翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 152

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十二章 ジルベールの計画

 外に出るとジルベールは火照った空想を静めるのに精一杯だった。伯爵の言葉を耳にして、可能性ではなく実現性を夢想していたのだ。

 パストゥレル街に着くと里程標の上に腰を下ろし、辺りを見回して誰からも見られていないことを確認したうえで、しっかりと握っていたせいで皺くちゃになった札束をポケットから取り出した。

 恐ろしい考えが心をよぎり、額に汗を滲ませていたのだ。

「よし」札束を見ながら呟いた。「あの人に騙されたわけじゃなかったのかどうか確かめよう。罠に掛けられたわけじゃないのかどうか。甘い餌で釣っておいて死をお見舞いされるわけではないのか。草花で気を引いて屠殺場に連れて行かれる羊のように扱われたわけではなかったのか。たくさんの贋札が流通していて、それを使って宮廷の好き者たちがオペラ座の娘さんたちをカモにしていたというじゃないか。伯爵が僕に構ってくれたのは騙すためではなかったのかどうか、確かめてみよう」

 ジルベールは一万リーヴルの札束の一つをつかんで、一軒の店に入って紙幣を見せ、両替の出来る銀行の場所をたずねた。主人から頼まれたのだ、と言い訳して。

 商人は紙幣を何度もひっくり返して見とれていた。慎ましやかな店舗には大変な金額だったからだ。やがてサン=タヴォワ街を指さし、ジルベールが知りたかった金融商の場所を教えた。

 紙幣は本物だったのだ。

 ジルベールは喜びを爆発させてまたもや空想に心を預け、ポケットの中で今まで以上に大事に札束を握った。やがてサン=タヴォワ街で古着屋を見つけ、ショーウィンドウを見とれるように眺めて、二十五リーヴルで――とはつまり、バルサモから貰った二ルイのうちの一枚で――栗色の羅紗の上下揃いを購入した。清潔感のあるところが気に入ったのだ。それからあまりくたびれていない黒い絹靴下を一組、光る留金のついた短靴を一足。それから仕上げに、悪くない生地のシャツを一枚、購入した。高級でこそないが品が良く、古着屋の鏡に映してみたジルベールは一目で気に入った。

 そこで今まで着ていた古着を売って二十五リーヴルのたしにすると、ポケットの中の貴重な手巾を握り締め、古着屋から鬘店に移動した。十五分後にはジルベールの頭は洗練されて見事と言えるまでのものになっていた。

 こうしたことを終えると、ジルベールはルイ十五世広場の近くにあるパン屋に入って二スーのパンを買い、急いで頬張りながらヴェルサイユに向かった。

 コンフェランス(Conférence)の泉では一休みして水を飲んだ。

 旅を再開してからも、御者の誘いは断固として断った。御者にしてみれば、これほど小ぎれいな若者が靴墨を犠牲にしてまで十五スーを節約するのが信じられない。

 徒歩で先を目指すこの若者がポケットに三十万リーヴル持っていると知ったら、御者たちは果たして何と言うだろうか?

 だがジルベールにも徒歩を選んだ理由がある。一つには、必要最低限を超えては一リヤールも使わないという固い決意。いま一つは、あれこれ動いたり考えたりするには一人の方が都合がよいと考えたからだ。

 二時間半にわたって歩いていたこの若者が、頭の中で幸せな結末をもてあそんでいたとは神のみぞ知るところであった。

 二時間半で四里の道のりを歩いていたが、距離の感覚もなければ疲れも感じていなかった。体力では誰にも負けなかった。

 計画は練り終わっている。どうやって目的を達すべきか考えるのはとうにやめていた。

 父親であるタヴェルネ男爵との戦いには言葉を費やそう。男爵の許可を得た後で同じようにアンドレ嬢に言葉を費やせば、許してくれるだけではなく、感動的な演説をおこなった自分に敬意や愛情を示してくれるだろう。

 そんな風に考えれば、不安よりも希望が勝った。アンドレのような立場の娘が、愛情のこもった償いを拒むことなどあり得ない。とりわけそれに十万エキュの持参金がついていれば。

 ジルベールは旧約時代の幼子のように、このような叶わない夢を見るほどの無邪気なお人好しだった。自分がおこなった悪事もすっかり忘れていた。人が思うほど悪い心のせいでああした悪事をおこなったのではないらしい。

 すべての準備が整った頃、ジルベールは締めつけられるような気持でトリアノンの敷地にたどり着いていた。来たからには用意は出来ている。フィリップの怒りに触れたら、誠実さでなだめなくてはならない。アンドレに蔑まれれば、愛情で屈服させなくてはならない。男爵に罵られたら、金貨で機嫌を取らなくてはならない。

 自分を受け入れてくれていた共同体から離れたことで、ポケットの中の三十万リーヴルこそが固い鎧なのだということを、ジルベールは本能的に悟っていた。もっとも心配なのはアンドレが苦しむのを見ることだ。恐れていたのは自分の弱さだった。試みを成功させるのに不可欠な力を奪ってしまう弱さだ。

 そこで庭に入ると、いつものように蔑みを浮かべ、昨日までの仲間であり今日からは目下となった使用人たちを見回した。

 まずはド・タヴェルネ男爵についてだ。使用人棟の小姓にさり気なく居場所をたずねた。

「男爵はトリアノンにいらっしゃいません」

 ジルベールは一瞬躊躇いを見せた。

「ではフィリップ殿は?」

「フィリップ様はアンドレ嬢とお発ちになりました」

「発ったって!」ジルベールの顔に驚愕が浮かんだ。

「はい」

「アンドレ嬢が立ち去ってしまったというのか?」

「五日前に」

「パリに?」

 小姓は「知りません」というように首を振った。

「知らないって? アンドレ嬢は誰にも行き先も知られずに立ち去ったのか? だけど何の理由もなけりゃ立ち去らないじゃないか」

「馬鹿らしい!」小姓はジルベールの栗色の服装にもてんで敬意を払わなかった。「もちろん理由もなく出かけたりはなさいません」

「じゃあ理由は?」

「空気を変える為です」

「空気を?」

「ええ、トリアノンの空気が身体に合わないらしくて、医者の助言に従ってトリアノンから離れたんです」

 これ以上たずねても無駄だ。今までの話が、この小姓がド・タヴェルネ嬢について知っていることのすべてだろう。

 だがジルベールは唖然として、その耳で聞いた話を信じることが出来なかった。大急ぎでアンドレ嬢の部屋に向かったが、扉には鍵が掛けられていた。

 ガラスの破片、麦藁や干し草の屑、藁布団の束が廊下に散らばり、部屋の主が引っ越してしまったことを告げていた。

 この間まで住んでいた自分の部屋に戻ると、そこは出た時のままになっていた。

 アンドレの部屋の窓が換気の為に開いていて、控えの間まで見通せた。

 部屋は見事なまでに空っぽだった。

 苦しくて辛くて、何をする気も起きなかった。頭を壁にぶつけ、腕をよじり、床を転がった。

 気違いのように屋根裏から飛び出し、翼が生えたように階段を駆け降り、髪を掻きむしって森に飛び込んだ。呪詛の叫びをあげてヒースの真ん中で倒れ込み、己が命とその命を与えた存在を呪った。

「はははっ! もう終わったんだ。みんな終わった。神様は僕とアンドレを二度と会わせたくないらしい。死ぬほど悔いて絶望して焦がれさせるつもりらしい。罪を償えということか。辱めた相手の不名誉をそそげということか……それにしても何処に行くというのだろう?……タヴェルネだ! そうか! 行ってやるとも! 世界の果てまでも行ってやる。必要とあらば雲の上まで。手がかりを見つけたら追いかけるんだ。たとい飢えと疲労で道半ばで倒れたとしても」

 だが苦しみを爆発させたおかげで徐々に苦しみも和らぎ、ジルベールは立ち上がって、楽に息を吸い込み、穏やかな態度で周囲を見回し、ゆっくりとパリへの道を取った。

 今回はたどり着くまでに五時間かかった。

「男爵はパリから離れたりはしていないに違いない」ジルベールは冷静に見えた。「話をしよう。アンドレ嬢は失踪した。そりゃそうだ。トリアノンに居続けられるわけがない。でも何処に行ったにしても、父親ならきっと居場所を知っている。父親の言葉から足跡をたどれるはずだ。いや、それよりも、どうにか意地汚さを満足させられたら、呼び戻してくれるかもしれない」

 ジルベールはこうした思いつきに力を得て、夜七時頃パリに戻って来た。夜七時――つまりシャン=ゼリゼに人を引き寄せる涼しい時間帯に。シャン=ゼリゼ――夜霧と、二十四時間にわたる昼を実現させている人工の光が漂っている場所に。

 ジルベールは覚悟を決めて、コック=エロン街の宿に真っ直ぐ進み、躊躇うことなく門を敲いた。

 沈黙だけが答えを返す。

 さらに強く敲き金を鳴らしたが、何度敲こうとも結果は同じだった。

 当てにしていた頼みの綱が擦り抜けてゆく。ジルベールは怒りにまかせて手をぼろぼろにした。魂が苦しんでいるのだから、肉体を苦しめるのも当然のことだ。出し抜けに道を戻り、ルソー宅の門のバネを押して階段を上った。

 三十枚の札束を包んだ手巾には、屋根裏の鍵も結びつけられていた。

 ジルベールはそれに飛びついた。ここにセーヌ川が流れていたとしても飛び込みそうな勢いだった。

 夜も更け、綿のような雲が紺碧の空で戯れ、甘い芳香が菩提樹やマロニエから立ちのぼり、蝙蝠が翼を窓ガラスに打ちつける頃、ジルベールが昂奮に駆られて天窓に近づくと、木々に囲まれた庭の離れが白く見えた。かつてあそこで、もう二度と会えないと思っていたアンドレを見つけたのだ。心が砕け、気絶しそうになって樋に手を突くと、目の前がぼんやりとして視界が失われた。

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