翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 105(前半)

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五章 肉体と魂(前半)

 代表者のそばに最後まで残っていたのは、外科医のマラーだった。

 マラーは真っ青な顔をして、おずおずと全能の演説者に近づいた。

親方マスター、私は間違いを犯したのでしょうか?」

「大きな間違いを、な。最悪なのは、間違ったと思っていないところだ」

「正直に言わせていただければ、間違いを犯したとは思っておりませんし、話したことも適切だったと思っておりますが」

「自惚れるな! 自惚れは身を滅ぼすぞ! 血管で暴れ狂う熱や、水中や空中に潜むペストとは戦おうとするくせに、心の奥深くに潜り込んだ自惚れは摘出が不可能になるまでのさばらせておくのが人間というものだ」

「そんな風に思われているとは残念です。すると私はただの雑魚に過ぎず、同志の一員とは認めてもらえないのでしょうか? 仕事の成果を共にする価値もなく、無智のそしりを受けずには一言も発言できないのですか? 信仰に疑いを持たれるような不真面目な会員なのでしょうか? そんな存在でしかないとしても、人類の大義のためにこの身を投げ打つつもりに変わりはありません」

「心の何処かでまだ善悪の葛藤が続いているからだ。いつか悪に流されてしまいそうで気が気でないから、俺がその欠点を正してやろう。上手く行けば、自惚れに襲われることは二度とあるまい。一時間で済む」

「たった一時間で?」マラーがたずねた。

「ああ。一時間借りてもいいな?」

「もちろんです」

「何処がいい?」

「忠実な僕である私が、あなたの決めた場所まで参ります」

「では、お前の家で」

「約束をお忘れなく。私はコルドリエ街の屋根裏に住んでいます。屋根裏です」マラーの声には自尊心を取り繕い困窮を誇示するようなところがあるのを、バルサモは聞き逃さなかった。「ところがあなたの方は……」

「俺の方は?」

「宮殿に住んでいるという噂です」

 バルサモは肩をすくめた。背の高い巨人が上から見下ろして、かんかんになっている小人の腹を読んでいるような仕種だった。

「まあいい。屋根裏にお邪魔しよう」

「日にちは?」

「明日」

「時刻は?」

「朝」

「夜明けには教室に行って、そこから病院に向かいます」

「それこそ望むところだ。お前が言ってくれなかったとしたら、俺の方から頼もうと思っていた」

「早朝ですよ。ほとんど眠れません」マラーが言った。

「俺は眠らん」バルサモが答えた。「では夜明け頃に」

「お待ちしています」

 そう答えたところで出口に着いたので、二人は別れを告げた。入って来る時には賑やかで人通りのあった出入口も、今は深閑として薄暗い。

 バルサモは左に向かい、あっという間に見えなくなった。

 マラーも同じように細長い足を右に向けた。

 バルサモは正確だった。翌朝六時には踊り場の扉を叩いていた。コルドリエ街にある古ぼけた家の最上階、扉が六つ並んだ長い廊下の真ん中だった。

 ご推察の通り、マラーは来賓を迎えるに当たって、恥ずかしくないように準備を整えていた。みすぼらしい胡桃材の寝台、木製の台に乗った整理箪笥は、掃除女が襤褸雑巾で綺麗に磨き上げていた。虫食いだらけの家具(を磨くの)にかかった苦労を偲ばれたい。

 マラー自身も積極的に手伝い、青い陶器の花瓶に生けてあった元気なく萎れた花に水をやった。目立つ装飾といえばそれくらいだ。

 脇に襤褸雑巾が挟まれているのは、花に取りかかったのが家具の掃除を手伝った後だという証拠である。

 扉に差してあった鍵を使ってバルサモがノックもせずに入って来たので、作業中のマラーは慌てふためいた。

 親方マスターに目撃されて顔を赤らめていては、真の禁欲主義者とは言えまい。

 マラーは証拠物件の雑巾をカーテンの陰にこっそり放り投げた。「見ての通り、家庭的な人間でしてね、この掃除女を手伝っていたところです。こんな家事仕事をしようと思うのも、言うなれば平民のものではないでしょうし、ましてや大貴族のものでは絶対にないでしょうからなんですが」

「貧乏で綺麗好きな若者の仕事に過ぎん」バルサモは吐き捨てた。「すぐに用意は出来るか? 俺の時間は貴重なのだ」

「今、服を着ます……グリヴェットさん、服を……この人が管理人です。従僕であり料理女であり会計係でもあり、月に一エキュで働いてもらってます」

「倹約はいいことだ。貧にして富たり、富めば鈍せず」

「帽子とステッキを」とマラーが言った。

「これがそうだろう。ステッキも帽子のそばにあった」

「これは恐縮です」

「用意はいいか?」

「出来ました。時計を、グリヴェットさん」

 グリヴェットはきょろきょろとしたものの、反応はない。

「時計はいらんだろう。教室と病院に行くだけだ。探していても遅くなる」

「しかしですね、非常に気に入っている時計なんです。高かったのを、倹約してようやく買ったものなのですから」

「出かけている間にグリヴェットさんが探しておいてくれるだろう」バルサモが笑いかけた。「ちゃんと探しておいてくれたら、戻って来る頃には見つかっている」

「そうですよ」とグリヴェットが言った。「見つかりますとも。余所で落としたんなら別ですけどね。ここで物なんか失くなるものですか」

「そういうわけだ。出かけるぞ」

 マラーはそれ以上は意地を張らず、ぶつぶつ言いながらも従った。

 外に出たところでバルサモがたずねた。

「まずは何処だ?」

「教室に行っても構いませんか。昨夜急な髄膜炎で亡くなった人がいるそうなので、解剖して脳を観察したいんです。ほかの人たちに取られたくはありませんから」

「では教室に行こう、マラー君」

「それがここからわずかしか離れていないうえに、教室と病院は隣り合わせなものですから、ちょっと出入りするだけなんです。ですから入口で待っていて下さっても構いません」

「いや、一緒に行きたいね。被験者について意見を聞きたい」

「健やかだった頃のですか?」

「いいや、死体になってからだ」

「そうですか」マラーは破顔した。「助言して差し上げられると思いますよ。私はこの分野の専門家ですし、解剖には自信がありますからね」

「自惚れ、自惚れ、また自惚れか!」バルサモが呟いた。

「何ですって?」

「見に行こうと言ったのだ。さあ入るぞ」

 マラーが初めに狭い通路に足を踏み入れた。その先に、オートフィーユ街の端にある階段教室がある。

 バルサモも躊躇うことなく後を追うと、細長い部屋に出た。大理石の台上に、二体の死体が安置されていた。女のものと男のものだ。

 女はまだ若い。男は年老いて禿げていた。粗末な死装束にくるまれて、顔の部分だけが覗いている。

 恐らくこの世では会ったこともない二人が、こうして冷たい寝台に並べられているのだ。とこしえの世界に旅立った二人の魂は、隣に自分と同じような死体がいるのを見て驚いているに違いない。

 マラーが慣れた手つきで粗末な布を持ち上げて脇によけた。「死」たるもの、外科医のメスの前では平等なのである。

 どちらの遺体も裸だった。

「死体を見て気分が悪くなったりはしませんか?」マラーが(また)かまをかけた。

「悲しい気分になる」

「慣れとは恐ろしいものですね。毎日のようにこうした光景を見ているので、悲しくも気分が悪くもなりません。私たちは現場の人間ですからね、死体と共に暮らしながら、それによって日常に支障を来すこともありません」

「医者というものの悲しい特権だな」

「そもそも、人はどうして悲しくなるのでしょう? どうして気分が悪くなるのでしょうか? 一つ目の場合は、理性があるから。二つ目の場合は、習慣のせいです」

「説明してくれ。俺にはよくわからん。まずは理性の方から」

「そうですね。どうして人は動かない肉体を恐れるのでしょうか? 大理石や花崗岩ではなく肉体で出来た彫刻にどうして怯えるのでしょうか?」

「死体には何もないから、ではないか?」

「ええ、何もありません」

「そう思うんだな?」

「絶対に確かです」

「では生者の肉体には?」

「生命活動が」マラーは自信たっぷりに答えた。

「魂、とは呼ばぬのか」

「メスで身体をさばいて来ましたが、そんなものは見たことがありません」

「死体しか確かめたことがないからではないのか」

「まさか! 生きている患者を手術したことだって何度もあります」

「死体と同じく何も見つからなかったのか?」

「痛みのことなら見つかりましたが、痛みを魂と呼ぶのですか?」

「では信じてはいないのだな?」

「何をです?」

「魂を」

「信じています。出来ることなら、生命活動と呼ばれるものから自由でいたいですから」

「それならいい。言いたかったのは、魂を信じろということだ。信じているのなら構わん」

「ちょっと待って下さい。はったりはやめていただけませんか」マラーは蝮のような笑いを見せた。「私たちは現場の人間であり、唯物論者ですからね」

「この死体は二つとも随分と冷たい。女の方は美しいな」バルサモが言うともなく口にした。

「そうですね」

「美しい魂がこの美しい肉体に宿っていたのではないか」

「創造主に手違いがあったようですね。美しい鞘に、醜い刀身。この死体はサン=ラザールでお勤めを終えたいかがわしい女のものでした。施療院で脳炎で死んだのです。恥ずべき経歴が長々と連なっているような女です。この女を司っていた生命活動のことを魂と呼ぶのは、同じ材料で出来ているほかの魂に失礼ですよ」

「治療の必要な魂だったのなら、然るべき医者がいなかったから道を過ったのではないのか。魂の医者が――」

「あなたの言い分はそうなのでしょう。しかしですね、肉体の医者しかいないんですよ」マラーは痛々しい笑みを見せた。「あなたが口になさっているのは、モリエールが喜劇でよく使っているような台詞ですよ。あなただって笑っていらっしゃるじゃありませんか」

「いいや。間違っているな。俺がどうして笑っているのかもわかっちゃいない。それはそうと結論は、この死体は空っぽだということでいいんだな?」

「何の反応もありません」マラーは女の頭を少し持ち上げてから、ぴくりともしない死体をぞんざいに大理石の上に戻した。

「いいだろう。では病院に向かおう」

「待って下さい、その前に、頭を胴体から切り離してみたいのです。興味深い疾患の大本おおもとなのですから。構いませんか?」

「好きにしろ」

 マラーは道具入れからメスを取り出し、血の染みがついた大きな木槌を傍らに用意しておいた。

 それから熟練した手つきで円状に切開を始め、胴体の肉と首の筋肉を切り離した。骨に到達すると脊椎の接合部にメスを滑らせ、乾いた音を立てて力強く木槌を打ち下ろした。

 頭部が台に転がり、(台から)床に落ちたので、濡れた手で拾い上げなくてはならなかった。

 マラーを喜ばせるのが嫌で、バルサモはそっぽを向いた。

 それをマラーは、バルサモの弱みをつかんだのだと信じ込んだ。「近いうちに、生に忙しい博愛主義者たちも死のことを考えるようになって、一瞬にして胴体から頭を切り離すことの出来る装置を思いついてくれるでしょう。ほかの処刑方法ではそうは行きません。車責め、四つ裂き、縛り首などは野蛮人の拷問であって、文明人のやることではありません。フランスのような文明国でおこなわれるべきなのは、刑罰であって復讐ではありません。車責めや縛り首や四つ裂きをおこなうような社会は、死によって犯罪者に罰を与える以前に、激痛によって復讐をしていると捉えることも出来るでしょう。それはやりすぎだと思うのです」

「それには同意しよう。だがいったいどういった道具を考えているんだ?」

「それ自体が法律のような、何物にも動じない冷徹な装置であります。死刑執行人は目の前の光景に動揺して、しくじることもあるでしょう。シャレー伯爵やモンマス公爵の時がそうでした。例えば刃を動かす木製の腕を持った装置なら、そういったことはありません」

「後頭部のつけ根と僧帽筋の間を雷のような速さで刃が通過するというのなら、死も一瞬のことで、痛みも一時のことだというのか?」

「死が一瞬で訪れるのは間違いありません。動きを司っている神経が一撃で断ち切られるでしょうから。痛みも一時のことに過ぎません。感覚の大本である脳と生命の源である心臓が断ち切られるのですから」

「だが同志よ、斬首刑はドイツに存在するぞ」

「それはそうですが、あれは剣を用いたものですから。私が申し上げたのは、人の手は震えることがあるということです」

「似たような装置ならイタリアに存在するぞ。木製の本体で刃が動くのだ。マンナーヤと呼ばれている」

「そうなんですか?」

「そうだ。死刑執行人によって首を斬られた犯罪者たちが、首のないまま椅子から立ち上がり、十歩ほど進んでつまずいて転ぶのを俺は見て来た。マンナーヤの下に頭が転がったのを、幾つも拾い集めたんだ。さっき台の下に頭が転がったのを、お前が髪をつかんで拾ったようにな。耳元で洗礼名を呼びかけてやると、再び目が開き、目玉がぎょろりと動いた。永遠への旅路の最中に地上から呼びかけているのが誰なのか確かめようとでもしているようだったぞ」

「ただの神経反応じゃありませんか」

「神経は感覚器官ではないのか?」

「それで、そこからどういった結論を引き出したというんです?」

「罰として殺す装置を作ろうとするよりも、殺さずに罰する方法を探るべきだ。そうすれば社会はさらによくなり、さらに開かれることだろう。俺たちの社会にはそうした方法を見つけることが出来ると信じている」

「また理想論だ! 理想論ばかりだ!」

「今回ばかりはお前が正しいのかもしれんな。いずれ時が明らかにしてくれるだろう……病院の話だったな?……では行こうか!」

「行きましょう!」

 マラーはポケットから出した手巾に女の頭部をくるみ、しっかりと四つ角を縛った。

「これで同僚たちを待ち受けているのは残り物だけです」マラーはほくそ笑んだ。

 二人は施療院に向かった。夢想家と実践家は並んで歩いた。

「頭部を切断している間、随分と冷静で手際がよかったな。生きている人間を扱っている方が、死体を扱う時よりも落ち着いているのか? 苦しんでいるのを目の当たりにする方が、反応のない肉体を扱うよりも、心を動かされるのではないか? 死んでいる人間よりも生きている人間に同情を感じるのではないか?」

「いいえ。それでは動揺してしまう死刑執行人と同じ過ちを犯すことになりますから。腿を切るのに失敗すれば、不器用に首を切るように、人を殺してしまうことだってあるんです。優秀な外科医は心ではなく手で手術をおこないます。それはもちろん心の中では、一瞬の痛みと引き替えに、何年もの命と健康を与えるのだということはちゃんとわきまえていますけれど。そこは医学のよいところでしょう!」

「そうだな。だが生きている人間を相手にして、魂に出くわしたことがあるんじゃないのか?」

「ええ、魂というのが生命活動や感覚のことだというのであれば、その通り、出くわしたことがあります。厄介というほかありません。私のメスより多くの病人を殺してしまうのですから」

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