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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』第67章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十七章 花火

 アンドレと兄がベンチに腰かけるとすぐに、最初の花火が雲間を蛇行し、群衆から大きな歓声があがり、その後は誰の目も広場の中央に注がれていた。

 最初の花火はルッジェーリの評判に恥じない素晴らしいものだった。神殿の飾りが次第に灯り、やがて火のファサードが姿を見せた。拍手が鳴り渡った。拍手はやがて熱狂的な喝采に変わった。イルカの口と大河の水瓶から炎が吹き出し、色鮮やかな炎の滝となって交わったのだ。

 アンドレは無類の絶景に心を奪われ、炎の宮殿の前で歓喜している七十万の魂の一つとなって、感動を隠そうともしなかった。

 そのすぐ側で、子供を掲げている荷担ぎの大きな肩に隠れて、ジルベールがいた。アンドレを見つめているのはそれがアンドレだからであり、花火を見つめているのはアンドレが花火を見つめていたからだ。

 ジルベールが見ていたのはアンドレの横顔だ。花火が次々と美しい容顔かんばせを照らすのを見て、ジルベールは打ち震えていた。歓声すべてがこの目の先にある素晴らしい存在に、崇拝している至高の女性に向けられたものだと感じていた。

 アンドレはパリも人込みも華やかな祭りも見たことがなかった。心を取り囲む新鮮な出来事の数々に、目が眩むのを感じていた。

 突然、鮮やかな光がはじけ、川に向かって斜めに飛んで行った。音を立てて爆発したその色とりどりの火にアンドレは見とれていた。

「見て、フィリップ、綺麗ね!」

「まずいな!」フィリップはそれには答えず、不安げな声を洩らした。「あの花火はおかしな方向に飛んでいる。道を逸れて、放物線を描かずに、水平に飛んでいるじゃないか」

 群衆のざわめきを感じて不安を口にした直後だった。大花火と予備の花火を置いてある稜堡から、炎の渦がほとばしった。雷鳴を束にしたような爆音が、あらゆる感覚を侵して広場に轟き渡り、間近にいた見物人たちは、散弾でも含まれているような炎に不意に顔を炙られて逃げ出した。

「あらもう終わり、早すぎるわ!」

「違う、トリの大花火じゃない。事故があったんだ。今は静かだが、じきに大波のように騒ぎ出すぞ。行こう、アンドレ。馬車に戻るんだ」

「まだ見ていても構わないでしょう? こんなに綺麗なのに!」

「駄目だ、早く来い。まずいことになる。逸れた花火が稜堡に燃え移ったんだ。あっちはもう大変なことになっている。声が聞こえるだろう? あれは歓声なんかじゃなく、悲鳴だ。急いで馬車に……お願いです、どいて下さい!」

 フィリップはアンドレの腰に手を回し、馬車の方に引っ張って行った。騒ぎを聞いた父親も、はっきりしたことはわからないなりに異変を確信し、不安を感じて馬車から顔を出し、子供らの姿を捜した。

 時既に遅く、フィリップの懸念は実現していた。一万五千の花火を組み合わせた大花火が破裂し、四方八方に飛び散り、闘牛場の牛を挑発しようとして放たれる火矢のように見物人を追いかけている。

 驚き、怯えた見物人たちが、何も考えずに逃げ出した。十万人が後戻りしたために後ろが詰まり、その波がさらに後ろに押し寄せる。花火櫓に火がつき、泣き叫ぶ子供たちを母親が咳き込みながら抱え上げた。警邏隊はあちこち殴りつけ、暴力を用いて人々を黙らせ秩序を回復しようとしていた。様々な要因が重なって、フィリップの言っていた大波が竜巻のように広場の片隅に襲いかかった。フィリップは馬車に戻ることも出来ずに、為すすべもなく波に攫われた。一人一人の力が恐怖と苦痛によって何十倍にも膨れ上がり、一つの大きな力となって何百倍にもなって筆舌に尽くしがたい大波となっていた。

 フィリップがアンドレを引きずっていた時、ジルベールも同じ波に巻き込まれていた。だが二十パッススほど進んだところで、ラ・マドレーヌ街を左に曲がって逃げる集団に引き込まれて、大声で喚きながらアンドレから離されて行った。

 アンドレはフィリップの腕にしがみつき、昂奮した二頭の馬に牽かれた馬車を避けようとする群衆に取り囲まれていた。威嚇するような猛スピードで馬車が近づいて来る。馬の目から炎が出て、鼻から泡を吹いているように見えた。フィリップは超人的な力を振り絞って身動きを取ろうとした。どうすることも出来ないまま、後ろの人垣が割れ、猛り狂った二頭の馬の顔が見えた。チュイルリーの入口を守る騎馬像のように、馬が前脚を掲げた。フィリップはアンドレの腕を放して道から押しやり、馬を馴らす奴隷のように手前側の轡に飛びついた。馬が棒立ちになった。フィリップが倒れて見えなくなるのを見たアンドレが、悲鳴をあげて腕を伸ばしたが、周りに押しやられ、こづき回され、風に吹かれた羽根のようにふらふらと流された挙げ句に、自分よりも強い抵抗の力にはどうすることも出来なかった。

 鬨の声や馬のいななきよりも凄まじい耳を聾するような悲鳴、舗道や死体を踏み砕く車輪の音、燃え上がる櫓の鉛色の火、かっとなった兵士が抜いたサーベルの不吉な輝き、血塗れの混乱を見渡して橙色の光に照らされながら虐殺を指揮する銅像、それはアンドレの理性を奪い、あらゆる力を消し去るには充分すぎるほど充分すぎた。もっとも、巨人ティターンの怪力をもってしても、このような戦いの前では無力であっただろう。あらゆるものに対してたった一人で、ましてや死に挑むのであっては。

 アンドレは引き裂くような悲鳴をあげた。兵士が群衆を剣で殴って道を開けた。

 剣がアンドレの頭上できらめく。

 波をかぶっていよいよ末期を迎えた遭難者のように、「神様!」と叫んでばったりと倒れた。

 倒れた時には意識がなかった。

 だが直前の叫びを聞いていた人物が、それに気づいて声を拾った。アンドレから離されていたジルベールが、人込みを懸命に掻き分けて近づいて来た。アンドレを飲み込んだ波に飛び込むと、再び浮かび上がって、図らずもアンドレを怖がらせた剣に飛びつき、群衆を殴っていた兵士の喉を締めつけて押し倒した。兵士の側に、白い服を着た女性が横たわっていた。ジルベールはそれを巨人のように抱え上げた。

 その形、その魅力、恐らくはその死体を胸に感じながら、ジルベールの顔が誇りに染まった。崇高な場面、気高い力と勇気! アンドレを背負ったまま人の流れに飛び込んだ。逃げる途中で壁までも突き破りかねない奔流であった。奔流はジルベールとアンドレを支えながら運んで行った。数分の間、ジルベールは歩いた、というよりこうして流された。不意に、障害物で遮られたように奔流が止まった。ジルベールの足が地面に届いた。そこでようやくアンドレの重さを実感し、障害物を確かめようと頭を上げると、すぐ側に家具倉庫があった。この石の塊が肉の塊をばらばらにしたのだ。

 一時的に足止めをくらっている間、ジルベールはアンドレに見とれていた。死者のように深い眠りに就いていた。心臓はもはや脈打たず、目は閉じられ、顔は萎れた薔薇のように紫がかっている。

 きっと死んでいるんだ。今度はジルベールが叫びをあげる番だった。まずは衣装に、それから手に口づけをした。やがて何の反応もないことにつられて、冷たい顔や動かない瞼の下の両目のふくらみに口唇を押しつけた。真っ赤になって泣きじゃくり、咆吼して、アンドレの胸に魂を送り込もうとした。口づけで大理石も温められるだろうに、死体には何の効果もないのは何故なのだろう。

 その瞬間ジルベールは、手の下で心臓が脈打っているのに気づいた。

「助かったんだ!」ジルベールは真っ黒で血塗れの群衆が逃げるのを見ていた。罵り、叫び、溜息、末期の言葉が聞こえた。「生きている! ぼくが助けたんだ!」

 生憎なことに、壁にもたれて橋の方を見ていたために、右方がおろそかになっていた。長いこと群衆に阻まれていた馬車の数々が、ようやく足止めを解かれ、動き出していた。御者と馬が大きな眩暈に囚われたように足を早めたために、馬車の前では二万人もの人々が逃げまどい、手足を失い、怪我をして、折り重なっていた。

 近くの壁で押しつぶされた犠牲者を見て、人々は本能的に壁に沿って逃げ出した。

 家具倉庫の近くで遭難から救われたと信じていた人々を、この群衆が襲った。何度となく押し寄せる新しい波と死体に溺れながら、ジルベールは柵で出来た空間を見つけてそこに身体を押し当てた。

 逃げる人々の重みが壁を軋ませた。

 ジルベールは苦しくなって場所を明け渡しそうになった。だが渾身の力を振り絞ってアンドレの身体を抱え、胸に頭を押しつけた。その姿はまるで抱きかかえた少女を窒息させようとしているようにも見えた。

「さようなら!」口づけというよりむしろ服を咬むようにして、ジルベールは囁いた。「さようなら!」

 それから目を上げ、最後にもう一度祈りを捧げようとした。

 不思議な光景が目に飛び込んで来た。

 それは里程標の上に立ち、壁に固定された鉄輪を右手でつかみながら、逃げまどう人々を左手でまとめようとしているように見えた。それは足許を荒海が通り過ぎるのを見下ろしながら、ある時は言葉を放ち、ある時は腕を動かしている一人の男だった。その言葉を耳にし、その動きを目にして、人込みの中ではぐれた人々が足を止め、懸命にもがき、男のところに行こうと躍起になっていた。一方、とうにたどり着いていた者たちは、新たにやって来た人々の中に知り合いを認め、人込みから抜け出すのを手助けして、持ち上げたり支えたり引っ張ったりしていた。こうして身を尽くしている人々の中心にいる人物は、水を分ける橋脚のように先ほどから何とか人波を分け、逃げまどう人々を牽制していた。

 地下から湧いて出たように、奇妙な言葉を囀り、おかしな動きを繰り返してもがいていた者たちが、一人また一人と男の許に馳せ参じている。

 ジルベールは最後の力を振り絞った。あれが救済なのだ。平和と権力なのだ。花火が消える前の最後の輝きを見せ、男の顔を照らした。ジルベールは驚きの声をあげた。

「ぼくは死んでもいい。でもアンドレだけは! この人なら助けられる」

 自らのことなどいとわず、アンドレを両手で抱え上げた。

「ド・バルサモ男爵! アンドレ・ド・タヴェルネを救って下さい!」

 その声がバルサモに届いた。聖書の声のように群衆の奥深くから聞こえていた。荒々しい波の上に白い物体が掲げられた。取り巻きの者たちが邪魔するものを薙ぎ払った。ジルベールの細腕に支えられていたアンドレを抱え上げ、牽制を解かれた群衆に押されながら、振り返りもせずに運び去った。

 ジルベールは最後に一言伝えようとした。アンドレの代わりに助けを請うた後で、自分のことも頼みたかったのだろうが、アンドレの垂れ下がった腕に口唇を押しつけ、地獄から奪い返したエウリュディケの服を一切れ、力を込めて引きちぎるのが精一杯だった。

 この世のものとも思われぬ口づけと最後の別れを済ませてしまうと、もはや死んでもいいような気持だった。それ以上は抗おうともせずに目を閉じて、死んだようになって死者の山の上に倒れ込んだ。

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