アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第118章(その2)
「ほかに何をすればいいのか知りたいんです」
「彼奴を愛しているというのなら、一緒に逃げればよい」
「そうしろって仰るんなら、そうするしかありませんけど」
「いやいや、そうではない。慌てるでない」
先走り過ぎた。それにまだ老獪なリシュリューからは秘密もお金も手に入れていないではないか。
そこでニコルは譲歩した。後でまた立て直せばよい。
「閣下、指示をいただけますか」
「ではド・ボージール殿に会いに行って、伝えなさい。『二人のことがばれた。でも助けてくれる人がいる。あなたはサン=ラザールに入らずに済むし、あたしはラ・サルペトリエールに入らずとも済む。逃げましょう』と」
ニコルはリシュリューを見つめた。
「逃げましょう、ですか」
リシュリューはこの訴えるような鋭い視線の意味を理解した。
「心配いらん。旅の費用は出してやる」
ニコルはそれ以上の説明は求めなかった。お金を出してもらえるからには、すべて教えてもらえるということに違いない。
ニコルがこの段階に進んだのを見て、元帥の方でも言うべきことをさっさと口にした。負けた人間がさっさとお金を払うようなものだ。不愉快な思いを先延ばしにはしたくない。
「自分が何を考えているのかわかっておるのか?」
「わかりません。でも閣下はいろんなことをご存じですから、きっと見抜いてらっしゃるんじゃないかと思います」
「もし逃げたとしたら、タヴェルネ嬢がたまたま用事があって夜中にお前を呼んでも姿が見えないため急を知らせるかもしれず、そうなると捕まえられる危険も出て来ると考えておるのだろう」
「違うんです。そんなことは考えてません。だっていろいろ考えた結果、やっぱりここに残りたいですから」
「だがド・ボージール殿が捕まったとしたら?」
「捕まらせておけばいいんです」
「だが口を割ったら?」
「割らせておけばいいんです」
「何だと!」リシュリューは不安になり始めた。「そうなるとお前は終わりだぞ」
「そんなことありません。アンドレお嬢様は優しい方ですし、あたしのこと心から可愛がって下さってますから、国王にお話しして下さるはずです。ですからド・ボージールさんが何かされたとしても、あたしは何もされません」
元帥は口唇を咬んだ。
「やはりお前は馬鹿者じゃ。アンドレ嬢と国王はそこまでの間柄ではないし、聞いて欲しいと思っていることを聞いてくれぬのなら、すぐにでも追い出させるぞ。わかったか?」
「あたし頓馬でも薄のろありませんから。聞きますけど、条件があります」
「よかろう。ではド・ボージール殿と逃げるという線でじっくり考えて計画を進めてくれ」
「でもどうして危険な真似をしてまで逃げなくちゃならないんですか? お嬢様が目を覚まして何かの用向きであたしを呼んだりするかもしれないってご自分で仰ったじゃないですか。あたしは考えもしなかったようなことばかりですけど、経験豊富な閣下なら初めから考えていたんですよね」
リシュリューは再び口唇を咬んだ。それもさっきよりも強く。
「考えておったというのなら、事件を防ぐことも考えておったわい」
「だったらお嬢様があたしを呼ばないようにするにはどうしたらいいんですか?」
「目を覚まさぬようにすればよい」
「夜中に何度も目を覚ます人なんですよ。無理です」
「つまりわしと同じ症状なのじゃな?」リシュリューは平然としていた。
「閣下と?」ニコルが笑いながら繰り返した。
「違うかな。わしも何度も目が覚めてしまうのでな。だがわしには不眠症の薬がある。アンドレ嬢も試してみてはどうじゃ。仮に本人が飲まんでも、お前が飲ませればよい」
「でもどうやってそんなことするんですか?」
「お前のご主人は毎晩寝る前に何を飲んでおる?」
「飲んでるものですか?」
「うむ。そうやって喉が渇かぬようにしておくのが昨今の流行りじゃろう。
「お嬢様は夜寝る前には水しかいただきません。感じやすくなっていらっしゃる時には砂糖を加えたり甘橙の花で香りをつけたりなさいますけど」
「そいつはいい! わしと同じだ。わしの薬で完璧に効きそうじゃのう」
「どうすればいいんですか?」
「そうじゃな、わしはある液体を飲み物の中に何滴か垂らして、夜中にぐっすり眠っておるぞ」
元帥の策略がいったい何処に向かっているのか探ろうとして、ニコルはいろいろと思い描いた。
「返事がないな」
「お嬢様はその液体を持ってないんじゃないかと思ったんです」
「わしがお前にやる」
「そういうことですか!」ようやく闇に光が射した。
「タヴェルネ嬢のコップに二滴垂らせばよい。二滴じゃぞ、いいな? それ以上でも以下でもない。そうすれば眠ってしまう。だからお前が呼ばれることもないし、それ故に逃げる時間も出来るじゃろう」
「それだけでいいんなら簡単ですね」
「では二滴垂らすのだな?」
「絶対に」
「約束だな?」
「だってそうした方があたしに都合よさそうですし。何なら鍵を掛けてお嬢様をしっかり閉じ込めて……」
「いかんいかん」リシュリューが慌てて遮った。「そんなことをしてはならん。むしろ扉は開けておけ」
「ああ!」ニコルが心の底から声を出した。
ニコルはすっかり理解したし、リシュリューにもそれがわかった。
「それでお終いですか?」
「お終いじゃ。もうお前の指揮官代理に荷物を詰めるよう伝えに行ってよいぞ」
「残念ですけど閣下、財布を用意しろだなんて言うだけ無駄ですけど」
「構わぬ、それはわしが何とかする」
「そうですか、閣下がご親切なことを忘れてました……」
「それで幾ら必要じゃな、ニコル?」
「何をするのにですか?」
「その液体を二滴垂らすのにだ」
「それでしたら閣下が仰ったように、あたしの為にやることなんですから、その為にお支払いいただくわけにはいきません。でも部屋の扉を開けておくにはかなりいただかなくてはなりません」
「よかろう、金額を申してみよ」
「二万フランいただきます、閣下」
リシュリューは息を呑み、次いで嘆息した。
「ニコルよ、お前はきっと大物になるぞ」
「それくらいはいただかないと。あたしもだんだん、追っかけられそうな気がして来ましたから。でも二万フランあれば遠くに行けます」
「ド・ボージール殿に知らせに行きなさい。その後で金を払ってやろう」
「閣下、ド・ボージールさんは疑り深いので、証拠がないとあたしの言うことを信じようとしないと思います」
リシュリューはポケットから紙幣を一つかみ取り出した。
「前金だ。この財布の中に百
「ド・ボージールさんに話して来たら、しっかり数えて、残りもいただけるんですよね?」
「いやいや! すぐにでも払ってやるぞ。しっかりした娘だの。そういうところはきっとお前の為になるぞ」
リシュリューは紙幣に加えてルイ貨と半ルイ貨で、約束通りの金額を支払った。
「さあ、これでよいな?」
「だと思います。でも閣下、大事なものをお忘れです」
「液体か?」
「はい。閣下は小壜をお持ちですよね?」
「わしの分を自分で持ち歩いておるからの」
ニコルが微笑んだ。
「それから、トリアノンはいつも夜になると閉鎖されてしまいますけど、あたしは鍵を持ってません」
「わしが持っておる。第一侍従の肩書きでな」
「そうなんですか?」
「ほれ」
「何もかも出来すぎですね。奇跡の連続みたいです。それじゃお別れです、公爵閣下」
「お別れじゃと?」
「だってそうでしょう、もう閣下とは会わないんですから。お嬢様が眠っている間にあたしは出て行くんですから」
「そうであったな。お別れだ、ニコル」
ニコルはケープ越しに笑うと、深まりゆく闇の中へと姿を消した。
「今度も上手く行きそうじゃのう」リシュリューは独り言ちた。「だがどうやら、運命の奴もわしが年老いていることに気づき出し、協力を渋り始めたようだな。まんまとしてやられたわい。だがまあいい、この借りはきっと返してやる!」
第119章に続く。