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『ジョゼフ・バルサモ』 第69章 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十九章 生還

 数々の大惨事が次々に起こっている間も、ド・タヴェルネ男爵は奇跡的に危険を免れていた。

 当たるものすべてを破壊する圧倒的な力に対し、物理的に抵抗するのは不可能だったが、男爵は冷静に状況を読み、ラ・マドレーヌ街の方に流されてゆく人込みに包まれるように移動していた。

 人々は広場の欄干にぶつかり、家具倉庫ガルド=ムーブルの角に激突し、道の脇には怪我人や死者がどこまでも連なっていたが、多くの人が死んでいたにも関わらず、男爵は危険を遠ざけておくことに成功していた。

 間もなく男女の群れが路上や野外に飛び出し、喜びの声をあげた。

 その瞬間ド・タヴェルネ男爵も周りの人々と共に危険から脱していた。

 これまでに長々と筆を費やして極めて率直に男爵の性格をお伝えしていなければ、なかなか信じられることではないかもしれない。だがぞっとするような波に揉まれながらも、神よ赦し給え、男爵は自分のことしか考えていなかった。

 もともとそれほど優しい質ではないうえに、男爵は行動の人であったので、生命の危機に直面してカエサルの格言を実践に移したのである。為していることを為せ。

 だからド・タヴェルネ男爵が利己的エゴイストだったとは言わぬ。周りに気を遣わなかったとだけ言わせてもらおう。

 だが大通りに出て楽に動けるようになり、死から逃れて生に帰り着き、ようやく人心地がつくと、男爵は安堵の叫びに続いてもう一つ叫びをあげた。

 二つ目の叫びは初めのものより弱々しかったものの、それ以上に悲痛に満ちていた。

「わしの娘が! アンドレが!」

 身じろぎもせず、手を両脇に垂らし、虚ろな目で一点を見据えたまま、離ればなれになった経緯を思い出そうとした。

「お可哀相に!」女が何人か同情の声を囁いた。

 男爵を囲むように憐れみの輪が出来たが、声をかけようとする者はなかった。

 ド・タヴェルネ男爵は庶民的な感情を解さなかった。思いやりの輪に囲まれるのは居たたまれない。そこで何とか人込みを掻き分けると、見上げたことに、広場の方に足を踏み出した。

 だが足を踏み出したのは、人の心にはつきものの父親の愛情から出たとっさの行為だった。それと同時に理性が男爵に働きかけ、男爵はぴたりと足を止めた。

 ご希望とあらば、この論理の筋道をたどることにしよう。

 まず、ルイ十五世広場に戻ることは不可能だった。圧し合い、死者の山、それに広場から押し寄せる人波、それを掻き分けて進むのはシャフハウゼンのライン滝を遡るのと同じくらいに不可能なことだ。

 さらには、神の御手が男爵を人込みの中に戻したとしても、如何にして数万人のご婦人の中から一人の婦人を見つけるというのか? 死から奇跡的に逃れてなお、無駄と知りながらどうしてまたもや危険に飛び込まないのか?

 やがて希望が、真っ暗な夜の縁を黄金色に色づかせる光が訪れた。

 アンドレはフィリップのそばにいなかったのだろうか? その腕に抱かれ、一人前の男である兄に守られてはいなかったのだろうか?

 老いさらばえた男爵であれば、運び去られるのはこれ以上はないほど簡単なことだ。だがフィリップは、情熱的で逞しく生命力に満ち溢れている。鋼のような腕のフィリップ。妹のために尽くすフィリップなら。あり得ない。フィリップなら戦いに臨み、勝ちを収めたに違いない。

 男爵は利己主義者の例に洩れず、自分のことは棚に上げて、他人に求めるようにフィリップにもあらゆることを求めていた。利己主義者にとっては、強く優しく勇敢でない人間は利己的な人間であって、いわば宿敵であり競争相手であり敵対者である。恩恵を社会から享受できる権利を掠め取る競争相手である。

 そういう訳でド・タヴェルネ男爵は自分の推論に一安心し、フィリップは当然のことながら妹を守ったに違いないとまずは結論づけた。それに、父を助けようとして捜し出すのに少し手間取っているのだろう。だが恐らく、いや確実に、帰り道を見つけ、人込みに酔ったアンドレをコック=エロン街まで連れて行っているはずだ。

 そこで男爵はきびすを返し、カプチン修道会街を下って征服コンケート広場、別名ルイ大王ルイ=ル=グラン広場、即ち現在の勝利ヴィクトワール広場にたどり着いた。

 だが邸まであと少しのところまで来ると、歩哨のように門前に立って噂話に興じていたニコルが、声をあげた。

「フィリップ様とアンドレお嬢様はどうなされたんですか?」

 早くに逃げのびていた人々が恐ろしさのあまり誇張して伝えていたために、大惨事のことは既にパリ中に知れ渡っていたのだ。

「何だと!」男爵は狼狽えて叫んだ。「二人は戻っておらぬのか、ニコル?」

「とんでもありません、お二人とも見ておりません」

「回り道せざるを得んかったのじゃろう」見込みが外れるに従って、男爵はだんだんと震え出した。

 今やニコルやラ・ブリと共に、男爵も通りに留まって待ち続けた。ニコルは悲鳴をあげ、ラ・ブリは天を仰いだ。

「あっ、フィリップ様です」ニコルの声は言葉に表せぬほど怯えていた。フィリップは一人だった。

 確かにフィリップだ。闇の中から息を切らせて死に物狂いで走って来る。

「妹はいますか?」戸口をふさいでいる集団を目にして、遠くから声をかけた。

「何じゃと!」男爵は真っ青になって絶句した。

「アンドレ! アンドレ!」近づくに連れてフィリップが声をあげる。「アンドレは何処です?」

「見てないんです。ここにはいらっしゃいません、フィリップ様。ああ、お嬢様!」ニコルが泣きじゃくり始めた。

「それでお前は戻って来たのか?」読者にお見せした男爵の見通しの立て方を思えば、これほど不当な怒りもない。

 フィリップは答える代わりにそばに寄り、血塗れの顔と枯れ枝のようにぶら下がっている折れた腕を見せた。

「ああ、何てことだ!」老人は溜息をついた。「アンドレ! わしのアンドレや!」

 門に寄せてある石の腰掛けにがっくりと腰を下ろした。

「生死に関わらずきっと見つけ出しますから」フィリップは辛そうな声を絞り出した。

 疲れを知らぬフィリップは、来た道を戻った。走りながら、右腕で左腕を上着の中に仕舞い込んだ。人込みの中に戻るには、使えない腕など邪魔になる。斧があれば切り落としていたところだった。

 こうしてフィリップは、ルソー、ジルベール、そして外科医のいる悲劇の現場に舞い戻った。もっとも血に染まった外科医の姿は、助けをもたらす救世主というよりは虐殺を指揮した悪魔のようだ。

 フィリップは夜の残りをルイ十五世広場を彷徨って過ごした。

 ガルド=ムーブルの壁から離れられずにいると、そこでジルベールを見つけた。握り締めていた白いモスリンの切れ端をじっと見つめている。

 ついに黎明の光で東の空が白く色づき始めた頃、へとへとに疲れ果てたフィリップは、経験したことのない眩暈に襲われて死体のように血の気を失い、いつ死体の中に倒れ込んでもおかしくなかった。父が期待したように、アンドレはきっと家に戻っているか運ばれているのだと期待しながら、コック=エロン街への帰途をたどった。

 遠くから、門前に残して来た人たちが見えた。

 今もまだアンドレがいないことに気づいて足を止めた。

 男爵の方もフィリップに気づいた。

「どうじゃった?」

「では、妹はまだ帰っていないんですか?」

「残念ながら!」男爵とニコルとラ・ブリが同時に叫んだ。

「何も? 報せも、情報も、希望もないんですか?」

「何一つ!」

 フィリップは石の腰掛けに崩れ落ちた。男爵が獣じみた声をあげた。

 その時、通りの端に姿を見せた辻馬車が、ゆっくりと近づいて来て、邸の前で止まった。

 女が一人、気絶でもしているようにがくりと首を肩に垂らしているのが扉越しに見えた。フィリップはそれを目にするやぎょっとして飛び上がった。

 辻馬車の扉が開き、男が降り立った。腕にはぐったりとしたアンドレを抱えている。

「死んでいる!……死んで返されたのか」フィリップががっくりと膝を突いた。

「死んでいるじゃと!」男爵は上手く話せなかった。「本当に死んでいるのですか……?」

「そうは思いませんね」アンドレを抱えている男は静かにそう答えた。「ド・タヴェルネ嬢は気絶しているだけです」

「おお、魔術師殿! 魔術師殿!」男爵が叫んだ。

「ド・バルサモ男爵!」フィリップが囁いた。

「私ですとも、男爵殿。あの恐ろしい混乱の中でド・タヴェルネ嬢を見分けられたのは僥倖でした」

「いったいどちらで?」フィリップがたずねた。

「ガルド=ムーブルのそばです」

「そうでした」

 だがすぐに喜びの表情に疑念の影が差した。

「随分とお時間がかかったのですね?」

「お察し下さい」バルサモは平然として答えた。「妹御のお住まいを存じ上げなかったので、従者に命じて、国王の厩舎近くに住んでいる友人のサヴィニー(Savigny)侯爵夫人のところにお連れしていたのです。ご覧の忠士が力を貸してしてくれました……さあ、コントワ」

 バルサモが合図すると、王家のお仕着せを着た男が馬車から現れた。

「この者は国王のお供をしておりましたので、ラ・ミュエットから家までお送りした際にお嬢様のことを覚えておりました。お嬢様が助かったのは美しさのおかげですな。私はこの者に辻馬車に乗ってもらい、ここにお連れする光栄を得ました。この者の名誉に誓って申し上げますが、ド・タヴェルネ嬢はあなたがたが思ってらっしゃるほど危険な状態ではありません」

 そう言って恭しく父とニコルの腕にアンドレを返した。

 男爵はここで初めて、目の端から涙がこぼれるのを感じた。内心でこのような感情を覚えていたことに驚きはしたが、皺だらけの頬に涙が流れるに任せた。フィリップは自由な方の手をバルサモに向かって伸ばした。

「ぼくの住まいもぼくの名前もご存じですね。感謝の気持に出来ることがあればどうか仰って下さい」

「当然のことをしたまでです。していただくことなどありませんよ」

 バルサモはお辞儀をして、家に招じ入れようとする男爵に返事をしようともせずに、立ち去ろうとして足を踏み出した。

 だがそこで振り返り、

「そうそう、サヴィニー侯爵夫人の正確な住所をお伝えするのを忘れておりました。フイヤン修道院のすぐそこ、サン=トノレ街の邸です。ド・タヴェルネ嬢がご挨拶をお考えかもしれませんから、それをお伝えしておきます」

 こうした弁明、こうした子細、こうした一つ一つの積み重ねに宿る思いやりに、フィリップはもちろん男爵さえ深い感動を覚えていた。

「あなたは娘の命の恩人です」男爵が言った。

「わかっております。誇りに思いますし、嬉しく思います」

 そして今度こそ、フィリップの差し出した心づけを拒んだコントワを従えて、バルサモは辻馬車に乗り込み、立ち去った。

 その瞬間、バルサモが去ることで失神を解かれたかのように、アンドレが目を開いた。

 だがまだしばらくは口も利けず、呆然として目を見開いていた。

「神様!」フィリップが囁いた。「まだ完全ではありません、白痴になってしまったのでしょうか?」

 アンドレはその言葉を理解したらしく、首を横に振った。だがそれでも相変わらず口は利けず、忘我の状態にあった。

 立ったまま、バルサモが消えた方角に腕を伸ばした。

「もうよい。もうすっかり済んだことだ。フィリップ、アンドレに力を貸してくれ」

 フィリップは自由な方の腕をアンドレに貸した。アンドレは反対側をニコルに抱えられて、夢遊病者のような足取りで邸に戻り、別館に到着した。

 そこでようやく言葉を取り戻した。

「フィリップ!……お父様!」

「わかるのか、ぼくらがわかるんだな!」フィリップが声をあげた。

「もちろんわかりますわ。でもいったい何が起こったのかしら?」

 アンドレは再び目を閉じたが、今度は気絶したのではなく、穏やかな眠りに就いたのだった。

 ニコルが一人部屋に残り、アンドレの服を脱がして寝台に横たえた。

 フィリップが部屋に戻ると、医者が待っていた。アンドレを心配する必要がなくなった時に、ラ・ブリが機転を利かせて呼びに走っていたのだ。

 医者はフィリップの腕を診察した。折れてはおらず脱臼だけで済んでいた。医師は巧みに力を込めて、外れていた肩を関節に嵌め直した。

 それが終わると、先ほどから気を揉んでいたフィリップは、医師をアンドレのところに連れて行った。

 医者はアンドレの脈を診て、呼吸を聞き、笑みを浮かべた。

「子供のようにぐっすりと眠っていらっしゃいます。眠らせておきましょう。ほかに出来ることはありません」

 男爵は息子と娘の無事を確認して、ぐっすりと眠っていた。

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