翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 151-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十一章(その2)

「初めに申し上げておいた方が良いでしょうか。僕は窮地に追い込まれていて、逃げるべきなのか、自殺すべきなのか、もっとひどいことをすべきなのか、それすらもわからないんです……ああ、心配しないで下さい」ジルベールの声は落ち着き払っていた。「じっくり考えてみたら、自殺する必要なんかない、そんなことをしなくてもしっかり死んでしまうでしょうから……トリアノンを逃げ出してから一週間というもの、野生の草と果実のほかは何も食べずに森や野原をうろつき回っていました。もう力もありません。疲労と栄養失調で倒れてしまいます。逃げるにしても、あなたのところからではありません。あなたの家が大好きですから。三つ目のことをするために……」

「つまり?」

「つまり、僕がここに来たのは解決が必要だからです」

「気が違ったのですか?」

「違います。ですが僕は不幸のどん底で絶望にまみれていました。ある考えを思い出さなければ、今朝はセーヌ川で水死体となっていたことでしょう」

「ある考えとは?」

「あなたが書いたことです。『自殺とは人類に対する窃盗だ』」

 ルソーは物問いたげにジルベールを見つめた。――私がそれを書きながら考えていたのがあなたのことだったと思うほど自惚れているのですか?

「ええ、わかってますよ」ジルベールは呟いた。

「そうは思えません」

「何者でもなく、何も持たず、何のしがらみもない惨めな僕にとって、死ぬことだけが大事件だと仰りたいのでしょう?」

「問題なのはそんなことではありませんよ」ルソーは言い当てられて赤面した。「お腹が空いているのではなかったのですか?」

「ええ、そう言いました」

「でしたら、扉のある場所もパンのある場所もご存じなのだから、戸棚に行ってパンを持って出て行きなさい」

 ジルベールは動かない。

「パンではなくお金が必要だと言うのでしたら、あなたが悪人だとは――あなたをかばって隠れ家を提供した老人を虐げるほどの悪人だとは――思いませんから、少しですが受け取って下さい……どうぞ」

 ルソーはポケットを探って小銭を幾つか差し出した。

 ジルベールがその手を押し留めた。

「ひどい!」その声は苦痛に歪んでいた。「お金でもパンでもないんです。自殺すると言った真意をわかってもらえなかったんですね。自殺しないのは、僕の命が誰かの役に立つからだし、死んだら誰かを裏切ることになるからです。社会の仕組みも自然の摂理もご存じのあなたなら、死にたがっている人間の命を繋ぎ留める紐がこの世にあるかどうかご存じなのではありませんか?」

「幾らでもありますとも」

「父親であるということも、そうした紐の一つですよね? 答える時には僕を見てくれませんか。あなたの目を見て答えを見つけますから」

「そうですか」ルソーは口ごもった。「ええ、もちろんそうしますが、こうした質問に何の意味があるのでしょうか?」

「あなたの言葉は僕にとって裁きの場で下される判決に等しい。ですから真面目に答えて下さい。僕は死のうとした哀れな人間です。ですが……ですが、僕には子供がいるんです!」

 ルソーはあまりの衝撃に椅子から飛び上がった。

「からかわないで下さいね」ジルベールは恥じらいがちに言葉を継いだ。「僕の心を傷つけるだけではないか、それも短刀で傷を開いてしまうのではないかとお考えなのでしょう。繰り返しますが、僕には子供がいるんです」

 ルソーは何も答えずに見つめていた。

「子供がいなければ、とっくのとうに死んでいました。こうした板挟みに遭ってどうしたらよいかわからなくなり、あなたの助言を仰ぎにここに来たんです」

「私に助言できるようなことがあるでしょうか? 過ちを犯した時に相談に来てくれなかったではありませんか?」

「その過ちというのが……」

 ジルベールは何とも言えぬ表情をして、ルソーに一歩近づいた。

「はい?」

「その過ちというのが、世間では犯罪と呼ばれる類のものなのです」

「犯罪! だったらなおさら私に話すべきではないでしょう。私はあなたと同じ人間であって、懺悔を聞く僧侶ではないのですから。もっとも、何を聞いても驚きませんよ。いつか過ちを犯すのではないかと思っていましたから。あなたには性格の悪いところがある」

「違うんです」ジルベールはうんざりしたように首を振った。「僕の心は確かに偽善的だし歪んでいます。たくさんの本を読んで、身分の平等、精神の優位、本能の気高さを学びました。その本のどれにも、著名な方の署名がありました。その本のおかげで僕みたいな馬鹿な農夫は惑わされ……堕落したのです」

「ああ、何を仰りたいのかわかりましたよ」

「え?」

「私の思想を非難しているではありませんか。あなたには自由意思がないのですね?」

「非難ではありません。読んだことをお伝えしただけです。非難するなら何でも真に受ける自分を責めます。僕は信じて、間違ったのです。僕が罪を犯したのには二つの理由がありました。一つ目はあなたです。だから僕はここに来ました。それから、時間が来たら二つ目に移りましょう」

「つまり何がお望みなのでしょうか?」

「お恵みでも隠れ場所でもパンでもありません。見捨てられ、飢えていても関係ありません。あなたにお願いするのは精神的な支えであり、思想を承認してもらうことであり、一言で僕の力を取り戻してくれることです。栄養のせいで手足から奪われたのではなく、疑いのせいで頭や心から奪われた力を取り戻して欲しいのです。ルソーさん、一週間前から僕が感じていたものが、胃腸を苛む飢えの苦しみなのか、脳みそに巣食う悔恨の痛みなのか、どうか教えていただけませんか。罪を犯した結果、僕には子供が出来ました。絶望にまみれて髪を引きちぎるべきなのか、『ごめんなさい!』と泣き喚きながら砂の上でのたうち回るべきなのか、教えて下さい。さもなきゃ聖書に出て来る女のように、『みんなと同じことをしただけです。皆さんの中に私より優れた人間がいるのなら、どうか石を投げなさい』と言って泣き叫ばなきゃらなないんですか? 一言で言うと、僕が感じたことを感じなくちゃいけなかったのはルソーさんの方なんです。どうかお答え下さい。父親が子供を捨てるのが当たり前のことなのでしょうか?」

 ジルベールがそう言った途端、ルソーはジルベール以上に真っ青になり、完全に取り乱していた。

「どういう資格があってそんなことを仰るのですか?」ルソーはもごもごと呟いた。

「隠れ場所として与えてくれたこの屋根裏部屋で、まさにその問題について書かれたあなたの著作を読んだからです。貧乏な生まれの子供たちは国が面倒を見るべきだとあなたが仰っていたからです。あなたが生ませた子供たちが見捨てられようとたじろぎもしなかったにもかかわらず、自分のことを誠実な人間だと思っていたからです」

「何てことだ。私の本を読み、そんな言葉を私に言いに来たんですか」

「それが何か?」

「あなたという人は悪い精神と悪い心が結び合わされた人でしかないということですよ」

「ルソーさん!」

「あなたは人生を誤読したように、私の著作を誤読したのです! 顔の表面しか見なかったように、紙の表面しか見なかったのです! 私の著作から引用することで自分の罪の共犯者にさせようとしたのでしょう。『ルソーがそういうことをしたと打ち明けているからには、自分にもできるはずだ』と。愚かな! あなたが知らないこと、あなたには読めなかったこと、あなたが見抜けなかったことがあるのですよ。あなたが例に出した人物の一生――惨めで辛い人生を、祝祭と喜びに満ちた享楽的な黄金色の人生に変えることだって出来るのです。私にはヴォルテール氏ほどの才能がないのでしょうか? 同じだけのものを生み出すことは出来ないのでしょうか? 頑張れるのに頑張れないから、ヴォルテール氏の本ほど高く売れないのでしょうか? 本屋に言われるがままに中身の入った金庫を抱えている癖に、お金をじゃらじゃら鳴らしに来させることが出来ないのでしょうか? 金は金を引き寄せます。そうではありませんか? 若く美しいご婦人の許に出かけるために馬車を一台持ってもおかしくなかったでしょうし、そんな風に思っていれば、幾らそんな贅沢をしても詩作の泉が涸れることもなかったでしょう。私が情熱を失ってしまったと思いますか? お願いです! 私の目をしっかりと見て下さい。六十歳になっていますが、まだ若さと希望に輝いていませんか? 私の本を読んだり写したりしてみたのなら、年齢が衰え、深刻な不幸が実際に訪れているにもかかわらず、心はまだまだ若くて、もっともっと悩み苦しまんが為に、それ以外の器官から力という力を受け継いだようには見えませんか? 歩くのも困難なほど心身が弱ろうとも、貴重な神の祝福を享受すべき人生の盛りにも感じたことのなかった苦悩を味わう為に、体力や生命が満ちているのをひしひしと感じているのです」

「それはわかっています。あなたのことをそばで見て来てどういう方なのかよくわかりましたから」

「そばで見てわかっているのなら、私の人生というものは、他人にとってはいざ知らずあなたにとっても意味のないことなのでしょうか? 私には我が子の為に尽くすという感情がありませんが、それでも償おうとしてはいたのだと言いませんでしたか……」

「償うですって!」ジルベール。

「わかっていただけませんでしたか? 第一に、貧しさのせいで常軌を逸した決意をせざるを得なかったのですし、第二に、その貧しさに無私無欲で耐えることよりほかに、その決意を弁明できるような理由が見つかりませんでした。屈辱を受けることで自らの智性を罰しているのだとわかっていただけなかったのでしょうか? 罰を受けるのも当然の智性でした。自己正当化しようとして逆説を申し立て、一方で、永久に悔いることで心を罰していたのです」

「わかりました。それが答えですか! あなたがた哲学者と来たら、人類に対して教えを投げかけて、僕らを絶望の淵に投げ込みながら、腹を立てれば立てたと言って非難するのですね。僕が許せないのは、あなたが恥や悔いを見せずにいることなんです! 忌々しい、忌々しい、忌々しい! あなたの名に於いて犯された罪の数々が、巡り巡ってあなたの頭の上に降りかかればいい!」

「私の頭上になら、呪詛だけではなく罰も下らないといけませんね。あなたは失念しているようですが、並大抵の罰では済まされますまい! あなたも罪を犯したのなら、私だけでなく自分のことも甘やかさず責めるべきです!」

「甘えるどころか、僕に下される罰は輪を掛けて恐ろしいものになるでしょう。僕にはもう何一つとして信じるものはありません。被害者はもちろん仇敵に会ったとしても黙って殺されるつもりです。惨めな境遇は自殺を囁き、僕の良心は自殺して許しを請えと訴えています。今僕が死んだところで『人類に対する窃盗』とは言えません。あなたは自分でも考えていなかった台詞を書いたんですよ」

「おやめなさい。騙されやすいお人好しでは飽き足らず、疑り深いひねくれ者のように振る舞わなくてはならないのですか? 子供と仰いましたね? 父になっただとかこれから父になるのだとか仰っていたような気がしますが?」

「確かにそう言いました」ジルベールは答えた。

「それはつまり――」ルソーが声をひそめた。「母の乳房から離れたすべての人間に神は貞節という持参金を与えましたが――そうした貞節に満ちた空気を、人間という生き物は生まれながらに好きなだけ自由に吸い込むことが出来るというのに――あなたの仰ったことは、そんな生き物を死ではなく恥辱に引きずり込むということなのだということはわかっているのでしょうね? お聞きなさい、私の立場がどれほど恐ろしいものなのかを。子供たちを捨てた時には、どんな優れたものでも傷つけてしまう世間から、面と向かって罵られ辱められることになるのはわかっていました。だから逆説を弄して自己正当化したのです。だから十年というもの、本当の父親なのかどうか確信は持てずとも、子供たちの教育の為に母親たちへ助言を与えることに生を費やしたのです。やがていつしか、死刑執行人が現れて、世間、祖国、みなし児の為に仇を討とうとするも、私を非難することが出来ずに、私の本を非難して、そんな本はこの国の生き恥だ、毒を撒き散らしている、と言って燃やしてしまいました。ふるいに掛け、考え、判断して下さい。私は正しい行動をしていたのでしょうか? 間違った教えを信じていたのでしょうか? 答えられないでしょう。神ご自身でも悩んでしまうでしょうね。ぶれることのない正義と不正の秤を手にしている神でさえ。そこで私が心に問いかけると、心は胸の奥深くでこう答えたのです――『お前などくたばってしまえ、己が子らを捨てた歪んだ父親め。四つ辻で夜ごと春をひさいでいる若い女に会ったなら地獄に堕ちればいい。そいつはお前が捨てた娘なのさ。飢えをしのぐ為に恥を捨てたのだ。捕まった泥棒を道で見かけたらザマを見ろ。盗みに顔を紅潮させたままのそいつはお前が捨てた息子だよ。飢えに勝てずに罪を犯したのさ!』」

 立ち上がっていたルソーだったが、この言葉と共にまた椅子に沈み込んだ。

「ですが――」弱々しい声には祈るような響きがあった。「人から思われているほど悪いことなどしておりません。罪を分かち合っている心ない母親が動物のように忘れてしまうのを見て、こう思ったんです。『神は母が忘れてしまったのを許し給うた。母には忘れる権利があるのだ』。その時の私は間違っていましたが、今日は今まで誰にも言って来なかったことをお聞かせしましたから、もう勘違いしていただくわけにはいきませんよ」

「つまりあなたは――」ジルベールが顔をしかめた。「養えるだけのお金があったら、子供を捨てたりはしなかったと仰るのですか?」

「変えようのない事実に過ぎません。もちろん、捨てたりはしませんでした!」

 ルソーは震える手を厳かに天に掲げた。

「二万リーヴルあれば、子供一人を養うには足りるんですよね?」ジルベールがたずねた。

「ええ、充分です」

「そうですか。ありがとうございます。自分がやるべきことを知ることが出来ました」

「どんな事情があろうと、あなたのように若い人なら、働いて我が子を養うことが出来ますよ。それよりも罪を犯したと仰っていましたね。恐らく居所を探され、追われているのでしょう……」

「そうなんです」

「ではここに隠れるといい。屋根裏ならいつでも空いています」

「あなたほど素晴らしい方はいません! ご厚情は喜んで受けさせて下さい。隠れ場所よりほかには何も欲しがりませんから。パンなら手に入れてみせます。僕が怠け者ではないことはご存じでしょう」

「そうと決まれば――」ルソーが心配そうに言った。「お上がりなさい。ルソー夫人には見つかりません。屋根裏には上がって来ませんから。あなたがいなくなってからも片づけてはいません。藁布団もそのままです。過ごしやすいように自由になさい」

「ありがとうございます。身に余る光栄です」

「では、これで望みはすべてですね?」ルソーは目顔でジルベールに部屋から出て行くように促した。

「後一言だけお願いします」

「お言いなさい」

「以前リュシエンヌで、裏切者だと言って僕を非難なさいましたよね。僕は誰も裏切ったりはしていません。恋人を追いかけていたんです」

「その話はもういいでしょう。これで終わりですね?」

「はい。ところでルソーさん、パリの何処に住んでいるか知らない人の住所を知ることは出来るものなのでしょうか?」

「有名な方なら出来るでしょうね」

「とんでもない有名人です」

「お名前は?」

「ジョゼフ・バルサモ伯爵」

 ルソーが震え上がった。プラトリエール街で起こったことを忘れていなかったのだ。

「どういったご用があるのですか?」

「簡単なことです。あなたには僕の犯した罪の道義的な責任があると非難したのは、僕が自然法にのみ従っていると信じていたからです」

「私のせいであなたは道を間違えたと?」責任という言葉にルソーは震え上がった。

「少なくとも道を照らしたのは確かです」

「結局、どういうことでしょうか?」

「僕の犯罪には道義的な責任だけではなく、実際的な責任も発生しているということです」

「このド・バルサモ伯爵に実際的な責任があると言うのですね?」

「そうです。僕はお手本を真似し、機会に乗じました。そういう点で、自分が人間ではなく野蛮な獣のように振る舞ってしまったことが、今ならわかります。お手本というのがあなたのことで、機会がド・バルサモ伯爵です。何処にお住まいかご存じではありませんか?」

「知っていますよ」

「それでは教えていただけませんか?」

「マレー地区のサン=クロード街です」

「ありがとうございます。この足で訪ねてみようと思います」

「気をつけなくてはなりません」ルソーがジルベールを引き留めて声をかけた。「あの方は恐ろしくて底の見えない人間ですから」

「心配いりません、ルソーさん。もう覚悟は決めましたし、自制するすべならあなたから教わりました」

「早くお上がりなさい! 並木道の門が閉まるのが聞こえましたよ。きっとルソー夫人が戻って来たのです。ここからいなくなるまで屋根裏に隠れておいでなさい。その後で出かければいい」

「鍵はどうすれば?」

「今まで通り台所の釘に掛けておいています」

「では失礼します」

「パンをどうぞ。今晩は仕事を用意しておきましょう」

「ありがとうございます!」

 ジルベールは音も立てずに忍び出て、テレーズが二階にたどり着く頃にはとっくに屋根裏に入り込んでいた。

 ルソーから貴重な情報を得ていたおかげで、ジルベールはいつまでもぐずぐずとはしていなかった。

 テレーズが自室の扉を閉めるのを待たずに、屋根裏の戸口から動きを追って、長いこと物を食べずに衰弱しているとは思えぬ速さで階段を駆け降りた。期待や恨みで頭を一杯にしながら、その裏では不満や呪詛に駆り立てられた復讐の影が飛び回っていた。

 ジルベールは形容しがたい精神状態のままサン=クロード街にたどり着いた。

 中庭に入ると、礼儀から邸を訪れていたド・ロアン公を、バルサモが出口まで案内して来たところだった。

 ロアン公が門を出てから今一度立ち止まって感謝の意を表したのに乗じて、襤褸を着たジルベールは何かに惑わされないように辺りを見もせずに犬のように滑り込んだ。

 馬車が大通りでロアン公を待ち受けていた。ロアン公が馬車までの距離を素早く通り抜けて扉を閉めると、馬車はあっと言う間に立ち去った。

 バルサモはそれを機械的に目で追っていたが、馬車が見えなくなると玄関に向き直った。

 石段の上に乞食かと紛うような青年がいて、祈るような恰好をしていた。

 バルサモがジルベールに近づいて行った。いくら口が閉じられていようとも、その目が雄弁に問いかけている。

「十五分だけお話を聞いていただけませんか、伯爵閣下」襤褸を着た若者が口を利いた。

「どちらさんだったかな?」バルサモの声は驚くほど穏やかなものだった。

「僕に見覚えがありませんか?」

「いや。だが構わぬ。おいでなさい」目の前の青年の異様な顔色や、服装や請願を目にしても、バルサモは不安も表さずに答えた。

 そうして先に立って歩き、一番手前の部屋まで連れてゆくと、声も顔色も変えずに腰を下ろした。

「見覚えがないかという話でしたな?」

「そうです、伯爵閣下」

「そう言われると何処かで会ったことがあるような気もする」

「タヴェルネです。あなたがいらっしゃったのは、王太子妃がお立ち寄りになった日の前日でした」

「タヴェルネで何をしていた方だったかな?」

「住んでいました」

「使用人として?」

「違います。同居人としてです」

「タヴェルネを出たわけですか」

「そうです。三年近くになります」

「そして……」

「パリに来て、初めはルソー氏のところで学びました。その後、トリアノンで庭師見習いとして働いていました。その際はド・ジュシュー氏にお世話になりました」

「素晴らしいお名前が二つも出て来ましたが、私になど何をお望みだと?」

「これから申し上げます」

 一つ息をついてから、ジルベールはバルサモをしっかとした目つきで見据えた。.

「大嵐の夜にトリアノンにいらしたのを覚えていませんか? 金曜日で六週間になるでしょうか」

 真面目な顔をしていたバルサモが顔を曇らせた。

「ああ、覚えているとも。お会いしたのだったかな?」

「お会いいたしました」

「内密にしておくから言うことを聞けとでも?」バルサモの声が厳しさを帯びた。

「違います。むしろ内密にしておいて貰いたいのは僕の方です」

「もしかするとジルベールと呼ばれていなかったか?」

「そうです、伯爵閣下」

 恐ろしい非難の対象となった名前を持つ青年を、バルサモは射抜くような目で貪り喰らった。

 男らしく素性を認めたことや、自信に満ちた立ち居振舞い、威厳の備わった言葉の端々に、バルサモは驚きを隠せなかった。

 ジルベールは卓子に手を突かず、その前で立ち止まった。野良仕事をしている割りに細く生白い手の片方は胸元に隠れ、片方は傍らに優雅に垂れている。

「その態度を見て、ここに来た理由がわかったよ。ド・タヴェルネ嬢から告発されたことはわかっているんだろう。俺が科学の助けを借りて真相を聞き出したんだ。そのことで俺を責めに来たんじゃないのか? 俺がいなくては暴露されることもなく、墓のように暗い闇に葬られたままだったろうからな」

 ジルベールはただ首を横に振っただけだった。

「だがそれは間違っていたのではないか?」バルサモが続けた。「俺は我が身可愛さに告発しようとしているのでない、人から非難されるのは俺の方だと考えてみろ。お前を敵扱いして、自己弁護するだけで済ませてお前を非難していたら……そんな風に諸々考え合わせてみれば、お前には何も言う権利はないはずだ。何せ恥ずべきおこないをした人間なんだからな」

 ジルベールは爪で胸を掻きむしったが、それでも口は開かなかった。

「兄から追われ、妹に殺されるぞ。そんな風に不用意にパリの街中を歩き回っているようではな」

「そんなのたいしたことじゃありません」

「たいしたことじゃないだと?」

「ええ。僕はアンドレ嬢を愛していました。誰にも負けないほど愛していましたから。なのに僕のことを蔑んで。敬意を抱いていたのに。この腕に二度までも抱きながら、服の下に口唇を近づけることは控えていたのに」

「そうだな。敬意を払われるようなことをしたと言うのか。どうやって蔑みを解こうとした? 罠に嵌めたんじゃないか」

「違うんです! 罠を仕掛けたのは僕じゃありません。罪を犯す機会が訪れてしまったんです」

「その機会を誰が用意したと?」

「あなたです」

 バルサモは蛇に咬まれたように身体を強張らせた。

「俺が?」

「そうです。あなたなんです。あなたはアンドレ嬢を眠らせたまま、立ち去ったではありませんか。あなたが遠ざかるにつれ、アンドレ嬢の足は萎え、とうとう倒れてしまったんです。それを僕が抱え上げて、部屋まで運び入れたんです。肌と肌が触れ合うのを感じました。大理石が生命を持っていたらあんな感じでしょうか。愛に落ちていた僕は、愛に負けたのです。それでも犯罪者と呼ばれるのでしょうね? あなたにおたずねしたいんです。僕の不幸の原因を作ったあなたに」

 バルサモは悲しみと憐れみを湛えた眼差しをジルベールに向けた。

「その通りだな。お前の犯罪と娘さんの不幸の原因を作ったのは俺だ」

「それなのに、あなたほど力もあって善良であるべき人間が、薬を与えるどころか、却ってアンドレの病状を悪化させ、犯人の頭上には死を吊り下げておいたんだ」

「それも間違いない。お前は賢いな。いつの間にか俺はどうしようもない人間になってしまった。頭に浮かんだ計画はどれも邪で有害な形を取り、そのせいで俺も不幸に陥ってしまった。お前にはわからんだろうがな。だからと言って他人を苦しめていい理由にはならん。望みは何だ? 言ってみろ」

「すべてに贖う方法です、伯爵閣下。罪も不幸もすべて」

「あの娘を愛しているのか?」

「そうです」

「愛にはいろいろな形がある。どのように愛しているんだ?」

「ものにする前は焦がれるほどに愛していました。今では狂えるほどに愛しています。腹を立てられたら苦しくて死んでしまいそうです。足に口づけさせてくれたら嬉しくて死んでしまいそうです」

「貴族の娘だが貧乏だったな」バルサモが考え込んだ。

「ええ」

「だが兄は優しい男だ。貴族という無意味な特権にはこだわらないのではないか。妹と結婚したいと兄に申し入れたらどうなると思う?」

「殺されてしまいます」ジルベールは震え上がった。「でも、もしかすると僕は死ぬのを恐れてはいずに望んでいるのかもしれません。だからやってみろと言われるのならやってみようと思います」

 バルサモが考え込んだ。

「お前は賢いだけでなく、優しい人間でもあるようだな。それに、お前の取った行動が罪深いものだったとしても、俺にも罪の一端はあるんだ。よし、タヴェルネの息子ではなく父親のタヴェルネ男爵の方に頼んだらどうだ。娘さんとの結婚を許してくれたら、持参金を用意する、とな」

「そんなこと言えませんよ。無一文なんですから」

「持参金なら十万エキュ俺が用意してやる。お前がさっき言ったように、不幸と罪に対して償う為だ」

「きっと信じてくれません。僕が貧乏なのは知ってますから」

「信じないのならこの紙幣を見せてやれ。これを見れば疑うこともあるまい」

 バルサモは抽斗を開け、一万リーヴル相当の紙幣を三十枚数え、ジルベールに手渡した。

「これはお金ですか?」

「見てみろ」

 ジルベールは手渡された紙束を貪るように見つめ、バルサモの言葉を確かめた。

 目に喜びがはじけた。

「どうにかなりそうです! ですが、ここまでしていただかなくても」

「何でも疑ってみるのはいいことだ。だが疑うべきものとそうでないものを見分けられるようになれ。この十万エキュを持ってタヴェルネ邸に行くがいい」

「これほどの大金を口頭でいただいても、とても現実だとは信じられません」

 バルサモは羽根ペンを取って文書をしたためた。

 ジルベールがアンドレ・ド・タヴェルネ嬢との結婚宣誓書に署名した日、申込みがうまくいくことを願って事前に手渡していた十万エキュを持参金として与えるものとする。――ジョゼフ・バルサモ

「この紙を持って行け、これで不安はあるまい」

 文書を受け取るジルベールの手は震えていた。

「こんなに大きな借りをいただいては、あなたよりほかにこの世に神などいらっしゃいません」

「崇めなくてはならぬ神は一つしかない」バルサモは重々しく答えた。「そしてそれは俺ではない。わかったら行け」

「最後に一つだけお願いします」

「何だ?」

「五十リーヴルいただけないでしょうか」

「その手に三十万リーヴル持っているというのに五十リーヴルを?」

「この三十万リーヴルは僕のものではありません、アンドレ嬢が結婚に同意してくれるまでは」

「五十リーヴル必要な理由は?」

「男爵家を訪問するのに相応しい服を買う為です」

「いいだろう。持って行け」

 バルサモはジルベールの望み通り五十リーヴルを手渡した。

 それから顎をしゃくってジルベールを追い返し、のろのろと悲しげな足取りで部屋に戻った。

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コメント

9Vj295F1
大人の嗜み、してますか?
やはり、女遊びはこうでなければ…面白くない
http://fEs9323H.a.uukyc.com/fEs9323H/
【2012/06/06 10:49】 URL | 珈琲男 #-[ 編集]
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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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