翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 157

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十七章 父なし児

 苦しみの日が、屈辱の日が、近づいていた。ルイ医師が頻繁に通う日数が増えても、フィリップが心を込めて優しく世話を焼いても、最期の刻が迫る死刑囚のように、アンドレは日に日に打ち沈んで行った。

 フィリップは気づいていた。アンドレが時々ぼうっとして震え……両の目が乾いていることに……何日もの間アンドレは一言も口を利かなかった。それが急に立ち上がって、自分自身から逃れようと――苛まれている苦しみから逃れようと――部屋を慌ただしく駆け巡った。

 とうとうある晩、アンドレがいつもより青ざめて感じやすくなっているのを見て、フィリップは医師にその夜のうちに来てもらえるよう遣いを送った。

 十一月二十九日のことだった。フィリップは食事が終わるとアンドレといる時間を出来るだけ引き延ばすことにしていた。辛く悲しい内輪の話を二人で話し合った。だが怪我人が傷を乱暴に触られるのを嫌がるように、アンドレはその話題を嫌がっていた。

 フィリップは灯りのそばに腰を下ろしていた。医師を呼びにヴェルサイユに向かっている女中が鎧戸を閉めるのを忘れていた為に、その灯りが反射して、初冬の寒さで庭の砂を覆っている雪の絨毯を穏やかに照らしていた。

 フィリップはアンドレの心が落ち着く時が来るまで待ってから、何の前触れもなく口を開いた。

「ねえ、心は決まったかい?」

「何について?」ため息は悲痛にまみれていた。

「それは……おまえの子供のことだよ」

 アンドレが身体を震わせた。

「もうすぐだろう?」

「おぞましい!」

「だけど驚かないよ、それが明日でも……」

「明日ですって!」

「今日でもおかしくないだろう」

 アンドレの青ざめ方が尋常ではなかったので、フィリップはぎょっとして、アンドレの手をつかんで口づけした。

 すぐにアンドレは落ち着きを取り戻した。

「お兄様、わたくしは惨めな魂を貶めるようなこうした偽善をお兄様と分かち合うつもりはありません。わたくしにとっては良かろうと悪かろうと偏見は偏見です。善なるものを疑い出してからというもの、悪なるものがわからないのです。ですから、これから申し上げるものの考え方を真面目に聞いていただく気がないのであれば、どうか狂人の言うことだと思ってあまり厳しくお咎めにならないで下さい。これから申し上げるのは、わたくしのたった一つの心そのもの。わたくしの思いをまとめたものです」

「おまえが何を望もうとも、何をしようとも、ぼくにとって誰よりも愛しく誰よりも大切な女であることに変わりはないよ」

「ありがとう、お兄様。お兄様が仰ったことが的を外している、とは申しません。わたくしは母親になります。それでもわたくしは信じております」アンドレは顔を赤らめた。「人間の出産とは植物が実を結ぶのと変わらないものであるべし、と神が望んでいることを――。果実は花の後にしか実りません。植物は花が開いている間に準備をして形を変えるのです。わたくしが思いますに、花、とはつまり、愛に当たるのではないでしょうか」

「その通りだね、アンドレ」

「わたくしは準備も変化もしておりません。畸形なのですわ。愛にも色欲にも溺れたことはなく、身体と同じく心も魂も処女《おとめ》なのですから……それなのに!……ひどい奇蹟!……望んでなどいないのに、思ってさえいないのに、神様から授かったなんて……実をつけぬ木に果実を授けたことなどない神様が……いつそんな事実が? 可能性さえなかったというのに?……子を産む苦しみを味わう母親は、産まれてくる子供のことを知っているというのに、わたくしは何もわからない。考えるだけで恐ろしい。その日が来ることを思っても、死刑台に上る心地しかしないのです……フィリップ、わたくしは呪われているのですわ!……」

「アンドレ!」

「フィリップ……」アンドレが声を荒げた。「この子を憎まずにいられるでしょうか?……無理です。この子が憎い! 生きているうちは毎日、初めてこのおぞましい子を腹に宿した日のことを思い出さずにはいられないでしょう。そして思い出すたびに怖気を震わずにはいられません。無垢な赤ん坊が身動きすれば、母であれば嬉しいはずです。でもわたくしの血は怒りに燃え、これほどまでに汚れのない口唇からも呪詛の言葉が吐き出されることでしょう。フィリップ、わたくしはいい母親にはなれません! わたくしは呪われているんです!」

「アンドレ、頼むから落ち着くんだ。考え過ぎて気持を乱してはいけない。この子はおまえの血肉を分けた生命じゃないか。ぼくはこの子を愛している。だっておまえの子なんだから」

「この子を愛しているですって!」アンドレは怒りに青ざめていた。「よくもわたくしに向かって、わたくしたちの恥を愛していると言えたものですね! こんな犯罪の証拠、卑劣な犯罪者の忘れ形見を愛しているだなんて!……いいわフィリップ、先ほど言った通り、わたくしは臆病でもなければ偽善者でもないんです。この子が憎い。わたくしの子じゃありませんから! こんな子、望んだわけじゃないのですから! この子が呪わしい。きっと父親に似ているに違いないもの……父親!……そんな言葉を口にしたら、いつか死んでしまいそう! ああ神様!」アンドレが床に膝を突いた。「主よ! わたくしには産まれて来る子を殺すことが出来ません。あなたが生命を吹き込んだ子だから……子を宿している限りは自らの命を絶つことも出来ません。あなたが殺人に加えて自殺も禁じたからです。でもどうか、お願いですから、願いを聞いていただけたら、主よ、あなたに正義があるなら――この世の悲しみを気に掛けて下さるなら――このわたくしが恥と涙にまみれて生きた後で絶望のあまり死んでしまうことはないと請け合って下さるなら――どうか主よ、この子をお持ち帰り下さい! この子を殺して下さい! わたくしを救って下さい! わたくしの名誉をお返し下さい!」

 激しい怒りと神がかった力で、アンドレは大理石の角に頭を打ちつけた。フィリップが懸命にしがみついても止めることは適わなかった。

 突然、扉が開いた。女中が医師を連れて戻って来たのだ。医師は一目見て状況を読み取った。

「よいですか」医師は常と変わらぬ冷静な声を出した。それである者は命令に従い、ある者は素直に言うことを聞くようになる。「陣痛が来ても騒ぎ立ててはなりませんよ。間もなくかもしれない……」それから女中に向かい、「馬車の中で伝えたものをすべて用意するように。それからあなたは――」とフィリップに向かい、「妹さん以上に落ち着かねばなりません。一緒になって怯えたり弱気になったりせずに、私と一緒に励ましてあげるのです」

 アンドレが狼狽えたように立ち上がったが、フィリップが椅子に押し戻した。

 アンドレは苦しさに赤らみ、痛みに引きつって倒れ込んだ。握り締めた拳が椅子の縁飾りに触れ、青ざめた口唇から呻き声が洩れた。

「こんな風に苦しんだり倒れたり怒ったりするから発作が進んだのです。部屋に戻っていただけますか、ド・タヴェルネさん、それから……さあ、しっかり!」

 フィリップは胸をふくらませてアンドレに駆け寄った。横たわって胸を上下させていたアンドレが、苦しさに耐えて起き上がり、フィリップの首に両腕を巻きつけた。

 アンドレはがっちりとしがみつき、フィリップの冷たい頬に口唇を押しつけ、囁いた。

「さよなら!……さよなら!……さようなら!……」

「先生! 先生!」フィリップが絶望の叫びをあげた。「聞いて下さい……」

 ルイ医師は優しいながらも断固として二人を引き離し、アンドレを再び椅子に坐らせ、フィリップを部屋に連れて行った。そうしてアンドレの部屋についている錠を掛け、カーテンも扉もすべて閉めて、この部屋に閉じ込めることで、女が医師も無しで、そして二人が神も無しで済まそうとしていた出来事をすっかり覆い隠した。

 午前三時、医師が扉を開けると、その向こうでフィリップが泣きながら祈っていた。

「妹さんは男の子を産みましたよ」

 フィリップが手を合わせた。

「入らないで。今は眠っている」

「眠っている……先生、本当に眠っているのですか?」

「もし違っているのなら、別の言い方をしていますよ。『妹さんは男の子を産みましたが、この子は母を亡くしてしまった……』と。何なら確かめてご覧なさい」

 フィリップは覗いてみて、

「本当だ! 本当です!」と呟いて医師を抱きしめた。

「乳母の用意も出来ていますよ。ポワン=デュ=ジュールを通りがかった際に、そこに住んでいる乳母に、準備しておくように前もって伝えておきましたから……とは言うものの、連れて来るのはあなたでなければなりません。会いに行くのはあなたでなくてはならないのです……妹さんが眠っている間に、私が乗って来た馬車でお出かけなさい」

「先生はどうなさるのです?……」

「ロワイヤル広場に重篤な患者がいて……肋膜炎です……夜の間はそばにいて、薬を与えて結果を確認したいのです」

「冷えますよ……」

「外套がありますから」

「街は安全ではありません」

「この二十年というもの、何度も夜中に襲われましたよ。そのたびに答えて来ました。『私は医者で、病人のところに行くのです……欲しいのは外套ですか? 差し上げます。しかし命は取らないでもらえますか。私がいないと病人が死んでしまうのです』。この外套は二十年間役に立ってくれたのです。追剥ぎたちは取らずにいてくれました」

「先生!……明日でよいでしょうか?」

「明日の八時に参りましょう。では」

 病人のそばで手厚く看護するようにと、医師は女中に指示を出した。医師の気持としては、子供は母のそばにいるべきだったが、フィリップは離してくれるように頼んだ。妹から先ほど見せられた激しい反応を忘れられなかったのだ。

 そこでルイ医師は手ずから赤子を女中部屋に入れ、モントルゲイユ街から抜け出し、その間にフィリップはルール側から辻馬車に乗って出かけた。

 女中はアンドレの傍らで、椅子に坐って眠りに就いた。

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