翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』第71章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十一章 快復

 こうしてジルベールの具合もすっかりよくなったとルソーが納得し、それもこれもド・ジュシューという偉いお医者さんの診察のおかげだとテレーズが奥さん連中に触れ回っているうちに、ジルベールはすっかり危険を脱していた。意地を張ったりいつも夢見たりしていたせいでジルベールはこれまでにも危険な目に遭って来たが、こうして全般的に信頼されている間に人生最大の危険に遭ったのだ。

 ルソーは論理的推論に支えられた疑念を心中に抱かないほどお人好しではなかった。

 ジルベールが恋に落ちていることは知っていたし、面と向かって健康上の言いつけに背いたのを見つけて驚いていたので、ジルベールを自由にさせ過ぎると同じような過ちを犯すに違いないと判断した。

 そこでルソーは良き父として、屋根裏の南京錠をこれまで以上にしっかりと掛けた。窓から出る道はひそかに残されていたものの、扉を通ることは事実上禁じられたのである。

 この心遣いによって屋根裏を牢獄に変えられて、ジルベールがどれほどの怒りを覚え如何なる企てを考えたのかは、言葉には尽くし難い。

 ある種の人々にとって、圧力とは実りの母である。

 ジルベールはアンドレのことしか考えていなかった。遠くからであろうと、快復状況をじっと見守る喜びのことしか考えられなかった。

 だがアンドレは別館の窓に姿を見せなかった。ニコル一人がお盆で煎じ薬を運んでいたり、頭をはっきりさせるつもりなのか、ド・タヴェルネ男爵が庭を歩き回って苛々しながら嗅ぎ煙草を嗅いでいたりするのが見えたが、どれだけ部屋の奥や厚い壁を見渡そうとも、見えたのはそれだけであった。

 それでも細々としたところが見えたことで幾分か落ち着くことが出来た。それはつまり、臥せってはいるが死んではいないということだからだ。

「あそこか」とジルベールは独り言ちた。「あの扉の向こうか衝立の向こうに、僕の愛している人が息をして息を吐いて苦しんでいるんだ。その姿を見れば額には汗が流れ、手足が震えるあの人が。僕の存在を支えるあの人が。あの人を通して僕は二人のために呼吸をしているんだ」

 そうしてジルベールは天窓から身を乗り出した。覗いていたションに言わせれば、一時間のうち二十回は落ちてもおかしくないような乗り出し方だった。ジルベールは目を働かせて、仕切り壁や床の大きさ、別館の奥行きを測り、頭の中に正確な図面を引いた。あそこにはド・タヴェルネ男爵が寝ているに違いない。あそこは配膳室か台所で、あそこはフィリップが使っている私室で、あそこはニコルのいる小部屋、そしてあそこがアンドレの寝室だ。その聖域の扉の前でなら一日をひざまずいて過ごす代わりに生命を投げ打ってもいい。

 ジルベールに倣えばその「聖域」は、一階にある大きな部屋で、玄関の間に通じており、ガラスの嵌った壁が食い込んでいる。ジルベールの計算によればその壁の向こうはニコルの寝室のはずだ。

「ああ!」ジルベールは嫉妬で気も狂わんばかりだった。「あの庭に足を踏み入れてこの窓を見上げる人たちや、階段にいる人たちは、何て幸せなんだろう! 何も知らずに花壇の土を踏みしめる人たちは何て幸せなんだろう! きっと夜になればアンドレの繰り言や吐息が聞こえるんだろうな」

 願望から実行までには遙かな隔たりがあった。それでも豊かな想像力にはその隔たりを狭める力があった。想像力にはそのための手段がある。不可能も実現できる。大河に橋を架け、高峰に梯子を掛ける術を心得ていた。

 ジルベールは初めの数日間、願望に耽ってばかりいた。

 やがてこれほどまでに妬ましい幸せな人間が、ジルベール自身と同じく庭の土を踏みしめるための足や扉を開けるための腕を授かっている普通の人間なのかと、つらつら考えた。ついには、この禁制の家にこっそり忍び込んだり、鎧戸に耳を押しつけて洩れ来る音を聞いたり出来たらどれほど幸福だろうかと思い描き始めた。

 願望ではち切れそうになり、いつ実行に移してもおかしくなかった。

 さらには見る見るうちに力が戻り、若さが宿り満ちた。三日後には、発熱のせいもあって、これまで感じたことのないほどの力強さを感じていた。

 ルソーに閉じ込められていては、ド・タヴェルネ嬢の部屋に扉から忍び込むという難題を解けないことはわかっていた。

 コック=エロン街に通ずる扉は開いているのだ。プラトリエール街に閉じ込められていては、如何なる通りにも出ることが出来ないのだから、如何なる扉を開きに行く必要もない。

 窓には何もされていない。

 屋根裏の窓は四十八ピエの高さにあった。

 酔っぱらいか気違いでもない限り、そこから降りる危険を冒す者などいまい。

「それにしても扉というのはうまく出来ているものだな」ジルベールは拳を咬んだ。「哲学者ルソー氏に閉じ込められてしまった!」

 南京錠をもぎ取ればいい! 簡単なことだ。だがもてなしてくれた家に戻りたい気持が勝った。

 リュシエンヌから逃げればいい、プラトリエール街から逃げればいい、タヴェルネから逃げて来たように。いつもいつも逃げてばかりいればその先には、忘恩や軽率のそしりを免れずにただ一人の女性を見ることはもはや出来なくなる道が待っている。

「いや、ルソーさんは何もわかるもんか」

 ジルベールは天窓に屈み込んだ。

「自由人に備わっているこの手足を使って、屋根瓦につかまり、軒を伝って行こう。随分と狭いのは確かだけれど、まっすぐだから、一歩一歩最短距離を取れば、たどり着けたならここと同じような天窓にたどり着ける。

「だけどあの天窓は階段のところにある。

「たどり着けなければ庭に落ちて音を立てるから、別館から人が出て来てぼくを抱き起こし、誰なのか気づくに違いない。清く気高くロマンティックに死ぬんだ。同情されるんだろうなあ。何てドラマティックなんだろう!

「たどり着くことが出来たなら、あらゆる点から見て出来るに決まってるんだけど、とにかくたどり着いたら階段から天窓に駆け込もう。裸足で二階まで降りれば、そこにも庭向きの窓があって、地上十五ピエくらいだ。そこから飛び降りて……

「ああ! もっと力があって、もっとしなやかだったらなあ!

果樹垣根エスパリエがあるからそれを利用して……

「でもあのエスパリエは金網に穴が空いているから壊れてしまいそうだ。転がり落ちたら、気高くロマンティックに死ぬどころか、石膏で真っ白になって傷だらけでみっともなく、梨泥棒のように見えるんだろうな。考えたくもないや! ド・タヴェルネ男爵のことだから、管理人に僕を鞭打たせたり、ラ・ブリに耳を引きずり回させたりするかも。

「冗談じゃない! ここには紐がたくさんある。藁から束が出来るというルソーさんの定義に従えば、縒り合わせれば綱になるぞ。

「一晩の間だけ、この紐をテレーズさんに借りよう。結び目を作っておいて、二階の窓にたどり着いたら、露台にでも何でも支えになるものに綱を引っかけて、庭に滑り降りればいい」

 ジルベールは樋を確かめ、紐を外して長さを見繕い、高さを見積もり、力と決意を自覚した。

 紐を編んで頑丈な綱にしなくてはならない。強さを確かめるため侘び住まいの梁に吊してみた。幸いなことに力を込めても一度しか血を吐かなかったため、夜の遠征に出向くことを決意した。

 ジャック氏とテレーズを首尾よく欺くために、病気を装い二時まで寝床に潜り込んでいたが、昼食を終えるとルソーは散歩に出てしまい、夜まで戻って来ないはずだ。

 眠たくて仕方がないので翌朝まで目を覚ましそうにないと、ジルベールはルソーに伝えた。

 ちょうど外で夕食を食べる予定だったので、ジルベールが元気そうで何よりだったというのが、ルソーの返答だった。

 それぞれに伝えたいことを伝えて二人は別れた。

 ルソーが出て行くと、ジルベールは再び紐を外して今度こそ懸命に縒り始めた。

 なおも樋や屋根を探っていたが、やがて夜まで庭を見張り始めた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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