の御前に出たり、王女(大公女)の微笑みを見るためです。サン=サクルマン教会のためにしたように国王の馬車は武器を向けられるでしょうが、それはともかく。わかりますか、この哀れな市民が、大貴族の招待を断ったんですよ!」

 ジルベールはうなずいた。

「なぜ断ったのだと思います?」ルソーは激昂していた。「人間が二心を持つことは許されないからです、王権の濫用を記したこの手が、国王の寵愛を求めに行くわけにはいかないからです。わずかな安心感がかろうじて人々に叛乱を思い留まらせているというのに、祝宴がその安心感を奪い去ってしまうから、だからわたしは祝宴をすべて欠席することで抗議しているのです」

「あなたの哲学に高潔なところがあるのは以前からわかっていました。そのことは信じて下さい」

「そうなのでしょうね。ですが身を以て示していただかないと、こんなふうに言うのは失礼でしょうが……」

「ごめんなさい、僕は哲学者ではないんです」

「ではせめて、何をしにサン=ドニに行くのか教えてもらえますか」

「僕は口が堅いつもりです」

 この言葉にルソーは打ちのめされた。強情の裏には秘密が隠されているのだと悟り、感銘を受けたようにジルベールを見つめた。

「わかりました。理由があるのですね。そちらを尊重しましょう」

「そうです、理由があるんです。お祭りを見たがるような好奇心とは無関係なんです」

「それならいいでしょう、いえ、残念なことかもしれません。あなたの目の奥は何処までも深く、若さゆえの純心さも穏やかさも見つからないのですから」

「申し上げたように」とジルベールは悲しげに答えた。「僕は不幸でした。不幸な人間には若さなどなかったんです。そういうわけですから、明日一日は空けてもらえないでしょうか?」

「いいでしょう」

「ありがとうございます」

「それでは、あなたが目の前を過ぎてゆく素晴らしい光景を眺めている間に、わたしは植物を調べて自然の素晴らしさを確かめることにしますよ」

「さくらんぼの房をガレー嬢の胸に放り投げた後で、もう一度会いに行く日には、地面の草など放ったらかしだったのではないでしょうか?」

「結構です。確かにあなたは若い。サン=ドニにお行きなさい」

 ジルベールが上機嫌で出て行き、扉を閉めた。

「野心ではなく、愛でしたか!」ルソーは呟いた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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