アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第百十八章 ド・リシュリュー氏の二滴の液体
ド・リシュリュー公爵は四時半にサン=クロード街の家を出た。
バルサモのところに何をしに来たのかは、これからお読みになる文章の中で追々ご説明差し上げるつもりだ。
ド・タヴェルネ男爵は娘の部屋で正餐を摂っていた。アンドレが父をもてなすことが出来るようにと、王太子妃がその日は丸一日休みをくれたのだ。
デザートを食べている最中にド・リシュリュー氏が入って来た。常に吉報を運んで来る公爵は、フィリップには中隊ではなく聯隊を任せると国王が断言していたのを、友人に報せに来たのである。
タヴェルネは荒々しく喜びを爆発させ、アンドレは元帥に延々と感謝を述べた。
そうしたことの後に起こるべき会話が始まった。リシュリューは国王のことを、アンドレは兄のことを、タヴェルネはアンドレのことを話し始めた。
アンドレはお世話している王太子妃から休暇をいただいた話をした。マリ=アントワネット妃殿下は親戚のドイツ大公二人の訪問を受けている間、自由な時間を取ってウィーンの宮廷を思い返したいので、側女はもちろん侍女の世話も断りたかったのだ。これにはド・ノアイユ夫人もぞっとして、国王に嘆願しに行ったほどだった。
先にもお伝えしたように、タヴェルネは喜んでいた。アンドレが暇を貰ったのは幸運や名声について話し合うのに丁度いいと考えたからだ。これを見たリシュリューはいとまを告げて、父と娘を水入らずにさせようと考えた。だがド・タヴェルネ嬢がうんとは言わなかったので、リシュリューも留まることになった。
昔気質のリシュリューは、フランス貴族が陥っている窮状を、極めて雄弁に描き尽くした。かつての寵姫たちは恋人である国王に勝るとも劣らず気高く、その美しさや愛情によって君主を支配し、その生まれや機智や誠実で純粋な愛国心によって家臣たちを支配していたものだったが、貴族たちも今ではそうした女性たちにおべっかを使うこともなく、ぽっと出の寵姫たちや他国から潜り込んだ王妃たちの尻に敷かれる日々を堪え忍んでいるのだという。
こうしたリシュリューの言葉が、数日前から聞かされていたド・タヴェルネ男爵の言葉とひどく似通っていることに気づいて、アンドレは驚きを禁じ得なかった。
次いでリシュリューがぶちまけた貞節についての自説が、あまりにも智的で異教的でフランス的だったので、自分などはちっとも貞淑ではないし、真の貞節とは元帥が言うようにド・シャトールー夫人やド・ラ・ヴァリエール嬢やド・フォシューズ嬢のようなものを言うのだと、アンドレは認めざるを得なかった。
リシュリューが次々に推論や証拠を挙げてどんどん具体的な話をし始めたので、もはやアンドレにはさっぱりわからなかった。
会話はこんな調子で夜の七時頃まで続いた。
七時になると元帥が立ち上がった。「ヴェルサイユに国王のご機嫌を伺いに行かねばなりませんのでな」
部屋を出入りして帽子を取りに行ったところ、ド・リシュリュー氏の用事を待っていたニコルに出くわした。
「嬢ちゃんや」リシュリューはニコルの肩を叩き、「見送ってくれんか。ド・ノアイユ夫人が花壇から摘み取らせた花束がある。デグモン伯爵夫人にお贈りするので運んで欲しい」
ニコルはルソー氏のオペラに登場する村娘のようにお辞儀をした。
そこで元帥はタヴェルネ父娘にいとまを告げ、男爵と意味ありげな視線を交わすと、アンドレに向かって若者のようにきびきびとお辞儀をして部屋を出た。
ここで読者諸氏にはお許しいただいて、男爵とアンドレにはフィリップが賜った新たな計らいについてしゃべらせておいて、元帥の後を追うことにしよう。そうすれば元帥がサン=クロード街に何をしに行ったのか、そしてそこでどれほど恐ろしい目に遭ったのかも判明するはずである。
さらに言えば、男爵は元帥以上に昔気質であったので、アンドレほど純粋ではないとはいえ、何があったのかを知れば男爵の耳を驚かせるのには充分であったはずだ。
リシュリューは階段を降りてニコルの肩に身体を預け、花壇に向かった。
「さて、嬢ちゃんや」リシュリューは立ち止まってニコルを真っ正面から見つめた。「わしらには恋人がおるな?」
「あたしにですか、元帥閣下?」ニコルは真っ赤になって後しさった。
「おいおい、お前はニコル・ルゲではないのか?」
「間違いありませんけど……」
「では、ニコル・ルゲには恋人がいるじゃろう」
「いったい誰のこと仰ってるんですか!」
「そうさな、なかなか感じの良い若造ではないか。コック=エロン街で逢い引きしたうえに、ヴェルサイユの近くまで追っかけて来たであろう」
「閣下、お願いですから……」
「何とかという指揮官代理だ……さて嬢ちゃん、ニコル・ルゲ嬢の恋人は何という名前であったかの?」
名前を知られていなければまだ救いがあるのだが。
「言いかけたんなら仰って下さい」
「ド・ボージール殿といったな。この名前は否定できまい」
ニコルはおぼこぶって両手を合わせたが、老元帥には何の効き目もなかった。
「どうやらトリアノンでも逢い引きしているようではないか。何と、王宮でなあ! 一大事だ。ちょっとした過ちでも追放されてしまうし、ド・サルチーヌ氏は追放した宮殿の女子をサルペトリエールに放り込んでいるそうじゃぞ」
ニコルは不安になり始めた。
「閣下、聞いて下さい、恋人だってのはボージールさんが言い張っているだけなんです。あの自惚れ屋の悪党が。ですからあたしには後ろめたいことなんてありません」
「違うとは言わんがな、逢い引きしたのは事実なのかどうかを教えてくれぬか」
「公爵閣下、逢い引きなんて証拠になりません」
「逢い引きしたのが事実なのかどうか教えてくれ。答えなさい」
「閣下……」
「事実であれば、それはそれでよいではないか。責めているわけではない。そもそもわしは美しさを振りまく
「でも誰かが見てたんですよね?」
「わしが知っている以上はそうなのであろうな」
「でも閣下」ニコルはきっぱりと答えた。「そんなわけありません」
「わしは何にも知らんが、噂になっておるぞ。タヴェルネ嬢もさぞかし不愉快な印象を受けることじゃろうな。わかっているであろうが、わしはルゲ家ではなくタヴェルネ家の友人である以上、起こっていることを男爵に一言伝えるのが義務だと考えておる」
ニコルは話の成り行きに怯え出した。「ひどいこと言わないで下さい。無実なのに、怪しいからってだけで追い出されてしまうなんて」
「確かに追い出されるじゃろうな。今頃は悪意のある何処ぞの人間が逢い引きにけちをつけて、無実であろうとなかろうと、ド・ノアイユ夫人にご注進に及んでいることじゃろう」
「ド・ノアイユ夫人にですか!」
「その通り。ことは重大だ」
ニコルは手を拍って絶望を露わにした。
「残念じゃが間違いはない。それなのにいったいどうするというのだ?」
「さっき庇護者だって仰ったじゃないですか。それを証明して下さらないんですか? もうあたしを守ってはいただけないんですか?」ニコルは三十路女のようにしなを作った。
「馬鹿もん! 幾らでも守ってやることは出来る」
「でしたら閣下……?」
「うむ、だが守ってやりとうない」
「公爵閣下!」
「うむ、確かにお前はいい子だ。その美しい目であらゆることを訴えかけているのはわかっておる。だがわしの目も衰えた。もうその目を読み取ることが出来ぬのだ。かつてのわしならアノーヴルの一室に匿ってやったであろうが、今そんなことをしてもどうにもなるまい? もう噂にもなるまいしのう」
「でもこの間アノーヴル館に連れて行ってくれたじゃないですか」ニコルが口惜しがった。
「お前の為を思ってそうしたからといって、それを責められる謂われはないぞ。そもそもラフテ殿がいなければ、髪を茶色く染めることも出来ず、お前はトリアノンに入れなかったのだからな。もっとも、入っていなければ追い出されることにもならずに済んだであろうが。そもそもどうしてド・ボージール殿と逢い引きなどしおったのだ? おまけに厩舎の柵のところで!」
「そんなことまでご存じなんですか?」ニコルは作戦を変えるべきだと悟って、元帥の言い分にすべてを合わせることにした。
「当たり前じゃ! わしもド・ノアイユ夫人もすっかり知っておる。そのうえ今夜も逢い引きの約束をしておるのだろう……」
「それはそうですけど、ニコルの名に誓って、行くつもりはありません」
「そりゃ忠告されたのだからな。だがド・ボージール殿は忠告を受けていないのだから、出かけて行って捕らえられるぞ。そうるすと当然、泥棒だと思われて逮捕されたり密偵だと思われて棒で打たれたりはされたくないじゃろうから、正直に打ち明ける方を選ぶじゃろうな。打ち明ける内容が不愉快なものではないのだからなおさらじゃぞ。『放して下さい、ニコル嬢の恋人なんです』と」
「公爵閣下、あたし知らせに行って来ます」
「無理じゃな。誰を遣わすつもりかね? お前を密告した人物に頼むのか?」
「ああ、そうですね」ニコルはがっかりしたふりをした。
「何とも見事な嘆きっぷりだわい!」リシュリューが嘆息した。
ニコルは両手で顔を覆いながらも、指の間に充分な間隔を取って、リシュリューの一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
「本当に可愛らしいのう」ニコルの女らしい手管に元帥も引き込まれてしまった。「わしがまだ五十前であったらのう! だがそんなことより、ニコルよ、きっと引っ張り上げてやるぞ」
「公爵閣下、仰る通りにして下さったなら、この感謝は……」
「いらん、いらん。見返り無しで力を貸してやる」
「やっぱりいい人なんですね、閣下。心から感謝します」
「まだ感謝は早い。お前は何も知らんではないか。感謝は事情を知るまで取っておけ」
「アンドレお嬢様に追い出されないんなら、何だって構いません」
「ふうむ! そこまでしてトリアノンに残りたいのか?」
「何よりもそう思ってます」
「よかろう、手帳の一番上に書いてあるその件を抹消してくれ」
「でももしばれなければ?」
「ばれようとばれまいと、どっちみち出て行くんじゃ」
「どうしてですか?」
「教えてやろう。もしド・ノアイユ夫人にばれれば、どんな影響力も及ばぬ。国王の影響力でもお前を助けられん」
「ああ、国王にお会い出来ればいいのに!」
「確かにそんなことになれば大事だわい。第二に、たといばれなくとも、わしが追い出してやる」
「閣下が?」
「今すぐにじゃ」
「どういうことなのか全然わかりません」
「これを教えてやれるのはわしも嬉しい」
「つまり守って下さるということですか?」
「嫌なら構わぬぞ、まだ時間はある。一言言ってくれればよい」
「まさか! お願いします、公爵閣下」
「いいだろう」
「それで?」
「うむ、では聞かせてやろう」
「お願いします、閣下」
「お前を追い出させたり投獄させたりはさせぬ。それどころか裕福にして自由にしてやるつもりだ」
「裕福で自由にですか?」
「うむ」
「何をすればいいんですか? 早く教えて下さい、元帥閣下」
「ほとんど何もせんでよい」
「でもやっぱり……」
「やってもらわねばならんことがある」
「難しいことですか?」
「ままごとみたいなもんじゃ」
「何か要りますか?」
「いやはや!……この世の理は知っておろう、ニコル。無からは無しか生まれぬぞ」
「でもそれをするのって、あたしの為ですか? 閣下の為ですか?」
公爵はニコルを見つめた。
「ふむ! 抜け目のない女子だわい!」
「最後まで話して下さい」
「お前の為だ」公爵は堂々として答えた。
「へえ、そうですか!」自分が公爵に必要なことはとっくにわかっていたので、もうびくびくしたりはせずに、遠回しな話し方をする癖のある公爵の話の中から真実を見つけ出そうと、脳みそを働かせた。「あたしの為にあたしは何をすればいいんですか?」
「よし。ド・ボージール殿が来るのは七時半だな?」
「ええ、大抵そうです」
「今は七時十分だ」
「そうですね」
「わしがそうしようと思えば、彼奴は捕まる」
「はい。でもそうしようとなさらないんですよね」
「うむ。お前が会って伝えてくれ」
「あたしが……?」
「だがそもそもその御仁を愛しておるのか、ニコル?」
「逢い引きの約束をしているんですから……」
「理由にはならんな。結婚を狙っておるのかもしれんしの。女というものは気まぐれだからのう!」
ニコルがけたたましい笑いをあげた。
「あたしがあの人と結婚するですって? ああ可笑しい!」
リシュリューは開いた口がふさがらなかった。宮廷でさえこれほど強気なご婦人にはお目にかかったことがない。
「そうすると、結婚する気はないが、愛しておると。却って好都合じゃわい」
「そういうことです。あたしド・ボージールさんを愛してます。それはそれとして、話を続けて下さい」
「こいつはとんだあばずれだな!」
「そうかもしれません。それよりあたしが気になっているのは……」
「何じゃ?」
……118章、後半に続く。