翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 50-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「私はローマ人です。両親とローマに住んでいました。父は古くからの貴族でしたが、ローマ貴族の例に洩れず貧しい人でした。それから母と兄がいました。聞くところによると、フランスでは私たちのような一家に息子と娘がいる場合、息子の剣を買うために娘を犠牲にするそうですね。私たちの家では、息子を聖職者にさせるために娘を犠牲にしました。兄に教育を受けさせる必要があったため、私は教育を受けることも出来ず、兄は母の言いなりに枢機卿を目指して勉強に勤しんでいました」

「それからどうなりました?」

「それから、両親は兄を援助するために犠牲に出来ることならすべて犠牲にしたのです。私はスビアーコのカルメル会修道院に行かされることになりました」

「それに対してあなたは何と?」

「何も。小さな頃から、将来はそうせざるを得ないと教えられてきましたから。私には何の力も意思もありませんでした。意見など求められずに命令されて、それに従うほかなかったんです」

「しかし……」

「私たちには、私たちローマの娘には、祈ることと従うことしか出来ませんでした。地獄に落とされた人々が見たこともない天国に憧れるように、私たちは世界に憧れていたのです。もっとも、抵抗しようと考えれば罰を受けることは見せつけられていましたし、そうする気持も起こりませんでした。友人たちにもみんな兄弟がいましたから、家族のために犠牲を払っていました。私には不満を洩らす理由などないのでしょう。しきたりを破ることなど誰も望んではいませんでした。別れ別れになる日が近づいて来ると、母は少しだけ強く抱いてくれました。

「とうとう修練期がやって来て、父は修道院に支払う五百ローマン=エキュの持参金を集め、私たちはスビアーコに旅立ちました。

「ローマからスビアーコまでは八、九里の距離でした。ところが歩きづらい山道だったため、九時間かかってようやく三里しか進めませんでした。でもひどい旅にもかかわらず、私には嬉しかったんです。こうした幸せも最後だと思って微笑みかけながら、道ばたの木々や藪や石、枯れた草花にさえこっそりと別れを告げて歩いていました。その修道院に草花や石ころや藪や木々があるとは限りませんものね!

「私がそうやって空想に耽りながら、小さな森やひびだらけの岩場を通り過ぎていた時でした。突然馬車が止まり、父が声をあげるのが聞こえました。父が拳銃をつかもうとしました。私の目も心も天から地上にすっかり引き戻されました。私たちは山賊に捕まっていたのです」

「ひどい体験でしたね」マダム・ルイーズはこの物語に徐々に興味を惹かれていた。

「話を続けましょうか? 私はそれほど怖くはありませんでした。馬車を止めたのはお金が目的に決まっていますし、修道院に払うための持参金がありましたから。持参金がなければ、父がまたお金を作るまでの間は修道院入りを遅らせられるはずでした。五百エキュかき集めるのにどれだけの苦労と時間がかかったのか知っていましたから。

「ところがお金を分捕った山賊は、私たちの馬車を解放するどころか、私に向かって襲いかかって来たのです。私を守るために父が必死で抵抗し、母が涙を流して哀願するのを見て、経験したこともないような恐ろしい危険に襲われているのだと悟り、普通なら助けを呼ぶところでしたが、私は慈悲を請うて叫んでいました。助けを呼んでも無駄なことはわかっていましたし、そんな寂しい場所では誰にも聞こえないことはわかっていましたから。

「事実山賊たちは私の叫びも母の涙も父の抵抗も気に留めず、後ろ手に縛り上げた私をおぞましい目つきで眺め回しているのが、恐怖のあまり神経の張り詰めていた私にはわかりました。山賊たちはポケットから骰子ダイスを取り出し、手巾の上で賭けを始めました。

「私はますますぞっとしました。汚らしい敷物の上には、賭け物など一つもなかったんです。

「手から手に骰子が回されている間中、私は震えていました。賭けられているのは私だとわかったからです。

「突然、山賊の一人が勝ち鬨をあげて立ち上がり、仲間が悪態をついて歯軋りしているのを尻目にこちらに駆け寄り、私を抱き寄せ口唇を押しつけました。

「真っ赤に焼けた鉄を押しつけられたとしても、あれほど苦悶に満ちた声は出せなかったでしょう。

「『やめて!』と私は叫びました。

「母は地面をのたうち、父は気を失いました。

「もう祈ることしか出来ませんでした。賭けに負けた山賊の誰かが怒りに駆られてナイフを握って殺してくれたらどんなにありがたかったか。

「私はナイフの一突きを待ちました、願いました、祈りました。

「その時、馬に乗った男が小径に現れたんです。

「男が見張りに何か囁くと、見張りは合図して道を開けました。

「背丈は人並みで、貫禄のある顔つきをして、意志の強そうな目つきをした男です。落ち着き払って馬を並足で進めていました。

「私の前まで来ると、男は馬を止めました。

「腕をつかんでいた山賊は私を連れて行きかけていましたが、男が鞭の柄を鳴らすとすぐに振り返りました。

「山賊は腕から私をずり落としました。

「『ここに来い』と男が言いました。

「山賊は躊躇っていましたが、男が腕を曲げて胸の上で二本の指を広げると、それが絶対服従の合図だったのでしょうか、山賊は男に近づいて行きました。

「男は山賊の耳元に口を寄せ、小声で囁きました。

「『Mac』

「その一言だけでした。間違いありません。これから自分に突き立てられる短刀を見るように目を凝らしていましたし、自分の生死を決める言葉を聞くように耳をそばだてていましたから。

「『Benac』と山賊が答えました。

「それから獅子のように服従して吼えると、私のところまで戻って、手首を縛っていた紐をほどき、父と母の腕もほどきに行きました。

「既に山分けされていたお金も、一人一人が石の上に戻しています。一エキュも欠けずに五百エキュありました。

「そうしている間にも父と母の腕も自由になりました。

「『よし、行け……』男が山賊たちに命じました。

「山賊たちはその言葉に従い、一人残らず森の中に戻って行きました。

「『ロレンツァ・フェリチアーニ』男は人間とは思えないような目つきで私を包んでいました。『先に進むがいい。お前は自由だ』

「私たちはその男のことを知らないのに、男の方では私の名を知っていたのです。父と母は礼を言って、馬車に戻りました。私も後に従いましたが、足はなかなか進みませんでした。というのも、助けてくれた男の不思議な魅力に抗えなかったのです。

「私たちを守り続けようとでもするように、男はそのままの場所で動かずにおりました。

「私は見えなくなるまで男を見つめていたのですが、男の姿が見えなくなってようやく、胸を締めつけるような威圧感が消え去りました。

「二時間後、私たちはスビアーコに到着しました」

「その男は何者だったのですか?」ロレンツァの語った物語があまりにあっけなかったため、王女がたずねた。

「続きを聞いていただけますか。まだすべては終わってはいなかったのです!」

「お聞きいたしましょう」

 ロレンツァは話を続けた。

「道中、父と母と私は、あの突然現れた不思議な救い主の話ばかりしていました。天の遣いのように謎めいていて力強かったと。

「父は私ほど無邪気ではありませんでしたので、ローマ辺りに散らばっている何処かの盗賊団の長なのではないかと疑っていました。同じ組織に属している盗賊団を折にふれて視察に来るまとめ役で、褒美を取らすも罰するも分け前を取らすも自由な絶対権力を付与されているのではないかということでした。

「でも父には人生経験でこそ勝てませんが、私は直感に従い、感謝の念に包まれていたので、あの男が盗賊だとは思いませんでした。いえ、思えなかったのです。

「そこで私は毎晩マリア様に捧げていた祈りの中で、あの見知らぬ救い主に聖母のご加護がありますことを願って祈りました。

「その日から、私は修道院に入ることになりました。持参金は取り戻したのですから、修道院入りを妨げるものはありませんでした。悲しかったし、すっかり諦めていました。敬虔なイタリア人の頭には、染み一つない汚れなき身体のままでいよと主が望まれたのだと感じられたからです。主を措いてははずせない純潔の冠を汚そうとして悪魔が遣わした盗賊たちを、追い払ってくれたのですから。そこで私は修道院長や父母の心尽くしに熱い気持ちで飛び込んでいました。修練期を免除するための教皇宛て請願書を差し出されたので、私はそれに署名しました。それを読んだ教皇聖下が世俗を疎んで孤独を選ぼうとするひたむきな魂を感じてくれるようにと、父が心を尽くして書いたものでした。聖下は請願をすべてお認めになり、一年、人によっては二年の修道期間を、ご厚意により一か月にして下さいました。

「この報せを聞いても、苦しみも喜びも感じませんでした。もはやこの世では死んでいて、動かぬ影だけの残された死体に向かって行われているようでした。

「世俗の魂が捕らえに来るのを避けるために、二週間の謹慎を申し渡されました。二週間後の朝、ほかの修道女と共に礼拝堂に行くように命じられました。

「イタリアでは修道院の礼拝堂は公教会のものでした。主とお会い出来る場所で主を独占することが司祭に許されているとは、よもや教皇も思われないでしょう。

「私は内陣に入り、椅子に坐りました。内陣の柵を仕切っている緑の布の間です。もっとも、仕切っているのは形だけのことでしたが。身廊と内陣の境目には充分な空間がありましたから。

「地上に与えられたとでも言うべきその空間から、額ずいた人々の中にただ一人立ったままでいる人間が見えました。その人は私を見ていた、いいえ目で貪っていました。その時、以前に感じたことのあるのと同じ不安を感じたのです。兄が紙や薄板や厚板越しさえ磁石で針を引きつけるのを見たことがありましたが、ちょうどそれと同じように超人的な力に操られるかのようでした。

「ああ! この魅力に抗う術もないままに打ち負かされて引き寄せられ、主に祈るように手を合わせて、口と心の両方でこう呟いていたのです。

「『ありがとうございます!』

「修道女たちが驚いて見つめましたが、私の行動も言葉も理解出来なかったので、手と目と声の先を目で追い、椅子から背伸びして身廊を見つめていました。私も見つめたまま震えていました。

「男は消えていたんです。

「修道女たちからいろいろたずねられましたが、赤らんだり青ざめたりして口ごもるしかありませんでした。

「それ以来です」ロレンツァが絶望に駆られて叫んだ。「それ以来、私は悪魔の力に取り憑かれているんです!」

「そうは仰いましても、人知を越えたところなど見受けられませんよ」と王女は微笑んだ。「どうか落ち着いて続きをお話し下さい」

「私と同じことを感じていないからわからないのです」

「何を感じたのですか?」

「呪縛です。心も魂も理性も、悪魔に取り憑かれてしまいました」

「その悪魔とはもしや恋愛感情ではないのですか」

「愛情であればこんなふうに苦しんだり、心を痛めつけたり、木々を揺する嵐のように肉体を揺らしたり、悪い考えを心に植えつけることはないでしょう?」

「悪い考えとは何ですか」

「聴聞僧に告白すべきだったんですよね?」

「そうでしょうね」

「でも、私に取り憑いている悪魔は、秘密を漏らすなと囁きかけたんです。修道女は修道院に入った際に愛の記憶を世俗に捨てて来たはずですが、主の御名を唱えながらも心に別の名を抱いている人たちも大勢いました。指導僧なら似たような告白を山ほど聞いているはずです。でも私は信心深く内気で無垢だったので、あのスビアーコの旅の日まで、兄以外の男とは一言も口を利いたことがなかったんです。その時まで、他人と二目と目を交わしたことはありませんでした。そんな私が空想してしまいそうになったんです。髪を下ろす前に誰もがかつての恋人と分かっていた逢瀬を、私もその男と分かつことが出来たら、と」

「確かに悪い考えですね」とマダム・ルイーズが言った。「ですが取り憑いている女性にそんな考えを吹き込むだけでしたら、随分と害のない悪魔ですよ。続きをお話し下さい」

「翌日、面会に来た人がいたので降りてゆくと、ローマのフラッティーナ通りに住んでいた女友達がいて、随分と懐かしんでくれました。毎晩一緒におしゃべりしたり歌ったりした仲だったんです。

「その人の後ろ、戸口の辺りに、ヴェールをかぶった男が下男のように控えていました。見向きもされませんでしたが、私の方ではその男を見つめていました。一言も話しかけられなかったけれど、誰なのかはわかりました。あの見知らぬ救い主だったのです。

「何度も感じた不安がまたも心に湧き起こりました。その男に力ずくで征服されたのがわかりました。逃げだそうと抗うこともせずに、男のものになっていました。ヴェールの陰から打ち寄せる不思議な波が、私を惑わせていたのです。口を開くことなく私にしか聞こえない音を用いて、美しい言葉で話しかけていたのです。

「私は持てる力のすべてをふりしぼって、フラッティーナ通りの友人に向かい、一緒にいる男は誰なのかとたずねました。

「知らないという返事でした。夫と来る予定だったのですが、出発直前にその男と帰って来た夫からこう告げられたそうです。

「『スビアーコに連れて行けなくなった。この人に連れて行ってもらいなさい』

「私との再会を待ち切れなかったため、それ以上とやかく言わずにその男と旅をして来たのだと言っていました。

「友人は敬虔な人でしたから、面会室の隅に奇蹟をもたらすと評判の聖母像があるのを見て、帰る前に祈りを捧げずにはいられず、聖母像の前に行って跪いていました。

「その間、男が音も立てず部屋に入りゆっくりと近づいて来ると、ヴェールを割って、私の目を射抜くような強い光を二つの目から放ちました。

「私は話しかけられるのを待っていました。男の言葉を聞きたくて、胸が波のように高くうねっていました。ところが男は柵越しに私の頭上に手を伸ばしただけでした。その瞬間、得も言われぬ恍惚とした感覚に襲われたのです。無限の寂しさに押しつぶされたように目を閉じて、私たちは微笑みを交わしました。そうしているうちに、目的は私に力を及ぼすことだけだったのでしょうか、男は立ち去りました。男が遠ざかるにつれて、徐々に感覚が戻って来ましたが、それでも不思議な幻覚の影響力から逃れることは出来ませんでした。フラッティーナ通りの友人が祈りを終えて立ち上がり、いとまを告げて私を抱き寄せ立ち去った時にも、それは続いていたのです。

「その夜、服を脱いでいると、頭巾の下からたった三行だけの手紙が出て来ました。

「『ローマでは修道女を愛する者は死罪です。あなたに生を捧げる者に、あなたは死を与えるのでしょうか?』

「その日から私は完全に取り憑かれてしまったのです。主を欺き、その男のことしか考えられないことを告白いたしませんでした」

 ロレンツァは自分の口にしたことに怯え、話を止めて、穏やかで知的な王女の顔つきを確かめた。

「そういったことはすべて悪魔の仕業ではありません」マダム・ルイーズ・ド・フランスは毅然として答えた。「不適切な情熱というものです。それに申し上げました通り、後悔の形を取っているのでなければ、世俗の物事をここまで持ち込んではなりません」

「後悔、ですか?」ロレンツァが声をあげた。「涙を流して祈っているのをご覧になりませんでしたか? この男の恐ろしい力から救って欲しいと跪いていたのをご覧になりませんでしたか? それなのに、後悔しているかとたずねるのですか? 後悔という言葉では足りません。私が持っているのは悔悛の気持です」

「ですが、今になっても……」

「お待ち下さい、最後まで聞いて下さい。そのうえで寛大な裁きをお願いいたします」

「寛大と優しさがわたくしに求められているものです。苦しみに向き合うのがわたくしの仕事ですから」

「ありがとうございます! あなたこそ、探し求めていた慰めの天使です。

「私たちは週に三日、礼拝堂で弥撒をあげていましたが、いつもあの男がいました。私は何とか堪えようとしたんです。気分が悪いと言い聞かせました。弥撒に参加しないと決断しました。弱い人間です! 時間が来ると礼拝堂に向かっていたんです。人知を越えた力が意思に働きかけているようでした。あの男が来ていなければ、安らかな気持でいられたでしょう。でも男が近づいて来るのが、私にはわかりました。はっきり口にすることも出来ました。百歩向こう、門を跨いだところ、教会の中、見なくともわかります。男がいつもの場所にたどり着いた瞬間、いつもにも増して敬虔な祈りを捧げようと祈祷書を見つめていようとしたにもかかわらず、私は男の姿を追って祈祷書から目をそらしていました。

「弥撒が長々と続いていたとしても、私にはそれ以上は読むことも祈ることも出来ませんでした。頭も意思も魂も目に注がれ、目はあの男に向けられていました。そのことをわかりながら、主と戦っていたんです。

「初めは見ているのが怖かったのですが、やがてその男が欲しくなり、ついに男の許に駆けつけたいという思いに駆られました。夢でも見ているように、夜の路上で見かけたり、窓辺を通りかかるのを感じているような気分でした。

「こんなことが周りに気づかれないはずがありませんでした。そのことを聞いた修道院長が母に伝えたのです。誓いをあげる日の三日前、世俗に残して来たたった三人の肉親が部屋に入るのが見えました。父、母、兄です。

「もう一度抱擁を交わしに来たのだと言っていましたが、そうでないことはわかりました。一人残った母が私に問いただしたのです。こんな状況では、悪魔に取り憑かれているのもすぐにばれたはずです。すべてを打ち明けるべきだったのに、かたくなにすべてを拒んだのですから。

「晴れて修道女になる日がやって来ました。私は主にすべてを捧げることに対し、期待と恐れの入り混じった奇妙な感情と戦っていました。悪魔が力を試すとしたら、この厳かな瞬間に違いないと感じていたのです」

「その男は一度しか手紙を寄こさなかったのですか?」と王女がたずねた。

「一度だけでした」

「当時、話しかけたりはしなかったのですね?」

「頭の中で話しかけた以外は、一度も」

「手紙を書いたことは?」

「一度もありません!」

「続きを聞かせて下さい。修道女になる日が来たのですね」

「殿下に申し上げましたように、その日、ついに苦しみから解放されるはずでした。誠実であろうとする魂にとって、不思議な穏やかさと、想像を絶するほどの責め苦が混じり合った苦しみでした。いつも思いがけずからかうような形を取って現れるのだという思いに囚われて、そんな思いと戦っている最中を選ぶようにして現れる力に、抵抗できないまま圧倒され始めるのでした。ですからこの厳かな時間こそ、心から待ち望んでいた瞬間でした。主のものになれば、主が守って下さるでしょう。あの男が盗賊から守ってくれたように。盗賊に襲われた時には、主は男を通してしか守っては下さらなかったことを、忘れていたのです。

「そのうちに、儀式が始まりました。教会堂に入った私は、青ざめて不安に憂えてはいましたが、いつもほど動揺してはいませんでした。父、母、兄、フラッティーナ通りの友人、ほかにもたくさんの友人たちの姿が見えました。私の美しさを聞きつけて、隣村の住人も駆けつけていました。美しい殉教を、と言った方が主のお気に召すでしょうか。弥撒が始まりました。

「急いで誓いと祈りを済ませました。教会堂にはあの男がいなかったからです。男がいないと、意思を自分で自由にできることに気づきました。既に司祭が私の許に近づき、キリストの十字架像をおしるしになりました。既に私は唯一絶対の救世主の方へと腕を伸ばしかけていました。その時です。いつものように手足に震えが走り、あの男がやって来たことがわかりました。胸を締めつけるような衝撃を受け、あの男が教会堂に足を踏み入れたのがわかりました。何とかキリスト像から目を離すまいとしましたが、やがて抗いがたい力に吸い寄せられて、祭壇の向かいに目を向けていました。

「男は説教壇の近くに立ち、今までになく刺すような目つきで私を見つめていました。

「その瞬間、私は男に囚われていました。弥撒も、儀式も、祈りも、勝てませんでした。

「儀式に従い何か聞かれているような気がしましたが、答えることはありませんでした。誰かに腕をつかまれ、置物を揺さぶったようにぐらぐらと揺れていたのは覚えています。目の前に掲げられた鋏に日光が反射しました。それでも私は何一つ反応しませんでした。次の瞬間、首筋に金属の冷たい感触を覚え、髪の間で金属の軋む音が聞こえました。

「その瞬間、身体中の力が抜け、身体から抜け出た魂が男の許へ向かうのを感じて、私は敷石の上に横たわっていました。不思議なことに、気絶するというよりは、眠るような感じでした。大きな呟きが聞こえたかと思うと、何も聞こえなくなり、口も利けず、何も感じなくなりました。恐ろしいどよめきが起き、儀式は中断されました」

 王女は思いやるように手を合わせた。

「どうでしょうか?」ロレンツァがたずねた。「こんな恐ろしい出来事ですから、主と人間の敵が関わっているのは明らかではないでしょうか?」

「早まってはなりません」王女は、優しくいたわるような声で答えた。「生まれついての弱さのせいでしかないものを、奇蹟なのだと信じようとしてはいませんか。その男を見て気を失った。それだけのことです。続きをお話し下さい」

「どうか、どうかそんな言い方はなさらないで。せめて判断するのは、話を聞き終えてからにして下さい。奇蹟などないと仰るのですか? でもでしたら、私は気絶してから十分、十五分、一時間で意識を取り戻していたのではありませんか? 修道女たちに囲まれて、勇気と信仰を取り戻していたのではないでしょうか?」

「そうでしょうね。まさか、すると、そうはならなかったのですね?」

「お聞き下さい」ロレンツァは早口で囁いた。「意識を取り戻すと、夜になっていました。しばらく激しく動いたようなぐったりした気分でした。てっきり教会堂の穹窿の下か、僧房の垂れ幕の下にいるとばかり思って、頭を上げました。目に映ったのは岩山、木々、雲でした。それなのに、顔には暖かい息がかかっていたものですから、看護係の修道女がいたわってくれているのだと思い、お礼を口にしようとしたところ……私の頭は男の胸に預けられており、その男こそあの恐ろしい男だったんです。自分が生きているのか知りたくて、或いは目が覚めているのかわからなくなって、自分の身体を見回し手で触れて確かめてみました。途端に叫びをあげていました。私は白い服を身につけ、頭には白薔薇の冠をいただいていたのです。花嫁のように。それとも死者のように」

 王女が悲鳴をあげ、ロレンツァは両手で顔を覆った。

 ロレンツァは泣きながら話を続けた。「翌日になってから、どれだけ時間が経っているのか確認しました。その日は水曜日でした。つまり私は三日間も意識を失っていたことになります。その三日の間に何が起こったのか、自分ではまったくわからなかったのです」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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