翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第88章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第八十八章 国王の分け前

 一人残されたデギヨン公爵はしばらくまごついていた。叔父に言われたことはすっかり理解していたし、デュ・バリー夫人がそれを聴いていることもすっかり理解していた。頭の切れるデギヨンは、要するに問題はこうした状況の許で誠実な人間でいることであり、リシュリュー老公爵が協力させようとした勝負に一人で挑むことだ、ということもすっかり理解していた。

 国王のお成りによって、幸いにもデギヨン氏は言い訳せずに済んだ。本来であれば自らの潔癖のせいで言い訳せねばならぬ事態を招いていたところだ。

 元帥は欺かれたままで済ますような人間ではないし、自分のお金で他人の美徳を磨き立てさせておくような人間でもない。

 だが一人残されたデギヨンにはじっくり考える時間があった。

 ついに国王が到着した。国王の近習が控えの間の扉を開けると、ザモールが飴を貰おうと飛び出して行った。ルイ十五世は気分の鬱いでいる時にはいつも、馬鹿にしたようにザモールの鼻をはじいたり耳を引っ掻いたりするのがお決まりであった。

 国王は中国風の部屋キャビネに向かった。デュ・バリー夫人が叔父との会話を一言も洩らさず聴いていたのはデギヨンも承知するところであったので、デギヨンの方でも国王と伯爵夫人の会談に初めから耳を傾けた。

 国王陛下は重荷を背負ってでもいるように疲れて見えた。アトラスが十二時間に渡って両肩に天を背負い、一日を終えた後の方がまだ手足の自由が利いていたはずだ。

 ルイ十五世は寵姫から感謝と喝采とねぎらいを受けた。ド・ショワズール氏の罷免がどのような影響を及ぼしたのかを聞かされ、大いに楽しんだ。

 デュ・バリー夫人はここで危険に踏み込んだ。危険ではあったが、政治の話をするにはよい風向きだった。それに、四大世界の一つを揺り動かせるほど勇ましい気分だった。

「陛下、解体や取り壊しはお見事でしたわ。でも大事なのは再建することじゃありません?」

「もう済ませた」国王は素っ気なく答えた。

「内閣を組みましたの?」

「うむ」

「息つく暇もなくあっという間でしたのね?」

「能なしばかりだがね……いや、そなたは女だ! いつぞや言っていたように、料理人を馘首にする前に新しいのを捕まえておかぬのか?」

「内閣を作った話を聞かせて下さいまし」

 国王はゆったりとした長椅子から立ち上がった。坐るというよりも寝そべって、伯爵夫人の肩をクッション代わりにしていたところだった。

「勘繰られはせぬかね、ジャネット。何か心配事があって聞き出そうとしているのだとか、内閣の顔ぶれを見てくさすつもりだとか、組閣の腹案を余に吹き込もうとしているだとか思われかねぬぞ」

「でも……それほど見当違いでもありませんわ」

「まさか?……腹案があるのか?」

「陛下もお持ちでしょう!」

「それが余の仕事だからな。そなたの考えを聞かせてくれぬか……」

「あら、陛下のをお聞かせ下さいまし」

「いいだろう。参考までに」

「まず海軍担当はド・プラランさんでしたけど?」

「新任する。海を見たことのない好人物だ」

「仰って」

「我ながら名案だぞ。余の人気も上がるだろうし、二つの海で肖像に刻まれるのは間違いない」

「ですからどなたですの?」

「絶対に当てられぬだろうな」

「陛下の人気を上げるような方……駄目だわ、わかりません」

「高等法院の人間だよ……ブザンソンの院長だ」

「ボワネさん?」

「ご名答……それにしてもよく知っておるな!……あの連中を知っているのか?」

「しょうがないじゃありませんか、陛下が一日中高等法院の話をなさるんですもの。でもその方、櫂を見てもそれが何なのかわからないんじゃありませんの」

「それでいいのだ。ド・プラランは仕事に詳し過ぎたし、造船には金がかかり過ぎる」

「では大蔵省は?」

「うむ、財務総監はまた別だ。専門家を選んだ」

「財政家ですか?」

「いや……軍人だ。財政家には長いこと食い物にされていたからな」

「では陸軍大臣は?」

「驚くなかれ、財政家に決めてある。テレーは数字にはうるさいからね。ド・ショワズール氏の数字上の間違いを見つけ出してくれるだろう。実を言えば、陸軍には誰もが素晴らしいと噂する立派な人物を据えようと思っていたのだ。哲学者は大喜びしていただろうな」

「どなたですの? ヴォルテール?」

「惜しい……デュ・ミュイ殿だ……現代のカトーだよ」

「怖がらせないで下さいまし」

「もう済んだことだ……来てもらい、署名はもらってあったのだ。感謝していたぞ、我ながらどうした思いつきかわからぬが、心せよ、伯爵夫人、今夜リュシエンヌに呼んで食事とおしゃべりをしようと思わず伝えた時にはな」

「まあ恐ろしい!」

「デュ・ミュイも同じことを申しておった」

「そんなことを仰いましたの?」

「言い回しは違ったがね。とにかく情熱の限り国王に仕えることは約束したが、デュ・バリー夫人に仕えることは出来ぬと申しおった」

「立派な哲学者ですこと!」

「余の返事は言うまでもないな。手を伸ばし……任命状を取り返し、飽くまでにこやかなままびりびりに破いてやった。デュ・ミュイは姿を消したよ。それでもルイ十四世であればバスチーユの穴蔵で朽ちさせていたところだ。だが余はルイ十五世、余が高等法院に鞭を打つのではなく、高等法院が余に鞭を打つのだからな」

「どちらでも構いません」伯爵夫人は国王を口づけで覆った。「あなたは申し分のない方ですもの」

「みんながみんなそうは言うまい。テレーは憎まれておるしの」

「そうじゃない人なんているかしら?……それで、外務大臣は?」

「ベルタンだ、知っているだろう」

「存じません」

「では知らぬのか」

「でもとにかく、あたくしには一人として大臣に相応しい方には思えませんの」

「まあよい。そなたの腹案を教えてくれぬか」

「一人しか申せませんわ」

「教えてくれぬのかと思ったぞ」

「元帥です」

「どの元帥だね?」国王は顔をしかめた。

「ド・リシュリュー公爵です」

「あの老人か? あの臆病者のことか?」

「その臆病者のマオンの英雄のことです!」

「ふしだらな老人だ……」

「陛下、あなたの戦友です」

「女がみんな逃げ出しておった」

「だからどうだと言うんですの、しばらく前からそんなことなさってませんわ」

「リシュリューの名は出さんでくれ、あれは猪だ。あのマオンの英雄にはパリ中の賭博場を連れ回され……世間から囃されたものだ。ならん、ならん! リシュリューだと! その名前を聞いても気分が悪くなるだけだ」

「ではお嫌いですの?」

「誰のことだ?」

「リシュリュー一族のことです」

「憎んでおる」

「一族全員を?」

「全員だ。フロンサックが立派な貴族とはな。何度車責めの刑にしても飽きたらぬ」

「お任せしますわ。でも世間にはほかにもリシュリューはいますでしょう」

「ああ! デギヨンか」

「ええ」

 この言葉を聞いて閨房の中でデギヨンの耳がピンと立ったかどうかはご想像にお任せしよう。

「誰よりも憎むべき人間ではないか。フランス中の騒ぎをすべて余の腕に預けおって。だが余の方が立ち直れぬほど弱い人間なだけであって、あの大胆さは嫌いになれぬ」

「頭の切れる方ですわ」

「勇敢だし、王家の特権を守るのに熱心な人間だ。あれこそ真の貴族だ!」

「何度でも同意しますわ! 何かして差し上げて下さいな」

 国王は伯爵夫人を見つめて腕を組んだ。

「どうしてそんなことを申すのだ? フランス中がデギヨン公爵の追放や失職を望んでいる時だというのに」

 今度はデュ・バリー夫人が腕を組んだ。

「さっきリシュリューのことを臆病者とお呼びになりましたよね。そっくりそのままあなたにお返しいたします」

「おお、伯爵夫人……」

「あなたは誇り高い方ですわ、ド・ショワズール氏を罷免なさったのですから」

「だがあれは簡単なことではなかった」

「それでも実行なさったんです。それが今は結果を恐れて尻込みなさってる」

「余が尻込みしているというのか?」

「違いまして? ド・ショワズール公爵を罷免してどうなりました?」

「高等法院から尻を蹴られておる」

「何もかも言いなりになるおつもりですか? 足を片方ずつ順番に上げればいいんです。高等法院がショワズールを再任させたがっていた時には、ショワズールを罷免なさったんです。デギヨンを罷免させたがっているのだから、デギヨンを任命なさいまし」

「罷免はせぬ」

「では何倍にも改め何倍にも増やして任命なさって下さいな」

「あのごたごたを理由に大臣の職を与えよと言うのか?」

「地位と財産を賭けてあなたを守ったご褒美を差し上げて欲しいんです」

「これからの人生は、そなたの友人モープーと一緒に毎朝石を投げられることになるぞ」

「あなたを守って下さるのですから、あなたも応援して差し上げるものと思いますが」

「見返りはあるのだろうな」

「そういうことは自分から仰らずに、相手にしゃべらせておくものですわ」

「そうか! それにしてもデギヨンにこれほどご執心なのはどうした訳だね?」

「ご執心だなんて! あの方には会ったことも。今日会ったばかりで、話をしたのも初めてですわ」

「では別だ。信頼があるのだな。余にはないものだから、信念というものには常々敬意を払っておる」

「デギヨンに何もやりたくないというのでしたら、リシュリューや、デギヨンの名前に何か差し上げて下さい」

「リシュリューに! とんでもない、何もやらぬぞ!」

「リシュリューにやらぬというのでしたら、デギヨン氏に」

「何だと! こんな状況で大臣の地位を与えろと言うのか? 無理だ」

「事情はわかります……でも後でなら……才能も実行力もある人間だということをお考え下さいまし。テレー、デギヨン、モープーがいれば、三つの頭を持つケルベロスを手にしたも同然です。それにあなたの内閣は長く持たない洒落みたいなものですもの」

「残念だね、三か月は持つはずだ」

「では三か月後に、言質を取りましたわ」

「待ってくれ、伯爵夫人!」

「もう決まったことです。差し当たり……贈り物が要るんですけれど」

「何もない」

「近衛軽騎兵聯隊をお持ちじゃありませんの。デギヨン氏は将校ですもの、剣客というやつでしょう。近衛聯隊をお与えになったら?」

「よい、わかった、そうしよう」

「ありがとうございます!」伯爵夫人は喜びを爆発させた。

 ルイ十五世の頬中に口づけを浴びせる音がデギヨン氏にも聞こえた。

「ここらで夜食にせぬか、伯爵夫人」

「それが、ここには何もありませんの。政治の話で大変でしたから……みんな議論やおしゃべりに忙しくて、料理には手が回りませんでした」

「ではマルリーに連れて行こう」

「無理です。頭が割れそうなんですもの」

「頭痛がするのか?」

「ひどい痛みです」

「では横になりなさい」

「そうするつもりでした」

「では、これで……」

「また後ほど」

「まるでド・ショワズール氏だね。追い出されてしまった」

「見送りに、お祝いに、餞別の言葉があるのにですか」伯爵夫人はゆっくりと国王を戸口まで見送ると、ついに部屋の外に連れ出し、笑って一段一段振り返りながら階段を進んだ。

 伯爵夫人が柱の上から燭台を取り上げた。

「伯爵夫人」階段を上っている国王が声をかけた。

「何ですか?」

「元帥が死なぬとよいのだが」

「どうして死ぬなどと?」

「大臣の椅子が引っ込んだからさ」

「ひどい方ね!」伯爵夫人は先に立って歩きながら、けたけたと声をあげた。

 国王陛下は憎らしい公爵に最後に皮肉を言えたことに満足して邸を出た。

 伯爵夫人が閨房に戻ると、デギヨンが戸口にひざまずき、手を合わせて感謝の眼差しを向けていた。

 伯爵夫人は顔を赤らめた。

「しくじってしまいましたわ。可哀相に元帥は……」

「存じております。聞こえていましたから……ありがとうございます!」

「感謝してもらうだけのことはしたと思いますが」伯爵夫人は莞爾と微笑み、「でもどうかお立ちになって下さい。頭が切れるだけでなく記憶も優れてらっしゃると思ってしまいますわ」

「そうかもしれません。叔父が申したように、私はあなたのために尽くす人間でしかありませんから」

「それに国王のために。明日は陛下に敬意を表することになりますわ。お願いですからどうかお立ちになって」

 伯爵夫人が手を預けると、デギヨン公は恭しく口づけした。

 伯爵夫人は動揺を抑えられなかった。それ以上は一言も口を利かなかったところを見ると、そのようだ。

 デギヨン氏も無言のまま、動揺していた。ついにデュ・バリー夫人が顔を上げた。

「元帥もお気の毒に。負けを」

 デギヨン氏はそれを退出の合図と受け止め、頭を下げた。

「これから元帥のところに向かうつもりです」

「あら、悪い報せは出来るだけ後で知らせるものですわ。元帥のところに行くよりも、あたくしと夜食をご一緒いたしませんか」

 デギヨン公爵は若さと愛の芳香が燃え上がり、心臓の血が若返るのを感じた。

「あなたは女性ではなく……」

天使ランジュ、でしょう?」伯爵夫人は燃えるような口唇を耳に近づけた。ほとんど触れんばかりにして声を潜ませ、卓子に公爵を引き寄せた……

 その夜、デギヨン氏は自分がこよなく幸せだと感じていたに違いない。何故なら叔父から大臣の職を掠め、国王の分け前をいただいたのだから。

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