翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 02-4

 医師とピトゥが家に入って来たのは、アンジェリク伯母が最後にもう一度椅子の周りを回ってお金がはみ出ていないか確かめ、お金を隠している間は閉めていた扉を再び開いた直後であった。

 それは感動的な場面であってもおかしくなかったはずなのだが、ジルベール医師のような観察眼の持ち主には、異様な場面にしか見えなかった。甥の姿を目にするや、老婆は義妹のことを口にして、涙を拭ったように見えた。医師はどういった態度で接するべきか見極めるためにも、老嬢の本心を見たかったので、伯母が甥に果たすべき義務について試しに説教をしてみた。だが話が進み、医師の口唇からねちっこい言葉が洩れるにつれて、老嬢の乾いた目からは濡れていたのも感じられないほどの涙も干上がり、それまでは隠されていた羊皮紙のようなひび割れが顔中に甦り、左手を尖った顎の辺りまで上げ、右手では椅子の貸し出しで年におよそ何スー手に入れたかを指で計算し始めていた。偶然にも計算が終わるのと説教が終わるのが同時だったので、どれだけ義妹を愛していようといかほど甥を気に掛けていようと、これだけの収入しかないのでは、如何に伯母であり名付け親であるという立場だろうとも、余計な出費はまかりならない、と即答した。

 もっとも、医師の方ではこうした拒絶は織り込み済みだったから、驚きもしなかった。新しい思想の信奉者であり、ラヴァーターの著作の第一巻が出版されたばかりということもあって、このチューリヒの思想家の観相学を、アンジェリク嬢の痩せて黄ばんだ顔に当てはめていたのである。

 老嬢の貪欲な目つき、細い鼻、薄い口唇からは、守銭奴、利己主義者、偽善者であることが明らかだった。

 そんなわけだから老嬢の返答にも慌てることはなかった。それどころか、探究者の目から見て、この三つの欠点が何処まで枝を伸ばすのか見てみたいという思いがあった。

「ですが、アンジュ・ピトゥは孤児なんです。それにご兄弟の息子さんではありませんか」

「ようござんすか、ジルベールさん。最低でも一日にあと六スーないと。少なく見積もって、ですよ。この子ならパンを一日一リーヴル【500g】は食べるでしょうからね」

 ピトゥは顔をしかめた。いつも朝食にだけパンを一リーヴル半食べていた。

「それに洗濯するのに石鹸がいりますしね。泥だらけにして来るのを思い出しましたよ」

 実際にその通りだったし、ピトゥがどういった生活を送って来たかを思い返してみれば想像もつこう。しかしながらピトゥの名誉のために言っておくと、汚すよりも破いて来る方が多かったのである。

「へえ、アンジェリクさん。キリスト教徒として慈善を積んでいらっしゃるあなたのような方が、甥である名づけ子のために、そんな見積もりをなさいますか」

「それに服も繕わなくちゃなりませんからね」義妹のマドレーヌが上着の袖やキュロットの膝に継ぎを当てているのを山ほど見ていることを思い出した。

「つまり、甥御さんを預かるつもりはないと……ほかに身寄りのない孤児が伯母の家から追い出されては、他人の家の好意にすがるしかありませんね」

 如何に強欲なアンジェリク嬢といえども、甥を引き取るのを拒んだせいでそんな極端な救いに走られては、自分に憎しみが跳ね返ってくることに気づいた。

「そんな。引き取りましょう」

「おお!」干涸らびていたと思われた心に善意を見出し、医師は喜びの声をあげた。

「ええ、ブール=フォンテーヌの聖アウグスチノ修道会に預けて、平修道士にするつもりです」

 前述のように、医師は哲学者であった。この当時、哲学者という言葉にどのような価値があったかのもご存じの通りである。

 それゆえ、すぐに医師は聖アウグスチノ修道院から子供を取り返すことに決めた。聖アウグスチノ修道会の方でも同じくらい強い気持で哲学者から信徒を奪って来たのだ。

「わかりました」手をポケットの奥に入れ、「自由に出来るお金がないがために甥御さんを他人の手に預けざるを得ないという難しいお立場は重々承知しております。斯くなるうえは甥御さんの養育費をあなたよりも上手く使ってくれる方を見つけるといたしましょう。僕はアメリカに戻らなくてはなりません。その前に甥御さんを指物師か車大工のところに弟子入りさせることにします。選ぶのは本人ですがね。フランスを離れている間にしっかりと成長し、戻って来る頃には立派な職人となっていることでしょう。皆さん助けてくれるはずです。さあおいで、伯母さんに口づけをするんだ。では行こう」

 皆まで言わせずピトゥは伯母に駆け寄り、長い腕を伸ばした。その口づけが二人の間で交わされた永遠の別れの印であることは、ピトゥが口唇を強く押しつけたことからも明らかだった。

 だがお金という言葉と、手をポケットに入れた動きと、その手で鳴らしたエキュ貨の音から推察される金額を裏づける服の突っ張りとを確認して、老嬢の金銭欲が胸に舞い戻った。

「ねえジルベールさん、ご存じじゃありませんか」

「何をです?」

「あたしほどこの子を愛している人なんていないってことですよ!」

 アンジェリク伯母はピトゥが伸ばしていた腕に細い腕を絡め、両頬に口づけをして、ピトゥをすっかり震え上がらせた。

「もちろん存じておりますとも。あなたの愛情を疑ったことなどありません。だからこそ頼りになるあなたのところに真っ直ぐ連れて来たのです。しかしお話を聞いて、善意はあるがそれを実行する手だてがないことはわかりました。ご自身以上に貧しい者を助ける余裕がないほどに貧しいのですね」

「ねえジルベールさん、神は天におわすんじゃないんですか? 天は生けとし生けるものを養って下さるんじゃないんですか?」

「そうは言うものの、鳥に餌を与えてはくれても、孤児を徒弟にしてはくれません。だからこそ、あなたの財産を鑑みれば高額に過ぎるであろう金額を、アンジュ・ピトゥのために費やしていただかなくてはならないんです」

「それですけどねえ、そのお金をいただけたら……?」

「そのお金とは?」

「先生がお話ししていた、ポケットの中のお金ですよ」老嬢は茶色い服の裾に曲がった指の先を向けた。

「間違いなくお渡しいたしますよ、アンジェリクさん。ただし、一つ条件があります」

「何ですかね?」

「この子が仕事に就いていることです」

「ようござんすよ。アンジェリク・ピトゥの名に懸けて、約束いたしました」と言っている間も、揺れるポケットから目を離さずにいた。

「約束ですね?」

「約束いたします」

「絶対にですね?」

「神掛けて! ジルベールさん、誓いますとも」

 老嬢はそう言って痩せた手を差し出した。

「わかりました!」ジルベール医師がポケットからぱんぱんになった袋を取り出した。「この通り、お金の用意はして来ました。そちらもこの子を預かる用意は出来ていらっしゃいますね?」

「十字架に懸けて!」

「誓うまでもありませんよ。署名をいたしましょう」

「署名いたしますよ、ジルベールさん」

「公証人の前で?」

「公証人の前で」

「ではニゲ先生《せんせ》のところに行きましょう」

 長いつきあいのおかげで親しみを込めて医師からニゲせんせと呼ばれているこの人物、『ジョゼフ・バルサモ』の愛読者の方ならご存じの通り、村で評判の公証人であった。

 ニゲ氏はアンジェリク嬢の公証人でもあったので、医師の人選に否やはなかった。そこで言われた通りに事務所までついて行った。公証人はローズ=アンジェリク・ピトゥ嬢の約束を記録した。即ち甥のルイ=アンジュ・ピトゥを預かり、職に就けさせることを条件に、年に二百リーヴルを与えるという約束である。契約は五年間。医師は公証人に八百リーヴル預け、二百リーヴルは前払いで支払った。

 翌日、医師はヴィレル=コトレを去った。出立前に農夫の一人と金銭上の取り決めを終え、この農夫については後述する。前払いされた二百リーヴルに禿鷹《コンドル》のように飛びかかったピトゥ嬢は、椅子にルイ金貨を八枚継ぎ足した。

 残りの八リーヴル【8 louis d'or = 192 livres】については、三、四十年にわたって様々な小銭の往き来を見て来た陶器の小皿の中で、日曜日が二、三回来てお金が集まり二十四リーヴルに達するのを待っていた。前述した通り、二十四リーヴルになれば金貨に替えられ小皿から椅子に移動していたのである。

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コメント

東様

こんにちは。アンジェリク伯母さんの人の悪さもすでに初めから炸裂していたのですね・・・(笑)。そして英訳版ではアンジェリカってなっていて、名前は原語のままにしてほしいって思ってしまいました。

そして、ピトゥの名前、ルイ・アンジュだったんですね!!

そして章の件、ありがとうございました。じゃあ『ジョゼフ・バルサモ』は『王妃の首飾り』の1.5倍くらいと考えておけばいいですね。多分同じくらいかそれ以上かなという感じはしたんです。読んだ感触的に。

『ブラジュロンヌ子爵』、そんなに長かったんですね!道理で6巻ある訳ですね。

amazonで本のページ数を調べようとしても結局どれが正しいバージョンなのかがわからないので、結局のところよくわからないってことが今回購入に当たって実感したことなので。

ピトゥがあまりにもいい人過ぎるので、彼は一体・・・と思い始めているので、彼の生い立ちが知れるのはとてもうれしいです。

では、取り急ぎお礼まで。
【2013/01/20 09:53】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
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