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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第94章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第九十四章 変身

 ニコルはもはや喜びで我を忘れていた。タヴェルネを離れてパリに向かうことに比べても、パリを離れてトリアノンに向かうのは、ニコルにとって遙かに大きな勝利だった。

 ド・リシュリュー氏の御者の隣に坐ったニコルが非常に魅力的だったため、新しい小間使いの評判は翌日にはヴェルサイユやパリ中の車庫や控えの間に知れ渡っていた。

 アノーヴル館に到着したので、ド・リシュリュー氏がニコルの手を取って自ら二階まで案内すると、そこにはラフテ氏が待ち受けており、夥しい手紙を書いて会計に当たっていた。

 元帥の仕事の中でも、戦争はとりわけ大きな地位を占めていたため、ラフテは少なくとも理論上は戦争の名人であり、ポリュビオスや騎士シュヴァリエド・フォラールが生きていたなら、ラフテが毎週書き上げている要塞や演習についての見積もりを受け取ることにたいへんな幸せを感じたことであろう。

 斯くしてラフテ氏が地中海における対イギリス戦の計画に取り組んでいる間に、元帥がやって来て声をかけた。

「すまんがラフテ、この子を見てくれ」

 ラフテは見つめた。

「結構なお嬢さんでございますね」そうしてさらに意味深に口唇を動かした。

「うむ、だが誰かに似ておらぬか?……ラフテよ、わしはその話をしておるのだ」

「本当だ! いや、まさか!」

「気づいたな?」

「驚きました。それにしてもこれは凶と出ますか吉と出ますか」

「いずれ凶であっても、転じればよい。見ての通り金髪をしておるだろう。だがそれもたいしたことではあるまい、違わぬか?」

「黒くするのは簡単なことでございます、閣下」ラフテは主人の考えをすくい上げることには慣れていたし、時には本人の代わりに一から十まで考えることさえあった。

「さあ化粧室に来なさい」元帥が声をかけた。「この男は名人だ、あなたをフランス一の並ぶ者なき美しい侍女にして差し上げよう」

 斯くして十分後、元帥の化粧品を用いて、ラフテはニコルの白みがかった金髪を漆黒に染め上げた。元帥は毎週鬘の下の白髪を黒く染めるのにその化粧品を使っていて、今でもまだ機会さえあれば知人の閨房で見せつけたいという気取りをなくしていないのだ。髪が終わると今度は濃い金の眉を、蝋燭の火で黒ずませたピンでなぞった。それから明るい顔に不思議な光を与え、鮮やかに澄んだ目には燃え立つようでいて時に翳りの見える火を注いだ。その姿はさながら呪文によって魔法使いの壺から呼び出された精霊のようだった。

「ほれ、見給え」リシュリューは呆然としているニコルに鏡を見せた。「自分がどれだけ魅力的かわかるであろう。先ほどまでのニコルは影も形もない。もはや凶を恐れるのではなく吉をその手につかむことになろう」

「閣下!」ニコルが声をあげた。

「うむ、そのためにはまず理解しあわねばならぬ」

 ニコルは顔を赤らめ目を伏せた。リシュリューも自分で何を言ったのかよくわかっているのだろうと、女狐は勘繰っていたのである。

 リシュリュー公爵はそれに気づいてすぐさま誤解を解いた。

「その椅子に坐り給え。ラフテ氏の隣だ。耳をかっぽじってよく聞き給え……ラフテ氏のことは気にするな、心配いらん。それどころか助言をくれるはずだ。わかったな?」

「わかりました、閣下」自惚れて勘違いしたことを恥じて口ごもった。

 ド・リシュリュー氏とラフテとニコルの会話は長い間続いていた。やがて公爵はニコルを家の小間使いと一緒に寝ませた。

 ラフテは軍事録に戻り、ド・リシュリュー氏は手紙をめくってデギヨンに対する地方の高等法院の陰謀とデュ・バリーの計画を確認してから床に戻った。

 翌日の朝、紋章のない馬車がニコルを乗せてトリアノンに向かった。馬車は柵のそばで荷物を降ろし、姿を消した。

 ニコルは顔を上げ、自由に胸をふくらませ、期待に目を輝かせて、目指す先を探して使用人棟の扉を叩きに向かった。

 朝の十時。アンドレはもう目を覚まして着替えを済ませ、父に手紙を書いて前夜の幸運を知らせようとしていた。ド・リシュリュー氏が使者を向かわせたのはご存じの通りである。

 読者諸兄は覚えておいでであろう。石段がプチ・トリアノンの庭から礼拝堂に続いており、その礼拝堂の踊り場には、二階(とはつまり)女中部屋に直通している階段があり、庭に面した長い廊下が並木道のように部屋を繋いでいることを。

 アンドレの部屋はこの廊下の左端にあった。部屋は充分に広く、厩舎の中庭から採光されて、手前には左右を二つの小部屋キャビネ挟まれた小さな寝室があった。

 輝かしい宮廷の列席者が使っている一般的な一間と比べれば足りないところがたくさんあるとはいえ、宮殿を満たしているざわめきから逃れてみれば、隠遁所のように住みやすく心地よい、魅力的な小部屋セリュルだった。ここにいれば侮辱や失望を喰らい尽くす日中の貪欲な魂から逃れることが出来た。ここにいれば静寂や孤独の中で、孤高の中で、慎ましく侘びしい魂を休ませることも出来た。

 ひとたびこの石段を跨ぎ、礼拝堂の階段を上ってしまえば、もはや優位も義務も体面もないのは事実だった。静かなことは修道院の如く、肉体的に自由なことは囚人生活の如きである。

 アンドレのように穏やかで誇り高い精神の持ち主は、そうしたあれこれから自分なりに値打ちを引き出していた。叶えられない野心や満たされずに疲れた思いを休ませに来たのではない。トリアノンの豪華な応接室にいるよりも、この狭苦しい四角い部屋の中にいた方が落ち着いていられた。トリアノンにいると舗石を踏みしめるたびに内気というより恐怖に近い気持を感じていた。

 居心地のよさを感じていたこの薄暗い一隅から、昼間の間は目を眩ませていたまばゆい景色を今は落ち着いて眺めていた。花々やチェンバロ、心の友であるドイツ語の本に囲まれて、悲しみをもたらし喜びを奪おうとする運命に挑んでいた。

「ここには――」夜になって仕事を上がると、大きな襞のついた化粧着を纏い、肺いっぱいならぬ魂いっぱいに息を吸い込んだ。「ここには、死ぬまで手にしていたいものが何でもある。いつの日にかもっと豊かになるつもりだけれど、絶対に貧乏には戻らない。孤独を慰める花や音楽や一ページを絶やすことはもう二度とない」

 アンドレは望む時には部屋で朝食を摂る許しを得ていた。アンドレにとっては願ってもない厚意だった。王太子妃から朗読や朝の散歩に呼ばれない限り、そうやって昼まで部屋で過ごすことが出来るのだ。天気のいい日には本を持って朝から出かけ、トリアノンからヴェルサイユまで続いている大きな森を一人で歩くのも自由だった。二時間あまり散歩をしたり空想に耽ったりした後で、朝食に戻った。貴族にも従僕にも兵士にもお仕着せにも会わないことも多かった。

 木陰にも暖かさが忍び込み始める頃になると、アンドレは部屋の窓と廊下の扉の両方から涼しい空気を入れた。インド更紗で覆われた小さな長椅子、同じく四脚の椅子、丸い天蓋のついた清潔な寝台には同じくインド更紗のカーテンが垂れ、暖炉には陶磁の花瓶が二個、銅の脚のついた四角い卓子。これが小さな宇宙を形作るすべてであり、アンドレの希望と願いを閉じ込めた空間である。

 先ほど申し上げたようにアンドレがこの部屋に坐って父に手紙を書いていると、廊下の扉が控えめに叩かれた。

 顔を上げて開いた扉を見て、アンドレは驚きの声をあげた。喜びにあふれたニコルの顔が小さな控えの間から覗いていた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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