翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』140-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ジルベールはフィリップに気づいて、茂みの中に戻ろうとした。

 だがフィリップが馬を進めて声をかけた。

「ジルベール! おーい、ジルベール!」

 ジルベールが最初にしたのは逃げようとすることだった。それから恐怖の眩暈に襲われ、古の人々が牧神パンのせいにした原因不明の錯乱に囚われて、並木道や茂みや隧道、果ては泉水の中まで、気違いのように動き回った。

 フィリップが優しい言葉をかけると、それがようやくジルベールにも届いたようだった。

「ジルベール、ぼくがわからないのかい?」

 ジルベールは取り乱していたことに気づいて慌てて立ち止まった。

 フィリップの方に足を向けたが、それでも足取りは重く疑わしげだった。

「すみません、気づきませんでした」ジルベールは震えていた。「衛兵かと思ったんです。仕事もせずにここにいることに気づかれて、お仕置きをされたくなかったので」

 その説明に納得したフィリップは、馬から下りて手綱を腕に掛け、ジルベールの肩に手を置いた。するとジルベールがはっきりとわかるほど震え出した。

「どうしたんだ、ジルベール?」

「何でもありません」

 フィリップが悲しげな笑みを浮かべた。

「ぼくらのことが嫌いなんだね」

 ジルベールがまた震えた。

「まあ仕方ない。父上は厳しくひどい仕打ちをしていたからね。だがぼくもかい?」

「あなたは……」ジルベールは口ごもった。

「ぼくはいつだって君の味方だった」

「その通りです」

「だったら、嫌なことは忘れていいことだけを思いだしてもらえないか。妹だって君に優しかったはずだ」

「誰にも何でもありませんでした」ジルベールは理解しがたい言葉を言い放った。そこにはアンドレに対する非難と、自分自身に対する言い訳が込められていたのだ。自尊心は轟き、後悔は呻いていた。

「そうだな、妹には確かに気位の高いところがある。それでもやっぱり優しいやつだよ」とフィリップが答えた。

 それからようやく――というのも、これまでの会話はすべて不吉な予感に導かれた質問を先送りにするためのものであったからだ。

「今アンドレが何処にいるかわかるかい? 教えてくれ、ジルベール」

 その名前を聞いてジルベールは苦しそうに答えた。

「お部屋ではないのですか……どうして僕が知っていると……?」

「ではアンドレはいつものように一人寂しくしているのか!」

「そうですね、今はお一人だと思います。ニコル嬢が逃げ出してからは……」

「ニコルが逃げた?」

「ええ、恋人と一緒に」

「恋人と?」

「だと思ってましたけれど――」先走りすぎたことに気づいた。「使用人棟のみんなはそう言ってます」

「でもね、ジルベール」フィリップの顔に不安が浮かび始めた。「さっぱりわからないな。話を聞かせてもらわなくては。もっと心を開いてくれないか。君は頭がいいし、才能に恵まれているんだ。それが何物にも代え難い君の良いところなんだから、変に無愛想な態度を取ったりぶっきらぼうに振る舞ったりして、せっかくの長所を殺すことはない」

「おたずねになったようなことは何も知らないんです。よく考えて下さい、知っているわけないじゃありませんか。みんなが宮殿にいる間、一日中庭で働いているんですから! 何も知りません」

「ジルベール、だって君には目があるじゃないか」

「そうでしょうか?」

「ああ、それにタヴェルネの名を持つ者に無関係ではないだろう。いくらタヴェルネ家の待遇が悪かったとしても、厄介になっていたのは事実なんだ」

「確かにあなたを恨んだりはしていません」ジルベールはかすれた声を出した。フィリップの優しさや、フィリップが見抜けなかった別の感情によって、人間嫌いのジルベールの心も柔らかくなっていたのだ。「だからこそお伝えしますが、妹さんはご病気です」

「病気だって!」フィリップが声をあげた。「どうしてすぐに言ってくれないんだ!」

 穏やかだった口調が慌ただしいものに変わった。

「いったいどういうことだ?」

「わかりません」

「どうなったんだ?」

「今日だけで三回花壇で気を失ったんです。でももう王太子妃のお医者さんが診に来てくれました。それから男爵も」

 フィリップはもはや聞いていなかった。予感が現実のものとなり、異変を現実に突きつけられて、心を奮い立たせていたのだ。

 ジルベールの手を引っ張って馬を任せると、全速力で使用人棟に向かって駆け出して行った。

 残されたジルベールは慌てて馬を厩舎に連れて行くと、野鳥か猛禽でもあるまいに、人の手の届くところは御免だとばかりに逃げ出してしまった。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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