翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第51章「フェニックス伯」

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十一章 フェニックス伯

 二人の女性の間に深い沈黙が降りていた。一人が苦悶に満ち、一人が驚きに打たれていたことは、容易にご理解いただけよう。

 ようやく、マダム・ルイーズが初めに沈黙を破った。

「では、あなたはこの誘拐に何一つ手を貸していないのですね?」

「一切ありません」

「どのように修道院から連れ去られたのかわからないのですね?」

「私にはわかりません」

「そうは言うものの、修道院の戸締まりや防犯はしっかりしております。窓には格子が嵌っておりますし、塀を越えることも難しいでしょうし、受付口係は常に鍵を身につけております。それにこうした規律は、フランスよりもイタリアの方が厳しいものかと思いますが」

「院長様、あの時から何度記憶をさらっても何も見つからなかったと申し上げなくてはなりませんか?」

「誘拐についてただしてみたのでしょう?」

「確かにそうしました」

「どんな弁明が返って来ましたか?」

「私を愛しているからだと」

「あなたは何と答えたのです?」

「あなたのことが怖いと」

「それでは、男のことを愛してはいなかったのですか?」

「もちろんです!」

「間違いありませんね?」

「あの男に感じていたのは奇妙な感情でした。一緒にいると、自分がもはや自分ではなく、あの男になっていたのです。男が望めば、私もそれを望みました。男が命じれば、私はそれを実行しました。私の魂にはもはや力もなく、頭からは意思が失われていました。見つめられると制御され囚われてしまうのです。やがて、もはや私のものではない思考が心の奥まで入り込み、自分でも気づかなかった隠れた考えが引き出されるのを感じました。おわかりいただけますか、魔術に違いありません」

「超自然かどうかはともかく、不思議なことではありますね。その後、この男とどのように過ごしたのですか?」

「男はとても優しく、心からの愛情を示しました」

「堕落した人間ではないのですか?」

「そうは思えません。それどころか、話し方には伝道者のようなところがありました」

「さあ、あなたも男を愛しているとお認めになったらいかがです」

「そんなことはありません」ロレンツァは苦しげに吐き出した。「愛してはおりません」

「でしたら逃げるべきでした。当局に訴え、両親に訴えるべきでしたよ」

「常に見張られていたので、とても逃げることなど出来なかったのです」

「手紙を書いたりもしなかったのでしょう?」

「途中でいろいろなところに泊まりましたが、どれも男の家であるらしく、誰もが男の言いなりでした。紙とインクとペンを貸して欲しいと何度も頼みましたが、誰に頼んでも男からきつく言われているらしく、誰も答えてはくれませんでした」

「どのように旅をしていたのでしょうか?」

「初めは軽二輪馬車でしたが、ミランでは二輪馬車が見つからなかったため、移動式家屋のようなもので旅を続けました」

「でもいくら何でも、一人きりになる機会もあったのではありませんか?」

「ありました。そういう時には私のところにやって来て、『眠れ』と命ずるのです。すると私は眠りに落ち、男が戻ってくるまで目の覚めることはありませんでした」

 マダム・ルイーズは疑わしげに首を横に振った。

「真剣に逃げようとなさらなかったのではありませんか。そうでなければ、今ごろは逃げることに成功していたでしょう」

「そうだったかもしれません……でも心を囚われていたのだと思います!」

「愛の言葉によってですか、それとも愛の行為によってでしょうか?」

「愛を囁かれることはめったにありませんでした。夜に額に口づけされ、朝にもう一度口づけされるほかは、覚えている限り何もされませんでした」

「確かにおかしなことですね!」王女は呟いた。

 それでも懐疑的に口を開いた。

「失礼ですが、その男を愛していないのだと繰り返していただけますか」

「繰り返します」

「その男とあなたを結ぶ地上の糸などないと繰り返していただけますか」

「繰り返します」

「その男が主張したところで、何の権利もないのですね」

「一切ありません!」

「でもだとすると、どうやってここまでいらしたのですか? それがわかりません」

「嵐に乗じたんです。確かナンシーという町の辺りでした。あの男が私から離れて馬車の奥の間に住んでいた老人のところに行っている隙に、男の馬に乗って逃げ出したんです」

「イタリアに帰らずフランスを選んだのは何故でしょうか?」

「ローマに戻ることは出来ないと考えたんです。きっと男と共謀していたと思われるに決まっています。私が名誉を傷つけたと言って、両親は迎えてはくれないでしょう。

「パリに入ると、町中があなたの修道会入りに沸き立っていました。あなたの信仰心、貧しい人たちに対する思いやり、不幸な人たちに対する同情を褒め称える人ばかりでした。すぐに直感しました。私を受け入れてくれるほど寛大で、私を守ってくれるほど有力な人は、あなたを措いてほかにないと」

「わたくしの力を頼るということは、その男はかなりの力を持っているのですね?」

「ええ、その通りです!」

「いったい何者なのです? 今まではたずねるのを控えておりましたが、あなたを守るともなれば、誰を相手にしているのか知る必要もあります」

「それが、お知らせすることは出来ないんです。あの男が誰で何者なのか、私はまったく知りません。わかっているのは、国王でもあれほどの敬意を抱かれることは出来ず、啓示を与える人々から神もあれほどの崇拝を受けることはないということです」

「ですが名前は? 何と呼ばれていましたか?」

「それはもういろいろな名前で呼ばれていましたが、覚えているのは二つだけです。一つは、先ほど申し上げた老人が使っていた呼び名です。この老人はミランから旅に加わり、私が逃げ出す時にも馬車におりました。もう一つは、男自身が名乗っていた名前です」

「その老人は何と呼んでいたのですか?」

「アシャラ……これは異教徒の名前ではないでしょうか……?」

「男自身は何と名乗っていたのです?」

「ジョゼフ・バルサモ」

「その男は?」

「あの男ですか!……あらゆる人々と知り合いで、あらゆる物事に明るく、あらゆる時代の人間と交わり、あらゆる年代に生きているのです。ああ……冒涜をお許し下さい! アレクサンドロス、カエサル、シャルルマーニュ、まるで知り合いのことを話すように彼らのことを口にしていました。でも彼らはずっと昔に死んでいるのではありませんか。いえそれどころか、カイアファ、ピラトゥス、主イエス・キリストのことを、その目で主の殉教を目撃したかのように口にするのです」

「その男は騙りですよ」王女が言った。

「今仰った言葉が、フランス語でどういう意味なのか正確にはわかりません。私にわかっているのは、あの男が危険で恐ろしい人間で、あの男の前では誰もが跪き、負けを認め、膝を屈するということだけです。身を守るものがないと思うような時には、身を固めます。一人きりに見えるような時には、そこから人を立ち去らせるんです。それも武力も暴力も用いず、言葉と仕種を用いて……微笑んで」

「安心なさい。その男がどんな人間であろうと、守って差し上げます」

「あなたが守って下さるのでしょうか?」

「ええ、わたくしが。あなたがご自分から保護を断ち切らないのであれば。ただしもう信じてはいけませんよ。それに病んだ魂が生み出した幻覚をわたくしに信じさせようとするのもいけません。いずれにしましても、サン=ドニの壁はあなたを悪魔の力から守る城壁になれるでしょうし、あなたが恐れている力、人間の力からも守ってくれるでしょう。どうなさいますか?」

「これでよければ、ここにある宝石で持参金をお支払いしようと思います」

 ロレンツァは机の上に高価なブレスレット、指輪、見事なダイヤモンド、美しい耳飾りを置いた。恐らく二万エキュはくだらない。

「これはあなたのものなのですか?」

「私のものです。あの男がくれたものを、主にお返しいたします。例外が一つだけありますが」

「何でしょうか?」

「逃げるのに使ったジェリドというアラブ馬は、返すように言われたら返すつもりです」

「ではどんなことがあっても一緒に戻るつもりはないのですね?」

「私はあの男のものではありません」

「それはそうなのでしょう。ではサン=ドニに入って、スビアーコで中断されてしまった儀式の続きを行うのが望みなのですか?」

「ほかに望みなどありません、どうかお恵みをかけてください」

「さあ、落ち着いて下さい。今日からわたくしたちと生活を共にして、あなたの決意のほどをお示しなさい。模範的な生活を期待しておりますよ。恵みをかけるに相応しいと判断できれば、あなたはその日より主のものとなり、サン=ドニに留まることを妨げるものは何一つなく、修道院長が見守り続けるとお答えいたしましょう」

 ロレンツァは王女の足許に身を投げ出し、心から感謝の言葉を費やした。

 だが突然身体を起こして耳を澄ますと、真っ青になって震え出した。

「ああ、何で? どうして?」

「どうしました?」

「身体中が震えてるんです! おわかりになりませんか? 近くにいるんです!」

「誰のことです?」

「私を堕落させようと誓った男です」

「あの男ですか?」

「あの男です。私の手足が震えているのがおわかりになりませんか?」

「それはわかります」

「ああ!」胸を射抜かれたように呻いた。「こっちにやって来る!」

「勘違いではありませんか」

「違います、違います。ほら、意思に反して引き寄せられそうなんです。助けて下さい、離さないで下さい」

 マダム・ルイーズはロレンツァの腕をつかんだ。

「冷静になりなさい。あの男だとしても、ここにいれば安全です」

「ここにやって来るんです!」ロレンツァは怯えてぐったりとして、扉を見つめて腕を伸ばした。

「何を仰るのです! マダム・ルイーズ・ド・フランスの部屋に入って来るというのですか……? だとしたらその男は国王の命令を携えていることになりますよ」

「どうやって入って来るのかはわかりません」ロレンツァが仰け反った。「でもわかるんです。間違いありません、今は階段を上っています……もう十歩と離れていません……あそこです!」

 突然、扉が開いた。奇妙な偶然に、王女は思わずぎくりとして尻込みした。

 修道女が立っていた。

「どなたです? 何のご用ですか?」

「院長様、修道院にお見えになった貴族の方が、殿下との謁見をご希望なさっていらっしゃいます」

「お名前は?」

「フェニックス伯爵です」

「あの男ですか?」王女がロレンツァにたずねた。「この名前をご存じですか?」

「その名前は知りません。でもあの男です、間違いありません」

「その方のご用件は?」王女が修道女にたずねた。

「プロイセン国王陛下よりフランス国王に遣わされた使節団の方で、王女殿下とのご会談を望んでいらっしゃいます」

 マダム・ルイーズはしばし考えてから、ロレンツァを振り返った。

「この小部屋にお入りなさい」

 ロレンツァが言う通りにすると、王女は修道女に言った。

「その方をお通しして下さい」

 修道女がお辞儀をして出て行った。

 王女は小部屋の扉がしっかり閉まっているのを確認すると、腰かけていた椅子に戻り、心穏やかならざる気持で、これから起こるであろう事件を待ち受けていた。

 間もなく修道女が戻って来た。後ろを歩いていたのが、既にお話ししたように、認証式の日にフェニックス伯の名で国王に知られていた男である。

 あの日と同じ、飾り気のないプロイセンの軍服姿だった。軍人用の鬘と黒いカラーをつけている。生命力にあふれた黒い目がマダム・ルイーズを前にして伏せられたものの、どれほど地位が高かろうとただの貴族でしかない人間がフランス王家の娘に示さなければならない敬意を示してみせただけであった。

 だがすぐに目は上げられた。あまりへりくだっていると思われてはたまらないとでも考えたのだろうか。

「殿下、謁見をお許し下さいましたことを感謝いたします。しかしながら、苦しんでいる者には分け隔てなく慈悲を賜る殿下のことですから、お許し下さるものと思っておりました」

「確かにそう努めております」恥知らずにも本来の目的を濫用して他人の厚意を求めて来た男に対し、謁見が終わった後には苦汁をなめさせてやらねばなるまいと思い、王女は威厳を以て答えた。

 伯爵は裏のある言葉に気づいた素振りも見せずに、一礼した。

「わたくしでお役に立てることがありますでしょうか?」マダム・ルイーズは皮肉を効かせたままたずねた。

「どんなことでもお助け下さいましょう」

「お話し下さい」

「さしたる理由もなく、殿下のお選びになった隠遁所にお邪魔したりはいたしません。私が多大な関心を寄せている者を保護なさっていると窺いました」

「その者の名は?」

「ロレンツァ・フェリチアーニ」

「あなたとのご関係は? 配偶者ですか、母親ですか、姉妹ですか?」

「私の妻です」

「妻ですか?」小部屋にも届くように声を大きくした。「ロレンツァ・フェリチアーニはフェニックス伯爵夫人なのですか?」

「仰る通り、ロレンツァ・フェリチアーニはフェニックス伯爵夫人です」伯爵は悠々として答えた。

「カルメル会修道の中にはフェニックス伯爵夫人はおりません」王女がすげなく答えた。

 だが伯爵は尻尾を巻いたりはしなかった。

「ロレンツァ・フェリチアーニとフェニックス伯爵夫人が一人の同じ人物だということを、もしやまだお疑いなのでしょうか?」

「そう、確かに仰る通りです。この点については確信が持てません」

「ロレンツァ・フェリチアーニを呼んでいただければ、疑いも晴れるのではありませんか。恐れながらそうしていただけるようお願い申し上げます。しかし私とロレンツァは深い愛情で結ばれておりますから、ロレンツァも私の許を離れたことを後悔しているものと思っております」

「そうお思いですか?」

「そう思っております。どんなに拙かろうともそこだけは自信があります」

 ――なるほど、と王女は考えた。ロレンツァは正しかった。この男は確かに危険人物だ。

 伯爵は平然と落ち着き払ったまま、宮廷の堅苦しい礼儀の殻に閉じこもっていた。

 ――嘘をついてみましょう。マダム・ルイーズは考えた。

「残念ですが、ここにいない方をお返しする訳には参りません。あなたがその方のことをひたむきに追いかけ、言葉どおりに愛しているのはわかりました。ですがその方を見つけようとなさるのでしたら、よそを当たってみるべきだと思いますよ」

 伯爵は部屋に入って以来、マダム・ルイーズの私室を含めてあらゆるものに素早い視線を送っていたが、その目が一瞬だけ止まった。ほんの刹那ではあったが一目で充分であった。部屋の薄暗い片隅にある机の上に、ロレンツァが持参金にしようとした宝石が置かれてあった。その宝石が暗がりで放つ光に、フェニックス伯は見覚えがあった。

「もし殿下が記憶を探っていただけたなら、どうかご容赦いただきたいのですが、先ほどまでこの部屋にロレンツァ・フェリチアーニがいたことを思い出していただけるのではないでしょうか。あそこの机にロレンツァの宝石が置いてあります。あれを殿下に差し上げた後で退出したのでしょう」

 フェニックス伯は、王女が小部屋に目を走らせたのを見逃さなかった。

「あの小部屋に退出したのですな」

 王女が赤面したのを見て、伯爵はなおも続けた。

「となると、部屋に入る許可を殿下がお命じ下さるのを待つだけです。ロレンツァはすぐに従ってくれることでしょう」

 王女は思い出した。ロレンツァが中から鍵を掛けた以上は、自分で出て来たいと思わない限りは無理に引っ張り出すことは出来ないのだ。

「ですが」この男の前では何も隠すことなど出来なかったというのに、無駄に嘘をついてしまったという悔しさを、もはや隠そうともしなかった。「ここに呼んだら、あの方はどうなさるでしょうね?」

「どうにもいたしません。私と一緒にいたいと殿下に申し上げるだけでしょう。妻なのですから」

 この最後の言葉を聞いて王女は気を取り直した。ロレンツァが断言したのを覚えていたのだ。

「妻というのは確かでしょうか?」

 その言葉には憤りが感じられた。

「殿下は私を信用して下さらないようですな」伯爵の声は落ち着いていた。「しかしフェニックス伯がロレンツァ・フェリチアーニを娶ったことも、娶っている以上は妻を引き渡してもらうことも、何も信じがたいことではありませんぞ」

「また妻ですか!」マダム・ルイーズは焦れったそうに声をあげた。「飽くまでロレンツァ・フェリチアーニは妻だと言い張るのですね?」

「そうです、殿下」伯爵の声に不自然なところは微塵もなかった。「飽くまでそう言い張ります。それが事実なのですから」

「婚姻を結んだのですか?」

「婚姻を結びました」

「ロレンツァと?」

「ロレンツァと」

「合法的にでしょうか?」

「その通りです。飽くまで疑ってかかろうとなさるのでしたら……」

「でしたら、何でしょうか?」

「司祭の署名が入った正規の婚姻証書をお見せいたしましょう」

 王女は身震いした。伯爵がこれほどまでに落ち着き払っているのを見ると、自信が揺らいだ。

 伯爵が紙入れを開け、四つに折り畳んだ紙を開いた。

「これが、私の話が真実であり、あの女を取り戻す権利があるという印です。署名が証拠になります……証書を読んで署名をお確かめになりますか?」

「署名ですって!」怒りはむしろ侮辱するような疑いに変わっていた。「ですがもしこの署名が……?」

「この署名はストラスブールのサン=ジャン教会の主任司祭のものです。ルイ司教ロアン枢機卿とお知り合いですから、猊下がここにいらしたなら……」

「枢機卿ならいらっしゃいます」王女は伯爵を燃えるように睨みつけた。「猊下はサン=ドニをお発ちになりませんでした。今は大聖堂の司教座参事会員のところにおいでです。これほど簡単な確認方法はありませんね」

「それは運がいい」伯爵は悠々と証書を紙入れに仕舞った。「確かめていただければ、殿下の間違ったお疑いも晴れることでしょう」

「これほどまでに厚かましいとは、怒りを覚えますよ」王女はけたたましく呼び鈴を鳴らした。

 フェニックス伯を案内して来た修道女が、再び駆けつけた。

「馬丁に馬を用意させて、この手紙をロアン枢機卿に届けさせて下さい。大聖堂の参議会室にいらっしゃいます。わたくしが待っているので、直ちに来るようにと」

 そう言って急いで何事かを書きつけ、修道女に手渡した後、そっと耳打ちした。

「回廊に憲兵隊の弓兵を配置させて下さい。わたくしの許可がなければ誰一人として出してはなりません。さあ行きなさい!」

 伯爵はマダム・ルイーズの心の動きに注目していたが、今こうしてマダム・ルイーズが最後まで戦おうと決意したのを確認した。王女が恐らくは勝ちを意識して手紙を書いている間、小部屋に近づき、扉に目を据え、腕を伸ばしてでたらめではないある法則に従って動かすと、小声で何やら呟いた。

 王女が振り返り、伯爵のやっていることを見つけた。

「そこで何をなさっているのです?」

「ロレンツァ・フェリチアーニに頼んでいるのですよ。自らここに来て、本人の言葉と意思によって、私がペテン師でもいかさま師でもないことを、殿下に証明して欲しいと。これは殿下がお求めになっているほかの証拠をないがしろにするものではありません」

「お待ちなさい!」

「ロレンツァ・フェリチアーニ」伯爵は王女の意向さえ完全に制御していた。「ロレンツァ・フェリチアーニ、この小部屋から出て、ここに来なさい!」

 だが扉は閉じたままだった。

「出て来なさい!」

 すると錠前の中で鍵が軋んだ。ロレンツァが出て来るのを、王女は生きた心地もせず見つめた。伯爵を見つめているロレンツァの目には、怒りの色も憎しみの色もなかった。

「どうしたのです?」マダム・ルイーズがたずねた。「どうして逃げてきた男の許に戻るのですか? ここにいれば安全だと申し上げたはずです」

「安全なのは私の家も変わりありません」伯爵が答えた。

 そしてロレンツァの方を向いた。

「ロレンツァ、私のところにいれば安心だな?」

「はい」とロレンツァが答えた。

 王女は驚愕のあまり、両手を合わせて椅子に倒れ込んだ。

「ロレンツァ」伯爵の声は穏やかだったが、そこには有無を言わせぬ響きも感じられた。「俺がお前に暴力をふるったと非難されている。答えてくれ、お前に暴力をふるったことなどあったか?」

「一度もありません」ロレンツァの声ははっきりとしていたが、否定を示すような身振りは伴っていなかった。

「では、誘拐されたという先ほどの話は何だったのですか?」王女がたずねた。

 ロレンツァは何も言わずに伯爵を見つめていた。まるでそれを表現するための生気も言葉も、伯爵から出て来でもするように。

「どうしてお前が修道院から出て行きたがっているのか、殿下がお知りになりたいそうだ、ロレンツァ。内陣で気絶した瞬間から、二輪馬車で目を覚ますまでに起こったことを、すべてお話しして差し上げなさい」

 ロレンツァはなおも沈黙していた。

「洗いざらい話しなさい、一つも省くことなく」

 ロレンツァの身体に震えが走った。

「覚えておりません」

「記憶を探りなさい、そうすれば思い出せる」

「はい」ロレンツァが単調な声で答えた。「思い出しました」

「話しなさい!」

「髪に鋏が触れた瞬間に気絶してしまったので、部屋に運ばれ寝台に寝かされました。夜になるまで母が付き添っていましたが、私が気を失ったままなので、町医者が呼ばれました。医者は脈を取り口許に鏡を当て、脈が止まって息をしていないことを確認すると、私が死んでいることを伝えました」

「何故そんなことを知っているのですか?」王女がたずねた。

「どうして気絶している間のことを知っているのか殿下がお知りになりたいそうだ」

「不思議なことですが、ものも見えたし耳も聞こえました。ただ、目を開けることや口を開くこと、身体を動かすことが出来ませんでした。昏睡状態だったのです」

「そう言えば、昏睡状態に陥って生きたまま埋葬されてしまった人の話をトロンシャンから聞いたことがあります」

「続けなさい、ロレンツァ」

「ショックを受けた母は、私の死を信じようとはしませんでした。夜の間も翌日になっても付き添いを続けると言い張りました。

「母はその言葉を実行に移しました。ですが三十六時間見守り続けても、私は動くこともせず息を吐くこともありませんでした。

「司祭が三度やって来て、そのたびに、既に魂が主のものとなった身体を地上に留めようとするのは主に対する反抗だと母に言い聞かせました。私が死んだ状況はあらゆる点で救済を示しており、主との永遠の誓いを交わす言葉を発した瞬間であることは疑いない。私の魂はまっすぐ天に召されたことは疑いない、と。

「母はそれでも、月曜から火曜まで徹夜して付き添わせて欲しいと言いつのりました。

「火曜日の朝になっても、私は意識を失った状態のままでした。

「母は諦めて引き下がりました。修道女たちが大声で泣き喚いていました。大蝋燭が礼拝堂に灯されました。規則に従い、一昼夜そこに安置されることになっていたのです。

「母が出て行くと、死体安置係が部屋にやって来ました。私は誓いを終えておりませんでしたので、白い装束を着せられ、額に白薔薇の冠を巻きつけられ、胸の上で腕を十字に組まれ、声がしました。

「『棺を!』

「棺が部屋に運び込まれました。身体中に震えが走りました。申し上げたように、閉じた瞼越しに、目が開いている時のように何もかもが見えたからです。

「私は持ち上げられ、棺に入れられました。

「それからイタリアの作法に則って顔には何もかけず、礼拝堂に運ばれ、内陣の中央に降ろされました。周りには大蝋燭が灯り、足許には聖水盤が置かれていました。

「一日中、スビアーコの農民が礼拝堂にやって来て、私のために祈り、身体に聖水を掛けていきました。

「夜になり、弔問者が途絶えると、小扉を除いて礼拝堂の扉は閉められ、看護係の修道女が側に残っているだけになりました。

「ところが、恐ろしい考えに眠りを掻き乱されたのです。明日になれば、埋葬が行われるに違いありません。何処かから助けが来ない限り、生きたまま埋められてしまうことでしょう。

「一つ一つ時を打つのが聞こえました。九時の鐘が鳴り、それから十時、十一時。

「鐘が打たれるたびに心臓でぐわんぐわんと音を立てました。何て恐ろしいことでしょう! 私は自分の弔鐘を聞いていたのです。

「何とか眠りを破って棺に結わえられている針金を断とうとしました。主はそれをご覧になったのです。憐れみをかけて下さったのですから。

「真夜中の鐘が鳴りました。

「一つ目が鳴った時、アシャラが近づいて来る時と同じような震えが身体中に起こりました。心臓がびくりとし、この人が礼拝堂の戸口にいるのが見えました」

「その時に感じたのは恐怖だったか?」フェニックス伯がたずねた。

「違います。幸せ、嬉しさ、狂喜でした。あれほど恐れていた死から助けに来てくれたのだということがわかっていましたから。この人はゆっくりと棺に歩み寄り、私を見つめて悲しげに微笑んで言いました。

「『起き上がって歩きなさい』

「身体を縛りつけていた針金がやがて断ち切れました。その力強い声を聞いて私は起き上がり、棺から足を踏み出しました。

「『生きているのは嬉しいか?』

「『はい』

「『よかろう、ではついて来い』

「私の側で務めを果たしておりました看護係は何人もの修道女の側で務めを果たして来た、葬儀に慣れた人でしたので、椅子の上で眠っておりました。私は看護係を起こさぬように横を通り抜けますと、再び死から救ってくれた人について行きました。

「中庭に着きました。もう見ることはないと思っていた星空が見えます。死んでいる者には感じることの出来ないひんやりとした夜の空気も、生きている者には何と心地よかったことでしょう。

「『いいか、修道院を離れる前に、神と俺のどちらかを選べ。修道女になるか? 俺について来るか?』

「『あなたについて行きます』と私は答えました。

「『では来るんだ』と繰り返します。

「受付口の扉は閉まっていました。

「『鍵は何処にある?』

「『受付口係の小物入れです』

「『小物入れは何処だ?』

「『椅子の上です、寝台の横の』

「『音を立てず忍び込み、この扉の鍵を持って来るんだ』

「私は言う通りにしました。小屋の扉は中から閉められてはいませんでしたので、中に入ってまっすぐ椅子に向かいました。小物入れを探って鍵の束を見つけましたので、受付口の鍵を選んで持って行きました。

「五分後、受付口の扉は開き、私たちは路上にいました。

「私たちは腕を取ってスビアーコの町外れまで走りました。町外れの家から百パッススほど離れたところに、馬の繋がれた軽二輪馬車が待っていました。私たちが乗り込むと、馬車は駆足で走り出しました」

「つまり如何なる暴力もふるわれなかったし、如何なる脅しも受け取らなかったというのですか? 自発的にこの男について行ったというのでしょうか?」

 ロレンツァは黙ったままだった。

「殿下がおたずねだ、ロレンツァ。脅しや暴力を受けて、無理矢理俺について来たのか?」

「違います」

「ではどういう理由でついて行ったのです?」

「答えろ、どうして俺について来た?」

「あなたを愛しているからです」とロレンツァが答えた。

 フェニックス伯爵が王女に向かい、勝ち誇ったような笑いを浮かべた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
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