翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 111

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百十一章 リハーサル

 ひとたびリハーサルが始まると、誰もが舞台に注目し、誰一人としてルソーのことなど構わなかったので、ルソーの方で周りを観察し始めた。貴族たちが村人の衣装を身につけて下手な歌を歌い、貴婦人たちが宮廷衣装に身を包みながら羊飼いのような婀娜を見せている。

 王太子妃が歌い出したところだったが、あまり上手い女優とは言えない。声も小さいのでほとんど聞こえない。国王は誰にも気まずい思いをさせないようにと、ボックス席の暗がりに引っ込んで貴婦人たちとおしゃべりを始めていた。

 王太子があまり王侯らしいとは言えぬオペラの台詞を囁いていた。

 ルソーは耳を塞ごうとしたが、耳に流れ込んで来る音を無視することは出来なかった。それでも、脇役を務める著名人の中に見目よい顔を一つ見つけたのが慰めだった。天により美しい顔を授けられたその村娘は、ひときわ美しい歌声を聞かせていた。

 ルソーは譜面台の上からその美しい姿に一心に見とれ、その声の織りなす旋律に耳を傾けた。

 このように夢中になっているルソーを見て、王太子妃が誤解してしまったのも致し方あるまい。ルソーの微笑みやぼうっとした眼差しを目にして、舞台の出来に満足しているものと思い込んだ。そこで王太子妃も女であったので、褒めてもらいたくて譜面台越しに声をかけた。

「いけないところはありました?」

 ルソーはぽかんとしたまま答えない。

「とちっちゃったのね、何にも言って下さらないなんて。お願いですから、ルソーさん」

 ルソーはかの美女から目を離すことが出来ずにいたが、相手の方はまじまじと見られていることに気づいていない。

「あら!」ルソーの視線の先を追った王太子妃が声をあげた。「とちったのはド・タヴェルネ嬢だったんですか!……」

 アンドレは人々から見つめられて真っ赤になった。

「ああ、いや違います!」ルソーが声をあげた。「お嬢さんではありません。お嬢さんの歌声は天使のようでした」

 デュ・バリー夫人がルソーに向かって槍より鋭い目つきを放った。

 反対にド・タヴェルネ男爵は心底から喜び、にこやかな微笑みをルソーに送った。

「あの娘がお上手だってことにお気づきになりまして?」デュ・バリー夫人が、ルソーの言葉に目に見えて驚いていた国王にたずねた。

「気づかなかったな……」ルイ十五世は答えた。「合唱コーラスであったから……音楽家でなくては気づくまい」

 ルソーは楽団オーケストラの中で忙しく動き回り、コーラス部分を歌わせていた。

コランは恋人のもとに。
ようこそお帰りなさいまし。

 テストを終えて振り返ると、ド・ジュシュー氏がにこやかに挨拶しているのが見えた。

 宮廷人によって自尊心をいたく傷つけられたルソーにとって、宮廷を取り仕切っている現場をほかならぬ宮廷人に目撃されるというのは、並々ならぬ喜びであった。

 ルソーは仰々しい挨拶を返すと、改めてアンドレを見つめた。褒められたことによってさらに美しさが増している。リハーサルが続くにつれ、デュ・バリー夫人の機嫌が悪くなった。ルイ十五世が睦言を聞かずに舞台に見とれているのを、二度も気づいてしまったのだ。

 やきもち焼きからしてみれば、舞台とは即ちアンドレのことだ。それでも王太子妃が多くの讃辞を受けて、嬉しそうな顔を見せることの妨げにはならなかった。

 ド・リシュリュー公爵は年齢を感じさせぬほど軽やかに王太子妃の周りを飛び回り、劇場の奥に笑いの輪を作ることに成功した。その中心には王太子妃がいるわけだから、デュ・バリー一派は憤然として気が気ではない。

「ド・タヴェルネ嬢はいい声をしているようですな」リシュリュー公が大きな声で言った。

「素敵な声でしょう」王太子妃が答える。「押しつけがましいところもなくて。コレットをやらせたいくらいなんですけれど。でもわたしもコレットを演じるのが楽しみだったので、誰にもやらせるつもりはないんです」

「いやいや、さすがに殿下ほど上手くはありますまい」とリシュリューが答え……

「お嬢さんの歌は絶品です」ルソーが断言した。

「絶品ですわね」王太子妃も言った。「こう申しては何ですけれど、指導してもらいたいくらい。わたしと違って踊りもお上手なんです」

 こうした会話が如何なる結果をもたらしたであろうか。国王、デュ・バリー夫人、野次馬、噂好き、策士、嫉妬屋たちは、恥や苦痛で傷を負いながらも、大喜びで収穫を手に入れていた。アンドレ本人を除いては、無関心な者などいなかった。

 ルソーに褒められてその気になった王太子妃は、アンドレに恋歌を歌わせることにした。

幸せをすっかり失ってしまった、
コランに見捨てられてしまった。

 国王が上機嫌でリズムに合わせて頭を動かしているものだから、デュ・バリー夫人の火照りも、湿気った絵画のようにぱらぱらと剥がれ落ちてしまった。

 女以上に執念深いリシュリューはそれを見て、してやったりと溜飲を下げた。それからタヴェルネ男爵のところに歩み寄り、二人して銅像のように立ち会わせている様は、あたかも「偽善」と「収賄」が一つの計画について目配せを交わしたかのようであった。

 二人が喜べば喜ぶほどデュ・バリー夫人の顔色はますます曇り出した。とうとうそれも限界に達し、夫人はかっとなって立ち上がった。これは異例の行動であった。何しろ国王はまだ坐ったままだったのだから。

 取り巻きの廷臣たちは嵐の予感を感じ取り、蟻のように逃げ場を求めて、慌てて安全な場所に避難した。そういうわけで王太子妃は今まで以上に友人たちに取り囲まれ、デュ・バリー夫人はいっそう身体を押しつけられた。

 今や人々の関心はリハーサル本来の道筋から外れて、別の事柄に移っていた。多くの観客が考えていたのはもはやコレットとコランではなく、じきにデュ・バリー夫人が歌う羽目になりそうだということであった。

幸せをすっかり失ってしまった、
コランに見捨てられてしまった。

「ご息女は素晴らしい成功を収めたとお思いだろうな?」リシュリューがタヴェルネに囁いた。

 男爵を廊下まで引っ張って行くとガラス戸を押して、部屋を覗こうとしてガラス窓にぶら下がっていた野次馬を振り落とした。

「とんま奴が!」ド・リシュリュー氏が吐き捨てた。扉を開けた勢いで皺になった袖を払いながら、さらには野次馬の服装が使用人風であることを目敏く見つけたのだ。

 それは確かに、花籠を抱えた使用人であった。ガラス窓の陰から背伸びしてまんまと室内を覗き込み、芝居をすっかり目に収めていた。

 廊下に押し戻されて危うくひっくり返りそうになったが、自分ではなく籠をひっくり返してしまった。

「むう! このとんまは知り合いじゃ」タヴェルネが不機嫌な目つきで睨んだ。

「何者かね?」

「ここで何をしておる?」

 読者諸氏は先刻ご承知の通り、それはまさしくジルベールであった。

「ご覧の通り、見学していました」ジルベールは毅然として答えた。

「仕事を放っぽり出してか」リシュリューがなじった。

「仕事は済ませました」ジルベールは公爵に恭しく答えたが、タヴェルネに目を向けようともしなかった。

「何処に行ってもこの怠け者と会わねばならんのか!」タヴェルネが嘆いた。

「まあまあ、皆さん」と、穏やかな声で取りなされた。「ジルベールは仕事熱心な庭師ですよ」

 タヴェルネが振り向くと、ド・ジュシュー氏がジルベールの頬を撫でていた。

 タヴェルネはかんかんになって立ち去ろうとした。

「使用人どもが!」

「待て待て!」リシュリューがそれを止めた。「あそこにいるのは確かにニコルじゃぞ……ご覧なされ……ほれ、あの扉の隅……淫婦じゃのう! ここぞとばかりに流し目をくれておる」

 確かにニコルだ。トリアノンの使用人たちの後ろで顔を上げ、驚きと感嘆で目を丸くしていた。その目にはあらゆるものが何倍にもなって映っていそうなほどだった。

 ジルベールはそれを気にしながらも、同時に見て見ぬふりをした。

「ほれほれ」公爵がタヴェルネに声をかけた。「陛下が貴殿と話をなさりたがっておいでではないかな……きょろきょろなさっているぞ」

 二人はその場を離れ、国王のボックス席の方に向かった。

 デュ・バリー夫人はデギヨン氏と一緒に立っていた。デギヨンは伯父の一挙手一投足たりとも見逃さずにいる。

 一人残されたルソーはアンドレに見とれていた。こういう言い方を許していただけるなら、ルソーは恋に落ちている真っ最中だった。

 ジルベールが花を換えていたボックス席に、高貴な俳優たちが服を着替えに戻った。

 ド・リシュリュー氏が国王に会いに行ったため廊下に一人残されたタヴェルネは、待っている間にぞっとしたり昂奮したりを交互に繰り返していた。ようやく公爵が戻って来て人差し指を口唇に当てた。

 タヴェルネは喜びで青ざめて友人を出迎えると、国王の座席まで案内してもらった。

 そこでは一部の人しか聞けないようなことも耳に入って来る。

 デュ・バリー夫人が国王に話しかけていた。

「お夜食には陛下が来ていただけると思っていいのかしら?」

 国王が答えた。

「すまぬが疲れておる」

 ちょうどそこに王太子が現れて、伯爵夫人が目に入らなかったのか、危うく足を踏みそうになった。

「陛下、トリアノンで夜食をご一緒していただけますか?」

「いや、伯爵夫人にも言っていたところだが、余は疲れておる。若い者たちに囲まれていると頭がくらくらしてしまうからな……夜食は一人で摂るつもりだ」

 王太子はお辞儀して立ち去った。デュ・バリー夫人も深々とお辞儀をして、怒りに震えながら退去した。

 国王がリシュリューに合図を送った。

「公爵、そなたに関することで話しておきたいことがある」

「陛下……」

「余は納得しておらぬ……ぜひ説明してもらいたい……よいな……余は一人で夜食を摂るから、控えておれ」

 それからタヴェルネを見つめ、

「こちらの貴族とはお知り合いかね、公爵?」

「ド・タヴェルネ殿ですか? もちろん知っております」

「ああ! あの歌の上手いお嬢さんの父上か」

「はい、陛下」

「耳を貸せ」

 国王は顔を突き出してリシュリューに耳打ちした。

 タヴェルネは動揺を気取られないように、掌に爪を食い込ませた。

 やがてリシュリューがタヴェルネに歩み寄り、囁いた。

「さり気なくついて来なさい」

「何処まで?」タヴェルネも囁き返す。

「いいから来ることじゃ」

 公爵に続いてしばらく歩くと、国王の部屋に到着した。

 公爵が中に入り、タヴェルネは控えの間で待たされた。

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