翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 50-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十章 悪魔憑き(La possédée)

 馬車の喧噪が響き渡り、鐘の音が次々と鳴り響き、太鼓が上機嫌に轟き渡り、あらゆるものが華やかさに満ちていたにもかかわらず、世俗の華やかさの余波もすっかり失われ、マダム・ルイーズの魂には何の影響も与えず、部屋の壁の隙間に絶え入る流れのように消えていった。

 国王は父として王として、即ち命令とも懇願ともつかぬ笑いを見せて、娘を世俗に連れ戻そうと無駄な努力を重ねた後で、出立した。王太子妃は叔母の紛れもない気高さに一目で感動し、取り巻きを引き連れて退散した。二人が立ち去るとカルメル会の修道院長は窓掛を降ろさせ、花を持ち去らせ、レースを外させた。

 修道院中がいまだ感動に包まれていたが、世俗に向かって一時的に開かれた重い扉が、重たげな音を立てて世俗と陸の孤島とを再び閉ざしても、修道院長だけは眉をひそめなかった。

 しばらくしてから会計係を呼んだ。

「この二日間は混乱していましたが、貧しい人々にはいつも通り施しを与えていましたか?」

「はい、院長様」

「病人たちのところを普段のように見舞っていましたか?」

「はい、院長様」

「兵隊たちには気持ちよく帰ってもらいましたか?」

「院長様が用意させておいたパンとワインを全員が受け取りました」

「ではこの家には何の問題もありませんね?」

「ございません」

 マダム・ルイーズは窓辺に近寄り、宵間近の湿った翼《よく》の庭から立ちのぼる香しい冷気を静かに吸い込んだ。

 会計係は修道院長から命令かお許しの出されるのを恭しく待っていた。

 目下マダム・ルイーズが何を考えているのかは神のみぞ知る。窓辺まで伸びていた茎の長い薔薇と、中庭の壁を覆っていた耶悉茗《ジャスミン》をむしっていた。

 不意に、共同門の辺りを揺るがす荒々しい馬の蹄の音が聞こえ、修道院長はびくりとした。

「まだサン=ドニに残っていた貴族がいらしたのですか?」マダム・ルイーズがたずねた。

「ロアン枢機卿猊下がいらっしゃいます」

「馬をここに置いているのですか?」

「いいえ、夜の間は参事会室に入れることになっております」

「ではあの音はなんでしょうか?」

「客人の馬が立てている音でございます」

「客人ですか?」マダム・ルイーズは記憶を探った。

「昨晩殿下に庇護をお求めになったイタリアの女性です」

「ああ、そうでした。今何処に?」

「部屋か教会堂でしょう」

「昨日から何をしていたかわかりますか?」

「昨日から、パンのほかは何も摂らずに、一晩中礼拝堂で祈っておりました」

「恐らく重罪人なのでしょう」修道院長は眉をひそめた。

「私にはわかりません。誰とも話をしないのです」

「どんな方ですか?」

「お美しく、顔には優しさと誇り高さが同居しておりました」

「今朝の儀式の間は何処にいましたか?」

「お部屋の窓辺にいるのを見かけました。窓掛の陰に身を隠すようにして、不安そうな目で一人一人を見つめておりました。その中に敵がいるのを恐れてでもいるようでした」

「わたくしがこれまで生きて、また治めてきた世俗には、そういう女の方がおりました。入ってもらいなさい」

 会計係は立ち去ろうとして足を踏み出した。

「ああ、その方のお名前は?」王女がたずねた。

「ロレンツァ・フェリチアーニ」

「知らない方ね」マダム・ルイーズはぼそりと呟いた。「構いません。お招きして下さい」

 修道院長は百年ものの椅子に腰を下ろした。木楢で出来たその椅子はアンリ二世時代に作られたもので、ここ九代の修道院長が腰を下ろして来た。

 その恐ろしい法廷の前で、教会と世俗の間に挟まれた哀れな修道女たちが恐れおののいて来たのだ。

 しばらくすると会計係が、長いヴェールをかぶった客人を連れて入って来た。

 マダム・ルイーズは一族に特有の鋭い目を持っていた。部屋に入って来たロレンツァ・フェリチアーニをその目で見据えた。ところがこの女性があまりに謙虚で淑やかで崇高な美を持っていることに気づき、さらにはつい先ほどまで涙で濡れていた黒い目には何の汚《けが》れも見られないことに気づいた。こうした性質を目にして、初めこそ反感を抱いていたマダム・ルイーズも、好意的で親身な気持を抱き始めた。

「こちらへ来てお話し下さい」と王女が言った。

 若い女性は震えながら近づき、跪こうとした。

 王女がそれを遮った。

「ロレンツァ・フェリチアーニと仰るのですね?」

「はい、院長様」

「秘密を告白なさりにいらしたのですか?」

「是が非でも告白したいのです!」

「でもどうして告解の場で助けを求めないのですか? わたくしには慰めの言葉をかけることしか出来ませんよ。司祭なら慰めと許しを与えてくれます」

 マダム・ルイーズはこの最後の言葉を躊躇いがちに口にした。

「必要なのは慰めだけです」とロレンツァが答えた。「それに、私の話というのは、女性の方にしか申し上げられない話なんです」

「では異常な話なのでしょうか?」

「とても異常なこと。でも我慢してお聞き下さい。何度も申しますが、あなたにしかお話し出来ないことなんです。あなたは絶大な権力をお持ちです、私を守ってくれるには神の力にも等しい力が必要なんです」

「守ると言いましたか? では誰かに追われているのですか? 誰かに襲われたのですか?」

「そうです! 追われているんです」ロレンツァは筆舌に尽くしがたい恐怖の叫びをあげた。

「よくお考え下さい。この家は修道院であって要塞ではありません。人の心を騒がせる(脅かす)ものは何一つ入り込みませんし、入ったとしても消えてしまいます。それに他人のお役に立てるようなものは何一つ見つけることが出来ません。ここは正義の家でも武力や弾圧の家でもなく、神の家に過ぎないのです」

「神の家! 私が求めているのは神の家にほかなりません。神の家でなら、安心して過ごすことが出来ますもの」

「ですが神は報復をお認めになりません。追っ手に対してわたくしたちにどうしろと仰るのですか? 司法官にお話し下さい」

「私が恐れている者に対して、司法官では何も出来ません」

「何者なのです?」修道院長は我知らず胸の内に恐怖を覚えた。

 ロレンツァは謎めいた昂奮に駆られて王女に近づいた。

「何者かと仰るのですか? きっと人をたぶらかす悪魔の一人に違いありません。長であるサタンから人智を越える力を授かった悪魔です」

「何を仰っているのですか?」目の前の女は果たして正気なのかと、目を注いだ。

「それに私ほど不幸な人間はいないでしょう!」ロレンツァは、彫像をかたどったような美しい腕をねじって叫んだ。「あの人の行く手には私がいる定めなんです! それに私は……」

「どうか続きを」

「私は悪魔憑きなんです!」と囁いた。

「悪魔憑き? 良識はお持ちでしょう、よもや……?」

「狂っていると言いたいのですか? いいえ、私は正気です。でもあなたに見捨てられれば、きっと狂ってしまうでしょう」

「悪魔憑きとは!」王女が繰り返した。

「どうにもならないのです!」

「そうは言いましても、失礼ですが、神の恩寵を受けた方々と変わらないように見えます。お金にも困っているようには見えませんし、お美しく、筋道の通った話し方をなさるし、顔にも悪魔憑きと呼ばれる恐ろしい病気の跡はまったく見つかりませんよ」

「私の人生には、私が経験して来た出来事には、自分自身からも隠しておきたい忌まわしい秘密があるのです」

「説明して下さいませんか。わたくしに真っ先に悩みを相談するべきでしょうか? ご両親やご友人は?」

「両親ですって!」苦痛に喘ぐようにして十字を切った。「いつかまた会えることがあるというのですか? それに友人たち?」苦しそうに付け加えた。「私に友人がいるというのですか?」

「では順を追ってお話しすることにしましょう」マダム・ルイーズの方から話の道筋をつけようと努めた。「ご両親はどんな方で、どうして離ればなれになったのですか?」

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 07 | 2017/08 | 09
    S M T W T F S
    - - 1 2 3 4 5
    6 7 8 9 10 11 12
    13 14 15 16 17 18 19
    20 21 22 23 24 25 26
    27 28 29 30 31 - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2017年08月 (2)
  • 2017年07月 (5)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH