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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 119・120

第百十九章 逃亡

 ニコルは義理堅い娘であったので、ド・リシュリュー氏から前もってお金を受け取った以上は、何としてでもそれに応えることにした。

 そこでニコルは柵まで一散に駆け出したが、着いた時には七時半ではなく七時四十分になっていた。

 一方のド・ボージール氏は軍規によって時間厳守を培われていたので、十分前から待ちぼうけていた。

 同じく十分ほど前にはド・タヴェルネ氏も娘の許を離れたため、アンドレは一人きりになり、カーテンを閉めていた。

 ジルベールは屋根裏部屋から、アンドレを見つめるというよりは、いつものように貪っていた。ただしその眼差しが愛にきらめいていたのか憎しみに燃えていたのかは如何とも言い難い。

 カーテンを引かれてしまうと、ジルベールにはもう何も見えない。仕方がないので余所に目を向けた。

 余所に目を向けると、ド・ボージール氏の羽根飾りが見えた。待っている手持ちぶさたを紛らそうと、小さく口笛を吹きながら歩き回っている。

 十分後、即ち七時四十分に、ニコルが現れた。ニコルと言葉を交わしたド・ボージール氏は、よくわかったというように首を縦に振り、プチ・トリアノンまで延びている凹んだ並木道まで歩いて行った。

 ニコルの方は鳥のように軽やかにきびすを返した。

「ふうん!」ジルベールが呟いた。「指揮官代理殿と小間使い嬢が人知れずこっそり何かやり取りしていたな。これは面白いぞ!」

 ジルベールはもうニコルには興味がなかった。だがニコルには本能的に敵意を覚えていたので、ニコルに攻撃された場合に備えて返り討ちにしてやれるように、身持ちが悪いという証拠を幾つも集めておきたかった。

 ジルベールの予想では、戦端は間もなく開かれる。だから兵士として準備怠りなく弾薬を集めておくのだ。

 ニコルがトリアノンに来てまで逢い引きしているという事実は、そうした武器の一つになる。ジルベールのように抜け目のない兵士なら放っておくわけがないし、ましてやニコルがやったように敵の足許に武器を落とすような軽はずみなことをしてはなおさらだ。後は目で見た証拠に加えて耳に残る証拠も聞いておきたかった。そういう言葉を拾っておけば、いよいよ決戦という瞬間に、ニコルニコルを破滅させる台詞をぶつけてやれる。

 そこでジルベールは急いで屋根裏から降り、台所の廊下を抜け、礼拝堂の階段を通って庭に出た。庭に出てしまえば何の心配もいらない。草むらの勝手を知ったる狐のように、隠れ場所なら知り尽くしている。

 まずは菩提樹の陰に滑り込み、次いで果樹垣根エスパリエに沿って進んだ。それからニコルがいると見当をつけた場所から二十歩ほど離れた茂みにたどり着いた。

 ニコルは確かにそこにいた。

 ジルベールが茂みに潜り込んだ直後、聞き慣れぬ音が耳に飛び込んで来た。それは金貨が石に当たる音だった。実際に聞いてみないことにはそれがどんな音なのかを正しく想像できないような金属の響きだった。

 ジルベールは蛇のように音も立てずに、リラの生垣で出来た垣根まで移動した。グラン・トリアノンとプチ・トリアノンを隔てているその凹んだ並木道は、五月にはリラの香りが溢れ、通りがかった人に花が揺れて挨拶を送っていた。

 その頃になると目も暗闇に慣れていたので、石畳に立ったニコルが、門の内側のド・ボージール氏から届かないところを選んで、ド・リシュリュー氏からもらった財布を空けているのが見えた。

 幾つものルイ金貨がきらめきながらこぼれ落ちるのを、ド・ボージール氏が目を輝かせ手を震わせて、どうしてこんなものを持っているのかわからないままに、ニコルと金貨をじっと見つめていた。

 ニコルが口を開いた。

「何度も一緒に逃げようって誘ってくれてたよね、ド・ボージールさん」

「それに結婚もね!」指揮官代理はのぼせあがっていた。

「それはまた後でね。今は逃げる話をしましょう。二時間後に出かけられる?」

「お望みなら十分後にだって」

「それは駄目。その前にしなきゃならないことがあって、それには二時間かかるから」

「十分後だろうと二時間後だろうと、言う通りにするとも」

「じゃあ五十ルイ取って」ニコルが五十ルイ数えて柵越しに手渡すと、ド・ボージール氏は数えもせずに上着のポケットに突っ込んだ。「一時間半後に、四輪馬車でここに来て」

「だが……」

「嫌なら別に構わないけど。その代わりあたしたちの間にあったことはなかったことにしましょう。五十ルイ返して頂戴」

「尻込みしてるわけじゃない。ただ、将来が不安だからさ」

「誰の将来?」

「君の」

「あたしの?」

「ああ。五十ルイがなくなれば――いつかなくなってしまったら、君は不満を口にして、トリアノンを懐かしむようになったり、それに……」

「心配性なんだから。悲観しないでよ。不幸になりたがるような女とは違うから。だから不安になるのはやめて。五十ルイがなくなればなくなったでその時はその時じゃない」

 ニコルは財布に残っている五十ルイを鳴らした。

 ボージールの目が爛々と燃えさかった。

「君の為なら燃えさかる窯にでも飛び込んで見せるぞ」

「もう! そこまで頼んでないったら。とにかく決まった。一時間半後には四輪馬車を、二時間後には逃げましょう」

「決まりだ」ボージールはニコルの手をつかんで引き寄せ、柵越しに口づけした。

「落ち着いて! 気でも狂ったの?」

「いいや。惚れているだけさ」

「もう!」

「信じないのか?」

「まさか。信じてる。くれぐれもいい馬を連れて来てね」

「ああ、もちろんだ」

 二人は別れた。

 だがすぐにボージールが慌てて戻って来た。

「ちょっ! ちょっ!」

「どうしたの?」遠ざかっていたニコルは、大声を出さずに声を通そうとして、手を口の周りに当てた。

「柵だよ。乗り越えるつもりなのか?」

「馬鹿ね」ニコルが一人呟いた場所は、ジルベールから十歩と離れていなかった。

 それからニコルは、ボージールに聞こえるように、「鍵を持ってるから」と伝えた。

 ボージールは納得の声をあげると、今度こそ本当に立ち去った。

 ニコルは人目を忍ぶように素早くアンドレのところに戻った。

 一人残ったジルベールは、四つの疑問を考えていた。

 ――ニコルが愛してもいないボージールと逃げるのは何故か?

 ――ニコルがあれだけの大金を持っているのは何故か?

 ――ニコルが柵の鍵を持っているのは何故か?

 ――ニコルはすぐにでも逃げられるのに、アンドレのところに戻ったのは何故か?

 「ニコルがお金を持っているのは何故か?」という疑問の答えならすぐに見つかった。だがほかの疑問には答えが出ない。

 自分の洞察力が役に立たないとわかって、生まれながらの好奇心、或いは経験から学んだ猜疑心と言ってもよいが、それが異常なまでに燃え上がり、夜の戸外がいくら寒かろうとも湿った木の下で待ち受けて、幕開けを目にしたこの場面の結末を見届けてやろうと心に決めた。

 アンドレは父をグラン・トリアノンの入口まで見送っていた。一人物思わしげに戻って来たところ、並木道から走って来たニコルに出くわした。その並木道の先にこそ、先ほどまでド・ボージール氏と駆け引きを繰り広げていた柵があった。

 ニコルはアンドレの姿を見つけて立ち止まった。アンドレが合図するのを見て、後ろに回って部屋まで従った。

 ちょうどこの頃が午後八時半頃であった。夜の闇が瞬く間に広がり、いつもより濃くなった。それもそのはず大きな黒雲が南から北まで駆け抜け、全天を覆っていた。見れば、広大な森の向こうにまで広がるヴェルサイユの端の、見渡せる限り遠くまで、ほんの少し前までは青い穹窿にきらめいていた星々を、どんよりとした経帷子が覆い尽くしている。

 重たげな風が地面をかすめ、喉の渇きを訴えて恵みの雨や靄を天に請うように頭を垂れていた花たちに、激しいざわめきを送っていた。

 いくら雲行きが危うくなろうとも、アンドレは歩みを早めなかった。むしろ悲しく物思いに沈むように、部屋に続く階段をしぶしぶといった様子で上っていた。窓があるたびに立ち止まり、悲しみに呼応しているような空を見つめ、部屋に戻るのを遅らせたがっているようだった。

 時間を過ぎてもアンドレが戻らないのではないかと、ニコルは苛々と気を揉み始め、従僕の都合などお構いなしに気まぐれを満足させるような考え無しの主人に向かって小声で罵った。

 ようやくアンドレは部屋の扉を開け、椅子に坐るというより倒れ込むと、中庭に面した窓を少し開けるよう穏やかにニコルに命じた。

 ニコルは言われた通りにしてから、いたわるような顔つきで振り向いた。これが効果的なことはよくわかっている。

「今夜は少しお加減が悪いんじゃありませんか。目が赤くて腫れてらっしゃるのに、すごく光ってますし。しっかりお休みなさらないといけないと思いますよ」

「そう?」アンドレは聞こうとしなかった。

 そして絨毯の格子柄に無造作に足を伸ばした。

 この姿勢が服を脱がせなさいという意味だと了解して、ニコルは髪飾りのリボンや花を外し始めた。どれほど手慣れた者でもすべて取り外すには十五分は下るまい。

 アンドレはこうした作業の間、一言も口を利かなかった。そのためニコルは好きなようにしていられた。アンドレが何かにひどく気を取られていたので、作業を端折っても気づかれなかったし、あっさりと髪を引き抜いても何も言われなかった。

 夜の身仕舞いが終わると、アンドレは翌朝の指示を出した。フィリップが届けてくれたはずの本を、朝からヴェルサイユに取りに行かなくてはならない。それに調律師をトリアノンに呼んで、チェンバロを調律する必要がある。

 ニコルはおとなしく、夜中に目が覚めなければ、朝早くお嬢様が起きる前に目を覚まして、用事をすべて済ませておきます、と答えた。

「それに明日は手紙を書かなくては」アンドレは聞かせるともなく呟いた。「フィリップに手紙を書けば、少しは気が楽になるわ」

「どうでもいいや」とニコルも呟いた。「その手紙を出すのはあたしじゃないし」

 そう思うと、まだ完全に堕落したわけではなかったので、ここに来て初めて、主人の許を離れるのが悲しくなり始めた。そばにいれば心も気持も溌剌としていられたからだ。アンドレの存在は多くの記憶と結びついていたから、その繋ぎ目が切れれば、その日から稚き日々の初めにまで連なっている鎖全体が揺れることになる。

 身分も性格も違うこの二人の娘が、互いにまったく接点のない事柄を考えている間に、時間は過ぎて、アンドレの柱時計が、いつものようにトリアノンの時計より一足早く、九時の鐘を鳴らした。

 ボージールは約束通りに来るだろう。落ち合う時間まで三十分しかない。

 出来るだけ早くアンドレの服を脱がせたが、思わず洩れた溜息に、アンドレは気づくことさえなかった。ニコルが夜着を着せても、アンドレはぼんやりとしたまま動きもせずに虚ろな目を天井に向けていた。ニコルはリシュリューにもらった小壜を胸から取り出し、砂糖二粒をコップに入れて水を入れて溶かしてから、小壜から液体を二滴注いだ。心はまだ若くとも意思は既に強く、躊躇いはなかった。途端に水は濁り、うっすら白くなってから徐々に透き通って行った。

「お嬢様、お水の用意が出来ました。お洋服もたたんでおきましたし、灯火も入れておきました。明日は早起きしなくちゃなりませんから、もう休んでも構いませんか?」

「ええ」アンドレが上の空で答えた。

 ニコルはお辞儀をして、最後に一つこれまでのような溜息をつくと、控えの間と繋がっているガラス扉を閉めた。だが部屋には戻らずに、廊下に出られる小部屋に入り、控えの間から洩れる明かりの中、そっと抜け出した。その際リシュリューの指図に忘れずに従って、廊下の扉を戸枠に押しつけたままにおいた。

 それから隣人たちに気づかれないように階段を降り、爪先立って石段を飛び越えて庭に出ると、ド・ボージール氏の待つ柵のところまで全力で駆け出した。

 ジルベールは覗き場所から動いていなかった。二時間したら戻ってくるとニコルが言っているのを聞いて、待っていたのだ。だが時間が十分ほど過ぎると、ニコルは戻ってこないのではないかと思い始めた。

 その時だった。何かに追いかけられているように走ってくるニコルが見えた。

 ニコルは柵に近づき、隙間から鍵を手渡した。ボージールが門を開けた。ニコルが向こうに飛び出すと、柵が重い音を立てて再び閉まった。

 それから鍵が茂みまで飛んで来たが、落ちた先がちょうどジルベールのいるところだった。もふっという音を聞いて、ジルベールは鍵の落ちた場所を見つけた。

 そうしている間にニコルとボージールは先に進んでいた。二人が遠ざかってゆく足音がしたかと思うと、やがてニコルの頼んでおいた四輪馬車ではなく、馬の足音が聞こえていた。ニコルは公爵夫人のように四輪馬車で出かけたかったのだろう、どうやらぶつくさ文句を垂れていたが、すぐに馬は四つの蹄で地面を蹴り、音を立てて舗道を駆けて行った。

 ジルベールはふうと息をついた。

 これで自由だ。ニコルから、いわば敵から解放されたのだ。アンドレは一人きりだ。きっとニコルは出て行く時に、扉の鍵をそのままにしていっただろう。だとしたら、ジルベールはアンドレのところに忍び込むことが出来る。

 そう思うと、恐れと躊躇いと好奇心と欲望でかっかとして飛び跳ねずにはいられなかった。

 やがてニコルが向かったのとは反対側の道をたどり、使用人棟に向かって駆け出した。
 

第百二十章 天眼通

 一人になったアンドレは、ぼんやりとした状態から徐々に快復して、ニコルがド・ボージール氏の後ろに乗って逃げている頃には、ひざまずいてフィリップのためにひたむきに祈りを捧げていた。アンドレが掛け値のない深い愛情を注いでいるのはこの世にフィリップただ一人なのだ。

 ひたすら神を信じて祈っていた。

 アンドレの祈りは一つ一つの言葉がばらばらで意味を成さなかった。まるで魂が神の御許まで昇って神と一つに混じり合ったかのような、神々しい法悦を帯びていた。

 物質界から解き放たれた精神がひたすらに捧げる祈りには、利己的なところは微塵も含まれていなかった。ある意味では自己を捨てていた。絶望に駆られた遭難者が、自分のためではなく、遺されることになる妻や子供たちのために祈るのに似ていた。

 心に秘めたこのような痛みは、兄が発ってから生じていたものだが、そこに痛み以外のものが混入していなかったわけではない。アンドレの祈りは二つの異なる要素で出来ており、その一つは本人にもよくわからないものだった。

 それはいわば予感のようなもので、次なる災難が近づいているような兆しだった。古傷を襲う激痛のような感覚であった。持続していた痛みは消えたが、その名残はいつまでも尾を引き、傷が治っていなかった頃と同じように痛みを訴えていた。

 アンドレは自分が感じているものが何なのかを考えようとしなかった。フィリップのことだけを思い浮かべ、何かに心を揺さぶられてもまたいつしか兄のことを考えていた。

 ようやく立ち上がると質素な本棚から本を一冊抜き取り、手許に蝋燭を置いて本を読み始めた。

 選んだというよりも偶然手に取ったその本は、植物事典だった。これでは夢中になれないどころか、うつらうつらさせる効果しかない。薄かった雲がどんどん濃くなり、視界を覆った。アンドレは眠気と戦い、何度か意識を取り戻したが、すぐにまた睡魔に襲われた。そこで蝋燭を吹き消そうと顔を前に出したところ、ニコルが用意したコップに気づいた。アンドレは腕を伸ばしてコップをつかみ、溶けかけた砂糖をスプーンでかきまぜた。もうかなりの眠気に囚われながら、コップを口に近づけた。

 口をつけようとした途端、異様な衝動に手が震え、湿った塊が脳を直撃した。身体中にほとばしった衝撃に、アンドレは恐怖を覚えた。これまでに何度もアンドレの力を奪い、理性を破壊して来た、あの不思議な感覚が襲って来たのだ。

 コップを置くのがやっとだった。半開きの口から洩れた溜息よりほかには、呻き声一つあげることもなく、声も出せず目も見えず頭の働きも途絶えると、恐ろしい睡魔に襲われて、雷に打たれたように寝台に倒れ込んだ。

 死んだようにしばらく目を閉じていたが、不意に起き上がって目を見開いたまま、寝台から降りた。それはあたかも石像が墓石から降り立ったかのようであった。

 もはや疑う余地はない。アンドレはこれまで何度も魂を奪われて来たあの眠りに陥っていた。

 部屋を横切り、ガラス扉を開けて廊下に出た。石像が動いているようなぎくしゃくとしたぎこちない動きだ。

 階段の前まで来ると、躊躇うことも慌てることもせずに、一段一段降りて行った。やがて玄関の石段にたどり着いた。

 アンドレが一番上の段に足をかけたのと、ジルベールが一番下の段に足をかけたのは同時だった。

 白く厳かなアンドレの姿を見て、自分を迎えに来たのではないかと思わず錯覚しそうになった。

 ジルベールは後じさり、後じさったまま並木道の木陰に飛び込んだ。

 似たような状態のアンドレの姿を、タヴェルネの城館で見た時のことを思い出していた。

 アンドレがジルベールの前を通り過ぎた。触れられるほどの距離にいるのに、ジルベールを見もしなかった。

 ジルベールは混乱して口もきけずに、膝を突いた。恐怖を感じていた。

 どうしてこんな風にアンドレが外に出たのか理由はわからないながらも、目を離そうとはしなかった。だが理性は掻き乱され、血がこめかみで脈打ち、狂ったようになって、とても冷静には観察していられなかった。

 そこでジルベールは茂みにしゃがみ込んだまま、ただただ見守っていた。運命の恋に心を奪われて以来、ずっとそうして来たのだ。

 不意に外出の謎が解けた。アンドレは気が狂っているのでも錯乱しているのでもない。冷たく沈んだ足取りで、逢い引きに出かけるのだ。

 稲光が天を真っ二つに切り裂いた。

 青白い稲妻に照らされて、一人の男が菩提樹の陰に佇んでいるのが見えた。閃光がきらめいたのは一瞬だったが、黒い闇を背景にして、青白い顔と乱れた服装は確認できた。

 招くようにして腕を伸ばしている男の許に、アンドレは足を進めた。

 焼きごてに胸を刺されたような痛みを感じて、ジルベールはもっとよく見ようとして立ち上がった。

 その瞬間、再び稲光が夜空に走った。

 バルサモだ。汗と埃にまみれたバルサモが、どういう手段を用いてか、トリアノンに侵入していたのだ。蛇に睨まれた蛙のように、アンドレは運命に引き寄せられるように無抵抗のままバルサモに近づいて行った。

 すぐ手前でアンドレが立ち止まった。

 手をつかまれたアンドレが身体を震わせた。

「見えるか?」

「はい。でもこんな風にお呼び立てされては、死んでしまいます」

「それは悪かった。だが俺も焦っていてな。冷静ではなくなっていたのだ。気が狂いそうで、死んでしまいそうなんだ」

「苦しんでらっしゃるのですね」触れられた手を通して、バルサモの苦しみが伝わって来た。

「そうだ。苦しんでいる。救いを求めて会いに来た。俺を助けられるのはお前だけなんだ」

「おたずね下さい」

「もう一度確認するが、見えるんだな?」

「何もかも」

「俺について来られるか?」

「意思の力で導いて下されば」

「こっちだ」

「ああ、パリにいます。大通りをたどって、街灯が一つしかない路地に入りました」

「そこだ。進んでくれ」

「控えの間にいます。右側に階段があります。ですが壁の方に連れて行かれました。壁が開きました。そこに階段が……」

「上れ! そこが俺たちの部屋だ」

「ここは寝室です。獅子の皮と武器があります。あっ、暖炉の羽目板が開きました」

「進め。今、何処にいる?」

「変わったお部屋です。出口もなく、窓には鉄格子が。それにしても、随分と散らかってます」

「そんなことより、部屋は空っぽじゃないか?」

「空っぽです」

「暮らしていた人間のことはわかるか?」

「はい。その人が触れたものか、その人の持ち物かその人の一部を下されば」

「わかった。ここに髪がある」

 アンドレは髪を取って身体に近づけた。

「あっ、この人には会ったことがあります。パリの方に逃げているところです」

「そうだ。いったい二時間前に何があったのか、どうやって逃げ出したのかわかるか?」

「待って下さい。その人は長椅子に横たわっていました。はだけた胸に傷が見えます」

「いいぞ。目を離すなよ」

「眠っています。目を覚ましました。周りを見回して、手巾を取り出し、椅子に上りました。手巾を窓の鉄格子に結んでいます。ああ、神様!」

「死のうとしたのか?」

「そうです。心を決めていました。ですがいざ死のうと思うと怖くなり、鉄格子に手巾を結んだまま、椅子から降りました。ああ、何てことを!」

「何だ?」

「涙を流して苦みに身をよじり、壁の角を探して頭をぶつけようとしています」

「畜生! 何てこった!」

「あっ! 暖炉に駆け寄りました。大理石製の獅子が両脇に象られています。獅子の頭で額を割ろうとしました」

「それで?……どうなった?……アンドレ、見るんだ!」

「立ち止まりました」

 バルサモはほっと息をついた。

「見つめています」

「何を見つめているんだ?」

「獅子の目に血がついているのに気づきました」

「何だと!」

「ええ血です。ですが頭をぶつけてはいません。どういうことかしら? これはこの人の血ではなく、あなたの血です」

「俺の血だと!」バルサモは混乱で目が回りそうになった。

「そうです、あなたの血です。短刀か短剣のようなもので指を切ってしまい、血塗れの手で獅子の目を押したのが見えます」

「そうだ。その通りだ……だがどうやって逃げたのだ?」

「待って下さい、血を観察して、考えているのが見えます。あなたが指を押し当てたところに、自分の指を押し当てました。あっ! 獅子の目が引っ込んで、バネが動きました。暖炉の羽目板が開きました」

「しくじった! 何て馬鹿なんだ俺は! 自分で自分を裏切ってしまったのか……それで出て行ったんだな? 逃げたんだな?」

「どうか許してあげて下さい。ひどく不幸せだったのです」

「今は何処にいる? 何処に行ったんだ? 追うんだ、アンドレ!」

「待って下さい、武器と毛皮のある部屋で足を止めました。戸棚が開いています。普段は戸棚にしまってある小箱が卓子に置かれています。小箱に気づいて手に取りました」

「小箱の中身は?」

「あなたの書類だと思います」

「どんな箱だ?」

「青い天鵞絨が張られていて、鋲と留め金と錠は銀で出来ています」

「畜生!」バルサモは怒りのあまり足を踏み鳴らした。「すると小箱を持って行ったのはあいつだというんだな?」

「そうです、間違いありません。階段を通って控えの間に降り、扉を開け、鎖を引いて門を開け、出て行きました」

「遅い時間か?」

「遅いと思います。もう夜ですから」

「ありがたい! 出て行ったのが俺の戻って来るちょっと前であるのなら、すぐに追いつける。追いかけろ、追うんだ、アンドレ」

「家から出ると、気違いのように走り出しました。狂ったように大通りに出て……走って……走って、止まらずに走ってゆきました」

「どっちに行った?」

「バスチーユの方へ」

「まだ見えるか?」

「はい。まるで狂人のようです。何度も通行人にぶつかりました。ようやく足を止めて、現在地を知ろうとして……道をたずねています」

「何と言っている? 耳を澄ませろ、聞くんだ、アンドレ。お願いだから一言も聞き洩らすんじゃない。道をたずねていると言ったな?」

「はい、黒い服を着た男に」

「何をたずねたんだ?」

「警察の場所です」

「糞ッ! するとただの脅しではなかったのか。返事は返って来たのか?」

「はい」

「それからどうした?」

「少し戻って、斜めに通った道を進んで、大広場を横切っています」

「道順から言って、ロワイヤル広場だな。狙いがわかるか?」

「急いで下さい! 密告しようとしています。あなたより先にド・サルチーヌ氏に会われたら、あなたは終わりです!」

 バルサモはぞっとするような叫びをあげて、藪に駆け込み、亡霊のように開閉された小門をくぐって、外で地面を蹴っていたジェリドに飛び乗った。

 声と拍車を掛けられて、ジェリドは矢のように一直線にパリを目指した。後には舗道を叩く微かな音しか聞こえなかった。

 アンドレはぴくりともせず無言のまま、青ざめて立ち尽くしていた。だがまるでバルサモが魂も一緒に持って行ってしまったかように、やがてぐらりと揺れて崩れ落ちた。

 バルサモはロレンツァを追いかけるのに夢中のあまり、アンドレの目を覚ますのを忘れていたのだ。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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