翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 04-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「不純な行為は悪徳の母なんだよ」アンジェリク嬢は格言でも引用するように遮ってみせた。

「伯母さん、もっかい言いますけど、いけないことをしてたから追い出されたんじゃないんです。文法が滅茶苦茶だったうえに、言い間違いも多かったから、奨学金を手に入れる見込みを自分から手放してしまったようなものなんです」

「見込みがパーだって? じゃあ奨学金はもらえないのかい? 神父にはなれないのかい? あたしは家政婦にはなれないのかい?」

「ごめんなさい、伯母さん!」

「それじゃあ将来いったい何になるつもりだい?」

「わかりません」ピトゥは絶望的な仕種で天を仰いだ。「どうすれば神の御心に適うんでしょうか?」

「神様だって? それならわかってるよ。混乱させて、新しい考えを吹き込み、哲学の原理を教え込めばいいのさ」

「そんなの無理です。修辞学を習ってからじゃないと、哲学学級には入れないし、第三学年から上には行けたことがありませんから」

「馬鹿をお言いでないよ。あたしの言っている哲学ってのは、哲学者の哲学のことさ。ムッシュー・アルエの哲学、ムッシュー・ジャン=ジャックの哲学、『修道女』を書いたムッシュー・ディドロの哲学のことだよ」

 そう言ってアンジェリク嬢は十字を切った。

「『修道女』ですか?」

「読んだかい?」

「読んでるわけないじゃないですか!」

「だから教会が嫌なんだね」

「そうじゃなくて、教会がボクを嫌ってるんです」

「やっぱりこの子は蛇だよ。口答えしちゃって、まあ」

「口答えじゃなくて、返事をしただけです」

「終わったねえ!」アンジェリク嬢は嘆きをあげ、例の椅子にくずおれた。

 なるほど『ピトゥが』終わってしまえば、それはそのままアンジェリク嬢自身が終わったことを意味する。

 一刻一秒を争う。アンジェリク伯母は決断を下した。足にバネがついてでもいるように勢いよく立ち上がり、フォルチエ神父に会いに走り出した。説明を求めるためと、なかんずく差し向かいで説得を試みるためだ。

 伯母が玄関から出て見えなくなったため、ピトゥが玄関に出てみると、ソワッソン街に向かってがむしゃらに突進している伯母が見えた。それを見て、伯母が何をしたいのかがピトゥにもわかった。先生のところに行くのだ。

 これで十五分、静かな時間が出来た。有効利用しなくては……これぞ神が与え給うた十五分だ。蜥蜴の餌にするために伯母の昼食の残りをかき集め、蟻と蛙に食べさせるために蠅を二、三匹捕まえた。次に長持と戸棚を開けて、いそいそと自分の分の食事を取った。一人になった途端に食欲が舞い戻って来たのだ。

 それが終わるとピトゥは戸口に戻り、第二の母が戻って来て驚かされないように、見張りを再開した。

 第二の母とはアンジェリク嬢が自ら名乗った呼び名である。

 ピトゥが見張りを続けている間に、一人の少女がプリューの外れを通りかかった。そこはソワッソン街の端とロルメ街の端を結んでいる路地に通じている。少女は二つの籠を背負った馬に跨っていた。籠の一つには鶏肉が、もう一つには鳩が詰まっている。カトリーヌだった。アンジェリク嬢の家の戸口にピトゥがいるのを見つけて馬を止めた。

 ピトゥはいつものように真っ赤になって、口をぽかんと開けたまま、見つめていた――言い換えるならば、見とれていた。何となればビヨ嬢こそがピトゥにとって人類最高の美の化身だったのである。

 ビヨ嬢は通りに目をやり、頭を軽く下げてピトゥに挨拶すると、そのまま先に進んで行った。

 ピトゥは喜びに震えながら挨拶を返した。

 演じられたのはささやかな場面であったが、経過したのはそれなりの時間であった。ピトゥは我を忘れてカトリーヌ嬢のいた場所を見つめ続けていたために、アンジェリク伯母がフォルチエ神父のところから戻って来たことに気づかなかった。怒りに青ざめた伯母に手をつかまれて初めて気づいたのだった。

 アンジュは瞬く間に麗しい夢から覚めた。アンジェリク嬢に触れられるたびに、いつも決まって電気を流されたような衝撃に打たれた。振り返ったピトゥは、青筋を立てている伯母の顔から目を移して自分の手を見つめ、恐怖におののいた。手にはパンの半切れがあり、二つに重ねた新鮮なバターと白いチーズがたっぷりと塗られているではないか。

 アンジェリク嬢の罵声が飛ぶや、ピトゥは怯えた声を出した。アンジェリク嬢の歪んだ手が上がるのを見て、ピトゥは頭を低くした。アンジェリク嬢がそばにあった箒の柄をつかむと、ピトゥはパンを落として言い訳もせず一目散に逃げ出した。

 こうして今しがた二人とも互いの気持を理解した。二人の間には何物をも存在し得ないことはよくわかっていた。

 アンジェリク嬢は家に戻って扉を閉め、しっかりと錠を掛けた。錠の軋りが嵐のような音を立てる。ピトゥはそれを聞いて恐ろしい思いをいっそう募らせた。

 こうしてこの場面から導き出されたのは、アンジェリク嬢が極めて遠くまで先を見通せるのに対して、ピトゥは先を読むことが出来ない、という結論である。


 第五章に続く。

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コメント

マトリョーシカさま

 >まんま「ヴァントル・ド・ビッシュ!」って書いて
 ああ、そうだったんですね(^^ 。まったく覚えていませんでした。

 それにしても『45人組』ですか! これでようやく三部作が日本語に――。完成楽しみにしてます。お互いがんばりましょう。
【2013/03/23 09:23】 URL | 東 照《あずま・てる》 #-[ 編集]
東様

こんにちは。
今日のUPしてくださった内容を読んで、5章の展開がちょっと想像できました。きっとあれだな!と(笑)。(『シャルニー伯爵夫人』にその片鱗が出てきていたんです(笑)。)なので、次週も期待しております(≧▽≦)!

『モンソローの奥方』は私も内容をさっぱり覚えていなくって、今回『四十五人』を読むにあたって取り寄せたんです。それで知った次第です。一番最初に「ventre de biche」が出て来た時に一応「ちくしょうのようなガスコーニュ地方の罵倒語」であることの説明はあったんですが(前回のコメントはそれを読み飛ばして書いてしまいました。)、シコの口癖として何度も出てくるので、その度に「ヴァンドル・ド・ビッシュ!」って書いてあるんです。きっとこの方なら、先日お伺いした「cap de Bious」も「parfandious」もそのまんま記述してしまうことでしょう(苦笑)。その後も『四十五人』には続々と似たような罵倒表現が出てきていて、「もういい・・・」って思って、スルーしてます(笑)。

上述の通り『モンソローの奥方』については私は全く記憶がないので、『モンソローの奥方』に既出だった人物についてはちょっと拾い読みし直さないとダメかなと思いました。

『シャルニー伯爵夫人』は前段の話を読んでいたので、自分の中で人物像とあの小説の世界観が出来上がっていたこともあり、問題なく読めましたが、『四十五人』は予備知識がまるでなかったので、本当に読めるのか、かなり心配でした。

ところが不思議なことに日本語で読んだ『モンソローの奥方』はさっぱり面白くなかったんですが、『四十五人』は現在とても面白く読めています。しかも英語なのに!何と言うのかデュマらしい個性的な登場人物がわんさか出てきているので、うまいこと脳内変換ができています。自分でも今後の展開が楽しみだ!と思っています。

ただ「vantre de biche」の件でチラ読みした時に、今自分が日本語に置き換える作業をしているため、こういう表現になる理由がよくわかる(=固い文章になる)ということは共感できました(苦笑)。でもそこは個人で翻訳しているのと販売しているのの差がありますから、後者には文句を言いたくなるんですよね(笑)。いや、今なら普通に読めるのかもしれません(苦笑)。
【2013/03/23 11:26】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
東様

またまた質問させてください。
実は『四十五人』を読書中、なぜか6行分空白なページがあり、欠落しているのか?と思い、ネットでテキスト検索をしてみたのです。『四十五人』を読み進めている間色々なことを調べて、英語のテキストがネットに掲載されていたのを知ったので、google検索を掛けたのです。私の気になっていたところは特に欠落ではないことがわかったのですが、別なことに驚いたんです。

というのも大抵のテキストは現在私が読んでいるものと同じものと思われたのですが、1つだけ、カナダのトロント大学の図書館にある蔵書をPDF化したものがあって、それには私が今読んでいる本にはない章が3つもあったんです。更に同じ章でもちらっと見たところでは、私が読んでいる本にはない表記が盛り込まれていたのです。表現の仕方と言うのではなく、明らかに叙述している文章が多かったのです。(私の読んでいる本はその文章が欠落している状態です。)

外国の翻訳事情として、こんな省略ってありえるのでしょうか?結局今私が読んでいる『四十五人』も完全版とは言えないようだと感じています。日本の翻訳小説は完全小説だとばかり思っていたのですが、そんなこともないのでしょうか?

その辺りご存知でしたら、教えてください。
よろしくお願いいたします。

また別なサイトには1分420ワードが平均スピードで、一日4時間読書に専念できれば二日で読了できるとあったんですが、『四十五人』は『王妃の首飾り』より3万語も多く、『王妃の首飾り』の日本の翻訳版は創元文庫で1200ページ超えを思うと、2日じゃ読めないと思うんだけど・・・って思ってしまいました。やっぱり外国語ってネイティヴにとって読むのが楽なのですかね?日本人が日本語の本を読む以上に。
【2013/03/26 23:49】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
マトリョーシカさま

 各国の翻訳事情のことは詳しくなく、自分の経験からしかお話しできないのですが、
少なくとも『ジョゼフ・バルサモ』を訳す際に参照した英訳は、複数の章を一つにまとめたり、章や段落を端折ったりは当たり前でした。『アンジュ・ピトゥ』英訳にもカットされている箇所が少なからずあります。
 そもそもデュマ自身が『ハムレット』を仏訳したものを読むと、冒頭をまるまるカットしたり、結末を変えたりしていましたし。(これは演出の範疇?)
 チェスタトンを訳す際に意味の取りづらいところを確認したくて仏訳を参照したら、その部分が省かれていた、ということもありました。(仏訳者もその難文にはお手上げだったのでしょうか。。。)
 翻訳どころか同じ英語でもイギリス版にはあるのにアメリカ版では省かれている箇所があったりもしました。

 以上のことから、何となくですが、あちらの翻訳はわりとアバウトなのかな、と感じております。

 『四十五人組』、わたしも確認してみましたが、
フランス語版だと全91章のようですね。対してわたしが見つけた英訳版は全90章でした。
付き合わせてみると、第16章がカットされている模様です。
ざっと見たかぎりでは作者が出張って来て物語について解説している感じの内容でした。

 一方日本の翻訳事情ですが、
こちらも個人的な印象の話になってしまいますが、
日本では最近のものだとさすがに完訳が基本だと思います。
何らかの理由で抄訳される場合はその旨ひとこと書かれてあるのではないでしょうか。
ただ、まえがき等は断りなく省かれることもある、という印象です。
 「最近のものだと」と書いて気づきましたが、
デュマの英訳だと翻訳自体が古い可能性もありますよね。
何十年も前なら日本でも抄訳がいくつもあったでしょうし。

翻訳者の方が書いたエッセイや対談が実家にあるので、
読み返してみたらもっとはっきりしたことが何かわかるかもしれません。


 読書スピードのお話が気になったので検索してみたところ、
http://www.eikaiwanopl.jp/information/nazemuzukashi/listenread.html や
http://www.pc-sokudoku.co.jp/kouza/list_e.html を信じるかぎりでは、
日本人の英語読書スピード100語/分、ネイティブ200~250語/分、とあるので、
420語/分はネイティブでもかなり早い部類に入るのではないでしょうか。
【2013/03/30 13:25】 URL | 東 照《あずま・てる》 #-[ 編集]
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