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『ジョゼフ・バルサモ』第74章 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十四章 ジルベールを待ち受けていたもの

 一人残されたアンドレが椅子の上で身体を起こすと、ジルベールの全身に震えが走った。

 アンドレは立ち上がっていた。石膏のように白い手で、髪のピンを一つ一つ外し、薄い部屋着を肩から滑らせ、白く淑やかな首を露わにし、胸を脈打たせ、腕を頭上に反らせているために腰のくびれが強調され、白麻の下で震える美しい喉が際立っていた。

 ジルベールはひざまずき、息を切らし、陶然として、こめかみと心臓で血がどくどくと音を立てているのを感じていた。燃え上がった血潮が動脈を流れ、真っ赤な靄が視界を覆い、熱に浮かされたような無意味な呟きが耳元で唸っている。ジルベールはその瞬間、人間を狂気の淵に突き落とす恐ろしい錯乱に陥っていた。声をあげながら、アンドレの部屋の敷居を跨いでいた。

「ああ、何て綺麗なんだ! でもそれを鼻にかけるなよ、君には貸しがあるんだからな、君の命を救ったのは僕なんだ!」

 ここでアンドレは帯の結び目をほどくのに手間取った。苛々して足を踏み鳴らし、そんな簡単なことでも全力を使い果たしてしまったかのように、寝椅子にぐったりと坐り込んだ。そして半裸姿で呼び鈴の紐まで身体を伸ばし、じれったげに紐を揺らした。

 その音でジルベールは正気に返った。――ニコルはこの音が聞こえるように扉を開けっ放しにしておいたのだ。もうすぐニコルがやって来る。

 夢よさらば、幸福よさらば。これでもう心で燃え上がらせる空想と、胸の奥で温めている思い出しかなくなるんだ。

 ジルベールは外に駆け出そうとした。だが男爵が入って来た時に廊下の扉を引き寄せていた。ジルベールはそれに気づかずに、扉を開けるのにしばらくかかった。

 ニコルの部屋に入った時に、ニコルが戻って来た。庭の砂を踏む足音が聞こえる。やり過ごすのには暗がりに逃げ込む余裕しかなかった。ニコルは扉を閉めて玄関を通り、鳥のように軽やかに廊下に飛び込んだ。

 ジルベールは玄関まで行き、外に出ようとした。

 ところがニコルが走りながら声を出している。「あたしです、お嬢様! 扉を閉めまておきました!」ニコルはその言葉通り扉を閉め、錠を二重に回したばかりか、ついていないことに、鍵をポケットに仕舞い込んでいた。

 ジルベールは扉を開けようとしたが開く訳もなく、窓に活路を求めた。窓には鉄格子が嵌っていた。五分ほど模索した末にわかったのは、外に出るのは不可能だということだった。

 ジルベールは隅にうずくまり、ニコルに扉を開けてもらおうと固く決心した。

 ニコルはニコルで、もっともらしい言い訳をしていた。曰く温室の窓を閉めに出ていました、夜風がお嬢様のお花を傷めるといけませんものね。そうしてアンドレの服を脱がせて、寝台に寝かせた。

 ニコルの声は震えを帯びていたし、手はぶるぶると揺れ、お世話する間もいつになくそわそわし、手に取るように感情が洩れていた。だがアンドレは一人天上で考えに耽って地上を見ることはほとんどなく、見たとしても、下界の存在など小さな粒にしか見えなかった。

 つまるところアンドレは何も気づかなかった。

 ジルベールは退路を断たれてから苛立ちを募らせていた。今は自由になることしか考えていない。

 ニコルはお詫びの言葉を伝えてから、退出を許された。

 アンドレの布団を整え、明かりを小さくし、銀器に入れて雪花石膏アラバスターの灯火の上で温めておいた飲み物に砂糖を入れ、淑やかな声で就寝の挨拶をして、そっと部屋を出た。

 部屋を出るとガラス入りの扉を閉めた。

 そして心を落ち着かせようと鼻歌を歌いながら部屋を横切り、庭に通ずる扉に向かった。

 ジルベールにもニコルが何をするつもりなのかわかったが、誰なのか気づかれないように、扉が開いた瞬間を突いて逃げ出せないだろうかと、ふと思いついた。だがそうすると目撃されるのは見知らぬ人物ということになる。泥棒と間違われてニコルが助けを呼ぶから、綱までたどり着く時間はないだろうし、戻れたとしても空中を逃げているところを見られてしまう。隠れ家がばれて大騒ぎになるだろう。悪意のある人々、つまりはジルベールにとってタヴェルネ家の人々に、大騒ぎする恰好の口実を与えることは間違いない。

 ニコルのことを告げ口することは出来るし、ニコルを馘首にすることも出来るのは確かだ。でもそれに何の意味があるだろうか? ただ復讐を果たすだけで、何の得もない。ジルベールはそれほど心の弱い人間ではない。復讐を果たして喜びを感じるなんて。役に立たない復讐など、稚拙な行動でしかなかった。愚行である。

 そこでニコルが出口まで来た時、ジルベールは隠れていた暗がりから飛び出し、ガラス越しに射し込む月明かりの中に姿をさらした。

 ニコルは悲鳴をあげかけたが、ジルベールを別人と間違えて、ぎょっとして声をかけた。

「あなたなの? 向こう見ずね!」

「ああ、僕だよ」ジルベールが小声で答えた。「別人と間違えてそんな大きな声を出さないでもらえるかい」

 これでニコルにも相手が誰なのかわかった。

「ジルベール! 嘘でしょう?」

「頼むから大声を出さないでくれ」ジルベールは吐き捨てた。

「こんなところで何してるの?」ニコルが怒りをぶつけた。

「いいかい」ジルベールは落ち着き払っていた。「さっき僕のことを向こう見ずと言ったけれど、向こう見ずなのは君の方じゃないか」

「あらほんと? あなたがここで何をしているのかちゃんとわかってるんだから」

「何だって?」

「アンドレお嬢様に会いに来たんでしょう」

「アンドレお嬢様だって?」ジルベールはなおも落ち着いていた。

「ええ、惚れてるんですものね。ありがたいことに、向こうは何とも思ってないみたいだけど」

「そうかい」

「とにかく気をつけることね、ジルベール」ニコルが脅すような声を出した。

「気をつけろ?」

「ええ」

「何に?」

「告げ口されないように気をつけなさい」

「君が告げ口するというのか?」

「ええ、あたし。お払い箱にされないように気をつけなさい」

「やってみろよ」ジルベールは口を歪めて笑った。

「喧嘩を売る気?」

「望むところさ」

「じゃああたしがお嬢様とフィリップ様と男爵様に言ったら、ここであなたに会ったと言ったら、どうなると思う?」

「君が言った通りのことが起こるだろうね、ただし僕はお払い箱にされたりはせず――ありがたいことにとっくにお払い箱になってるから――獣のように追い立てられるんじゃないかな。とにかく、お払い箱になるのはニコルの方さ」

「あたしが?」

「ニコルだよ、間違いない――塀越しに石を投げてもらったニコルさ」

「気をつけなさい、ジルベール」ニコルが再びすごんで見せた。「ルイ十五世広場で、お嬢様のドレスの切れ端をあなたが握っているのが見られてるんだから」

「そうかい?」

「フィリップ様がお父上に仰ってたの。まだ何も気づいてないみたいだけど、一言助言があれば、すぐに気づくんじゃないかしら」

「誰が助言するっていうんだ?」

「あたしよ」

「気をつけろよ、ニコル。レースを広げるふりをして、塀越しに放り投げられた石を拾っていたことも気づかれるんだからね」

「そんなの嘘よ!」

 ニコルは声をあげて言い張った。

「だいたい、手紙を受け取るのは悪いことでも何でもないでしょ。お嬢様が着替えている最中にここに入り込むのも悪いことじゃないんだものね……どう言い訳するつもりかしら?」

「君のような賢明な女の子が庭木戸の下に鍵を滑り込ませるのだって悪いことではないって言うつもりさ」

 ニコルが震え上がった。

「僕のことはド・タヴェルネ男爵もフィリップさんもアンドレお嬢様も知っているからね、そんな人間が部屋に忍び込んだのは、昔のご主人様たち、それもアンドレお嬢様の容態が不安で気が気じゃなかったからだって言うつもりさ。あそこからアンドレを助け出そうとしたのは僕なんだからね、君が言ったように、手にドレスの切れ端を握っていたのがその証拠さ。ここに忍び込んだのは些細な罪だけれど、ご主人様の家に他人を忍び込ませたり、そいつと温室で一時間過ごした後でまた会いに行ったりするのは重大な罪だって言うつもりだ」

「ジルベール! ジルベール!」

「つまり貞節の話だけど――マドモワゼル・ニコルの貞節だぜ――そうだなあ! 僕が君の部屋にいたりするとまずいことになるんじゃないかな、それでいながら……」

「ジルベール!」

「僕がお嬢様に惚れているなんて言ってご覧よ。僕は君とつき合っていたって言うつもりだし、お嬢様だってそれを信じるだろうね。君は馬鹿だから、タヴェルネでお嬢様に、自分でそれを言っちゃうんだものなあ」

「ジルベール、お願い!」

「そうすれば君はお払い箱さ。お嬢様と一緒にトリアノンにも行けず王太子妃のおそばにもいられず、立派な領主や裕福な貴族とも浮き名を流せないよ、家に残された時にはどうせそんなことばかりするつもりなんだろうけど。そうはならずに恋人のド・ボージールと一緒になることになるだろうな、ただの指揮官代理、軍人とね。ははっ! 絵に描いたような転落じゃないか、ニコルの野心も儚く消えましたとさ。フランス人衛兵の恋人だものなあ!」

 ジルベールはけらけらと笑いながら歌い出した。

 ――あたしの彼は、近衛兵~!

「お願いだからジルベール、そんな風にあたしを見ないで。すごく意地悪く、暗闇の中で光ってる。お願いだからもう笑わないで、ぞっとするわ」

「だったら」とジルベールが威圧的な声を出した。「扉を開けるんだ、ニコル。これ以上は何も言うなよ」

 扉を開けたニコルは激しく震えており、肩や頭を老人のようにぷるぷると揺らしていた。

 ジルベールが先に家から出て、ニコルが出口まで案内しようとするのを見た。

「違う、そうじゃない。それは君がここに人を入れる時のやり方だろう。僕は僕なりのやり方で出て行くんだ。ド・ボージールに会いに温室に行けよ、やきもきしながら待ってるぜ。予定より十分長くいちゃついていればいい。おとなしくしてくれたお礼だよ」

「十分、どうして十分なの?」ニコルが震えながらたずねた。

「ここから出るのに十分かかるからさ。さあ、行った行った。タヴェルネの干し草の山で逢い引きした時に話したことがあっただろう、ロトの妻みたいに、振り返らずに進むんだ。さもなきゃ塩の柱に変わるよりもまずいことになるぞ。さあ行くんだ、浮気女め。もう何も言うことはない」

 ニコルは弱みを握られたジルベールから頭ごなしに大言され、為すすべもなく怯えて打ちのめされたまま、頭を垂れて温室に戻った。そこには確かに指揮官代理ボージールがじりじりしながら待っていた。

 ジルベールの方は見られていないことを確かめてから壁と綱のところに戻り、葡萄の株と垣根を足がかりに二階の鉛管までたどり着き、そこから屋根裏部屋まで素早くよじ登った。

 幸いなことに、登っている最中に人に気づかれることはなかった。隣人たちは既に眠っていたし、テレーズはまだ食卓だった。

 ニコルをへこませて来たことに昂奮してかっかしていたので、樋につまずくことなど気にも留めていなかった。それどころか運命の女神フォルトゥーナの如く鋭く研いだ剃刀の上さえ、たといその剃刀が一里あろうとも、歩けそうな気がしていた。

 アンドレはその向こう端にいる。

 ジルベールは天窓に戻ると窓を閉め、書き置きを引きちぎった。誰にも読まれてはいなかった。

 満ち足りた気持で寝台に横になった。

 半時間後、テレーズが予定通り扉越しに具合をたずねた。

 ジルベールは眠たくて仕方がないのを装って、あくび混じりに感謝を伝えた。早く一人になりたかった。暗闇と静寂の中で考えをまとめ、心と頭脳と身体全体を総動員して、この日の焼けつくような得も言われぬ思いを分析したかった。

 やがてジルベールの目からは、男爵もフィリップもニコルもボージールも姿を消した。記憶の底に見えるのは、もはやアンドレだけだった。半裸になって、腕を頭上に反らし、髪からピンを外しているアンドレの姿だけだった。

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