翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 155

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十五章 十二月十五日

 ジルベールはフリッツの案内で難なくバルサモに会うことが出来た。

 伯爵は長椅子に寝そべり、有閑人のように一晩中眠っていたせいでぐったりとしていた――と、少なくともジルベールはそう感じた。こんな時間に横になっているのを目にしたからだ。

 ジルベールが現れたらすぐに案内するように命じられていたのだろう。名乗る必要も、口を開く必要さえなかった。

 応接室に入ると、バルサモが肘を起こし、声もなく開いたままだった口唇を閉じた。

「おや、結婚する青年か」

 ジルベールは無言のままだった。

「結構」伯爵に尊大な態度が戻って来た。「お前は幸せだし、感謝もしているのだろう。大変結構。お礼を言いに来たんだな。要らんことだ。また何か欲しくなった時の為に取っておけ。感謝というのは笑って配れば人を喜ばせる礼金のようなものだ。さあ行け、兄弟」

 バルサモの話す言葉や響きには、何処か深い悲しみと優しさが潜んでおり、それがジルベールには非難と告発を受けているような衝撃を与えた。

「違います。僕は結婚なんかしません」

「ふん! ではどうしたんだ?……何が起こった?」

「僕は拒絶されたのです」

 伯爵がジルベールを正面から見据えた。

「へまをやったんだな」

「そんなことはありません。少なくとも僕はそう考えてます」

「誰に追っ払われたんだ?」

「お嬢様です」

「さもありなん。どうして父親に話さなかった?」

「運命がそれを望まなかったからです」

「ほう、俺たちは運命論者だったのか?」

「僕は信仰を持つことが出来ませんから」

 バルサモが眉をひそめ、面白そうにジルベールを見つめた。

「自分の知らないことを語るな。大人であれば愚か者のやることだし、子供であれば自惚れ屋のすることだ。自惚れるのはいいが、馬鹿は許さん。馬鹿なことはしないと言うなら認めてやろう。で、何をやったんだ?」

「それが、詩人のように、行動する代わりに頭を使おうと思ったんです。愛を夢見る喜びを知った並木道を散歩しようと思っていたんです。ところが不意に何の前触れもなしに現実が目の前に立ち現れて、その場で僕を打ちひしいだのです」

「それもまた結構なことではないか。男とはどんな状況であれ斥候のようなものだ。進む時はいつも右手に小銃、左手に龕灯を持たねばならん」

「とにかく僕はしくじったのです。アンドレ嬢からは悪党とか人殺しと呼ばれ、殺してやると言われました」

「ほう。だが子供は?」

「子供は自分のものであり、僕のものではないと言われました」

「それから?」

「そう言われて、僕は引き下がって来たのです」

「そうか!」

 ジルベールが顔を上げた。

「僕はどうすればよかったのでしょう?」

「俺にはまだわからん。何がしたいのか教えてくれ」

「僕に屈辱をもたらしたことに対して、罰を与えたいんです」

「ただの言葉だ」

「いいえ、これは決意です」

「だが……お前は黙って奪われただけだったんだな? 秘密と……金を?」

「僕の秘密は僕のものであって、誰にも取られるつもりはありません。お金はあなたのものです。お返しいたします」

 ジルベールは上着をめくって三十枚の銀行券を取り出し、しっかりと数えて卓子の上に広げた。

 伯爵はそれを手に取って折り畳んだが、その間もジルベールに目を据えていた。ジルベールの顔にはどんな高ぶりも現れてはいない。

 ――正直者。貪欲ではない……才気と信念の持ち主……男というわけだ。

「ところで伯爵閣下、預かった二ルイのことで謝らなくてはならないことがあるんです」

「深刻に考えるな。十万エキュ返してくれる立派さと比べたら、四十八リーヴル返すことなど子供騙しみたいなものだ」

「お返しするつもりはありません。僕はただ、この二ルイで何をしたかを伝えるつもりでした。僕にはそれが必要なのだということを、あなたにちゃんと知ってもらいたかったので」

「それなら別だ……つまり金をくれと?」

「そうです……」

「理由は?」

「あなたが先ほど『言葉』と呼んだことをする為です」

「そうか。復讐がしたいのか?」

「復讐をするなら恥ずかしくないようにやりたいんです」

「そうだろうな。だが現実は無慈悲だ」

「その通りです」

「幾ら必要なんだ?」

「二万リーヴルです」

「あの娘に近づくつもりはないんだな?」こう言えばジルベールをはっとさせられると思ったのだ。

「ありません」

「兄には?」

「ありません。父親にも」

「中傷するつもりもないな?」

「もう口を開いてあの人の名前を口にすることはありません」

「わかった……だが女を刺し殺そうと、虚勢を重ねて殺そうと、同じことだ……姿を見せ、後を追い回し、軽蔑と憎悪に満ちた笑いを見せつけて苦しめることで、仕返しするつもりなのだろう」

「ほとんど当たっていません。フランスを離れる気になった時に備えて、お金をかけずに海を渡る方法をお願いしに来たのです」

 バルサモが異を唱えた。

「ジルベール」その声にはとげとげしさと柔らかさが同居していたが、苦しみも喜びも含まれてはいなかった。「ジルベール、その要求は筋が通らんぞ。人に二万リーヴルくれと言っておきながら、その二万リーヴルで船に乗ることは出来ないというのか?」

「それには二つ理由があるんです」

「理由を聞こう」

「一つには、船に乗る日には一銭も持っていないだろうからです。忘れないでいただきたいのは、僕は自分の為に頼んでいるのではなく、あなたが手を貸した過ちを償う為に頼んでいるということです……」

「まだ言うか!」バルサモが口を引きつらせた。

「事実ですから。お金が欲しいのは償う為であって、生活の為でも手すさびの為でもありません。この二万リーヴルのうちの一スーたりとも僕の懐に入ることはありません。このお金にはお金の行き場所があるんです」

「お前の子供か、わかったぞ……」

「ええ、僕の子供なんです」ジルベールは誇らしげに答えた。

「だが、お前はどうする?」

「僕は強いですから。束縛されてもいませんし、智恵もあります。これからも生きてゆきます。生きたいんです!」

「生きるがいい! 寿命を待たずに地上を離れる魂に、天はこれほどに力強い意思を与えはしまい。天は長い冬に立ち向かうのに必要な植物を着せて暖めてくれよう。長い苦難に耐えられるだけの鋼の鎧を心に纏わせてくれよう。だが手元に千リーヴル残せないのには確か二つの理由があると言っていたな。一つ目は心遣いで……」

「二つ目は用心です。フランスを離れる時には、身を潜めることも出来るでしょう……ですが港で船長を見つけ、お金を払う段になれば、そうは行きません――誰だってそうするでしょうね――上手く身を隠せても、自分から姿を見せなくてはならない段になれば、そうは行かないんです」

「つまり、俺なら身を隠す手助けをしてやれると?」

「あなたになら出来ることはわかってます」

「誰がそんなことを?」

「何を仰っているんですか! あなたはこの世のあらゆる武器を収めた武器庫を持たぬ代わりに、超自然を欲しいままに使えるではありませんか。魔術師ならどれだけ自信がなくても、神に頼るようなことはしないはずです」

「ジルベール」不意にバルサモが手を伸ばした。「お前には大胆で向こう見ずなところがある。女のように善でもあり悪でもあり、ふりではなく本心から禁欲的だし誠実だ。いつか立派な男として遇することになりそうだな。俺と一緒にいろ。感謝を忘れるような奴ではあるまい。いいな、ここにいろ。この家に隠れていれば安全だ。もっとも、俺は何か月かしたら欧州を離れるから、その時は一緒に連れて行くことになる」

 ジルベールはうなずいた。

「その時が来たら喜んでお供します。ですが今はこうお返事しなくてはなりません。『ありがとうございます、伯爵閣下。僕のようなつまらない人間にとっては、お申し出は畏れ多いくらいなのですが、残念ながらお断わりいたします』と」

一時いっときだけの復讐と五十年分の未来は釣り合わんぞ?」

「失礼ながら、思いつきや気まぐれが浮かんだ瞬間から、それは僕にとってはこの世の何よりも価値があるのです。それに復讐のほかにもやらねばならないことがあるのです」

「ここに二万リーヴルある」バルサモが即答した。

 ジルベールは二枚の銀行券を手に取り、恩人にじっと目を注いだ。

「こんな施しをして下さるなんて国王にも負けてはいらっしゃいません!」

「勝っている、と思いたいな。何しろ記憶に留めて欲しいとすら願ってはいないんだから」

「そうですね。でも先ほど言われた通り、感謝の気持は忘れていません。目的を達したら、この二万リーヴルはお返しいたします」

「どうやってだ?」

「召使いが主人に二万リーヴル返すのに必要なだけの年月を、あなたの許で働きます」

「また矛盾したことを言っているな。お前はついさっき、この二万リーヴルは俺の罪滅ぼし代わりだ、と言ったばかりではないか」

「確かにそう言いました。ですがあなたには感銘を受けたので」

「そいつはありがたい」バルサモは無表情のまま答えた。「では、俺がそうしろと言えば、言う通りにするんだな?」

「その通りです」

「何が出来る?」

「何も出来ません。ですがあらゆることをする準備はあります」

「そうだな」

「それでもはやり、必要とあらば二時間後にフランスを離れることの出来る手段を手にしておきたいのです」

「ははっ! 脱走兵が一人か」

「戻って来る用意は出来ています」

「こっちも再会する用意は出来ている。ではとっとと終わらせよう。あまり長く話すと疲れっちまう。卓子をこっちに寄こせ」

「はい」

「洋箪笥の上にある箱に入っている紙を取ってくれ」

「はい」

 バルサモは紙を手に取り、そのうちの一枚に書かれた文章を小さく読み上げた。紙には三つの署名――いや、三つの謎めいた文字――が記されている。

 十二月十五日、ル・アーヴルにて、ボストン行き、P・J・ラドニ。

「アメリカのことをどう思う、ジルベール?」

「フランスではないところ。いつかその時が来てフランス以外の何処かの国に海を渡って行くことになれば、これほど嬉しいことはありません」

「結構!……十二月十五日頃。これはお前の言う『その時』だな?」

 ジルベールは指を折って考えた。

「間違いありません」

 バルサモは羽根ペンをつかみ、白い紙に次のような文字を二行だけ書き記した。

 ラドニに乗客を一人乗せてくれ。

  ジョゼフ・バルサモ

「この紙は危険です。ねぐらを探した挙句、バスチーユを見つけることになりかねません」

「頭がいいと馬鹿にも見えるもんだな。ラドニとは商船で、俺が筆頭船主なのだ」

「失礼しました」ジルベールは頭を下げた。「時々頭が働かなくなってしまうのですが、こんなことが何度も続くことはありませんから、お許し下さい。ありったけの感謝の気持を信じて欲しいんです」

「行くんだ、友よ」

「さようなら、伯爵閣下」

「また会おう」バルサモはそう言って背中を向けた。

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