翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 151-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十一章(その1) Le cas de conscience

 極めて綿密に『孤独な散歩者の夢想』の文章を数ページ綴った後で、ルソーは質素な朝食を済ませた。

 ド・ジラルダン氏からエルムノンヴィルの庭園に保養地を用意してもらったにもかかわらず、大人物の傘下に入るのを潔しとせず、人間嫌い(monomanie misanthropique)の中で言っていたように、いまだにプラトリエール街の侘住まいで暮らしていた。

 テレーズが簡単に家事を済ませた後で、買い物に出かける為に籠を取りに来た。

 時刻は朝の九時。

 テレーズはいつものように、夕飯は何がいいのかとルソーにたずねた。

 ルソーが夢想から醒め、ゆっくりと顔を上げて夢うつつで妻を見つめた。

「何でも好きなものを買っておいで。さくらんぼと花がありさえすればいい」

「わかりましたよ。そんなに高くなけりゃね」

「もちろんだ」

「それにしてもねえ、あなたがなさっていることがお金になるのかどうか知りませんけどね、みんな昔のようには払ってくれないようですね」

「そんなことはないよ、テレーズ。同じだけもらっているとも。だが疲れているのであまり働いていないからね。それに本が出来るのが半分くらい遅れているんだ」

「どうせまた破産させられるんでしょう」

「そうじゃないことを祈らないと。いい人だからね」

「いい人ねえ、いい人ですか! そういう言葉を使えばすべて言い尽くせたと思ってらっしゃるんでしょう」

「少なくとも大勢の人には言っているだろうが」ルソーが微笑んだ。「誰彼かまわず言っているわけではないからね」

「そうでしょうとも。あなたは気難しい人ですからね!」

「テレーズ、話が逸れているよ」

「そうでしたね、さくらんぼが欲しいですって、食いしん坊さん。花が欲しいって言うんですか、女たらし!」

「何を言うんだ!」ルソーは辛抱強く答えた。「胸も頭も痛くて外に出られないから、せめて気晴らしをしたいだけじゃないか。神様はがたくさんの幸を田舎にもたらしてくれたんだ、そのうちの一部が欲しいだけだ」

 言われてみればルソーは顔色も悪く身体もぐったりとしていたし、本をめくる手もぎこちなく、目は文字を読んでいなかった。

 テレーズが頭を振った。

「わかりましたよ。一時間くらい出かけて来ます。鍵は玄関マットの下ですからね。何かあった時には……」

「出かけたりはしないよ」

「出かけないことはわかってますよ。立ってられないんですからね。そうじゃなくて、来る予定の人を気にかけたり、呼鈴が鳴った時に開けたりする為ですよ。呼鈴を鳴らすのがあたしじゃないことはわかるでしょうからね」

「すまないね。いってらっしゃい」

 テレーズはいつものようにぶつくさ言いながら家を出たが、重く引きずるような足音だけは、しばらく階段から聞こえていた。

 それでもやがて門が閉まるのが聞こえると、ルソーは一人きりとなって椅子の上で寛ぎ、窓辺でパンをついばむ鳥を見つめ、立ち並ぶ隣家の煙突を縫うように降り注ぐ陽の光を満喫した。

 若々しく軽やかなルソーの心は、自由を感じ取るとすぐに、食事を終えた雀のように翼を広げた。

 ところが不意に玄関扉の蝶番が悲鳴をあげ、ルソーをまどろみから引き離した。

「お邪魔いたします」という声が聞こえて、ルソーは飛び上がり、慌てて振り向いた。

「ジルベール!」

「そうです、ジルベールです。改めて、お邪魔いたします、ルソーさん」

 間違いない、ジルベールだ。

 だが顔は青白く、髪は乱れ、襤褸服の下の手足が痩せ細り震えているのも隠しようがなかった。一言で言えば、ジルベールの外見はルソーをぞっとさせた。不安にも似た憐れみの叫びがルソーの口から洩れた。

 ジルベールは獲物に飢えた鳥のように、目を動かさずに爛々と光らせていた。おずおずと不自然な笑みを浮かべたのが、そんな眼差しとは対照的で、鷲のように厳かにも見え、狼や狐のように冷笑的にも見える。

「何をしにいらしたのです?」ルソーはだらしないのを嫌っていたし、だらしがないのは悪巧みの証拠だと見なしていた。

「お願いです、お腹が空いているんです」

 ルソーはその声を聞いて震え上がった。人間の口からこれほど恐ろしい言葉を聞くとは思わなかった。

「どうやってここに入り込んだのですか? 門は閉まっていたはずです」

「テレーズさんがいつも玄関マットの下に鍵を仕舞うことは知っていましたから。テレーズさんが出て行くのを待っていたんです。ぼくは嫌われてますから、二度と敷居を跨がせてくれないだろうし、あなたのそばに近寄らせてもくれないでしょうから。そこであなたが一人きりになったとわかってから家に近づき隠し場所から鍵を取り出して、ここまで来たんです」

 ルソーが椅子の肘掛けに手を突いて立ち上がった。

「少しでいいので聞いて下さい。少しだけでいいんです。聞いていただくだけの内容であることは保証しますから」

「いいでしょう」ルソーは愕然としていた。ジルベールの顔には、いつの時代のどんな人間にも備わっている感情を示すような、如何なる表情も浮かんでいなかったのだ。


 つづく。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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