翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 05-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第五章 農場の哲学者

 ピトゥは悪魔の集団に追いかけられでもしたように全速力で走り、あれよという間に村の外れにいた。

 墓地の角を曲がると、馬の尻に顔を突っ込みそうになった。

「危ない!」聞き慣れた甘い声がした。「そんなに急いで何処に行くの、アンジュさん? カデが昂奮しちゃうじゃない。驚かさないでよ」

「カトリーヌさん!」問いかけに応えたのではなく、自分に向かって口にした一言だった。「カトリーヌさんだ、何てこった!」

「何なの?」カトリーヌは道の真ん中で馬を止めた。「どうしたの、アンジュさん?」

「実は……」ピトゥは罪でも打ち明けるように答えた。「神父にはなれなくなったんです」

 だがピトゥの予想に違い、ビヨ嬢はけたたましく笑い出した。

「神父になれないですって?」

「ええ。駄目みたいです」ピトゥは力なく答えた。

「だったら軍人になればいい」

「軍人に?」

「ええ。つまらないことにくよくよするもんじゃないわ。伯母さまが急死なさったのかと思っちゃったじゃない」

「はぁ」というその一言に胸の裡が込められていた。「死んじゃったのと一緒です。伯母のところを追い出されてしまったんですから」

「ごめんね」ビヨットはなおも笑っていた。「伯母さまを悼んであげられるほど余裕がないのね」

 カトリーヌがいっそう声をあげて笑いこけたのが、ピトゥの癇に障った。

「追い出されたって言ったじゃないですか!」

「あらよかった!」

「そんなふうに笑ってられるなんてうらやましいですよ、ビヨさん。それも長所ですよね。他人が悲しんでいるのを見ても何にも感じないなんて」

「本当に悲しいことが起こったのなら、気の毒に思うに決まってるでしょう?」

「同情してくれるって言うんですか? でもあなたは知らないんだ。ボクにはもう何にもないんです!」

「なおいいわ!」

 ピトゥはもう何が何だかわからなくなっていた。

「それにご飯も! 食べなくちゃやってけません。いつもお腹がぺこぺこなんですから」

「働くつもりはないの、ピトゥさん?」

「何をして働くっていうんですか? フォルチエ神父とアンジェリク伯母さんに嫌というほど言われましたけど、ボクには何にもいいところがないんです。神父にさせようとなんかしないで、家具屋さんや車大工さんのところで見習いさせてくれていたらよかったのに! きっと呪われているんでしょうね」ピトゥは絶望に喘いだ。

「可哀相!」カトリーヌは同情的だった。この辺りでピトゥの哀れむべき事情を知らぬ者などいなかったのだ。「アンジュさん、あなたの言い分ももっともだけど……一つ忘れてない?」

「何をですか?」溺れた人間が柳の枝にすがりつくように、ピトゥはビヨ嬢の言葉にすがりついた。「教えて下さい」

「後見人がいらっしゃるじゃない」

「ジルベール医師せんせいですか?」

「息子さんとお友達だったんでしょう。二人ともフォルチエ神父のところで教わっていたんだから」

「そうですよ。それどころか、いじめられているところを助けてあげたことも何度もありました」

「ねえ、だったらどうしてお父様に知らせないの? 絶対に何とかしてくれるはずよ」

「今どうしているのか知っていればそうしてます。でもビヨさんのお父さんなら知っているかもしれませんね。ジルベール先生は地主なんですから」

「アメリカで小作料の一部をパパに渡して、残りをパリの公証人に預けていたと聞いたっけ」

 ピトゥはため息をついた。「アメリカか……何て遠いんだろう」

「アメリカに行くつもり?」ピトゥの考えを察してはっとした声をあげた。

「ボクが? まさか! 行き場と食べる手だてさえわかれば、フランスで楽しく暮らせるのに」

「楽しく?」ビヨ嬢が繰り返した。

 ピトゥは目を伏せた。ビヨ嬢が言葉を継がなかったため、沈黙がしばらく続いた。ピトゥは考えに耽っていた。論理の人たるフォルチエ神父がそれを見たらば驚いたに違いあるまい。

 一つ曖昧な点があるのを明らかにしようと考えに耽った結果、霧は晴れた。と思ったそばから、雲に覆われた。如何に光が輝いていようとも、稲妻の出ずる来し方が見えず、その源流の何処いずことも知れぬが如く。

 ところがカデがゆるりと歩き始めたため、ピトゥも籠に手を置いたままカデに併行し出していた。カトリーヌ嬢もまた考えに耽り始めていたのである。カトリーヌ嬢は馬が暴れる可能性を一顧だにせず、手綱をゆるめていた。もっとも、路上に怪物などいるはずもなく、カデの血筋はヒッポリュトスの馬とは何の繋がりもない。

 馬が止まるとピトゥも止まる。気づけば農場に着いていた。

「おや、おまえさんか、ピトゥ!」雄々しい立ち姿の猪首の男が声をあげた。水たまりで馬に水を飲ませている。

「ええボクです、ビヨさん」

「ピトゥさんが困ってるの」カトリーヌが馬から飛び降りた。ペチコートがめくれ、ガーターの色が見えようともお構いなしだ。「伯母さまに追い出されちゃったんだって」

「あの業突張りに何をしたってんだ?」

「ギリシア語があまり得意じゃなかったからだと思います」とピトゥが言った。

 愚かなるかな見栄なるものは! ラテン語が、というべきであったのに。

「ギリシア語が苦手だ?」肩幅の広いビヨ氏がたずねた。「どうしてギリシア語に強くなりたいんだ?」

「テオクリトスを理解して、イリアスを読みたいからです」

「それが何の役に立つ?」

「神父になるためです」

「おいおい。俺はギリシア語が出来るか? ラテン語が出来るか? フランス語が出来るか? 読み書きが出来るか? 出来ないからと言って、種蒔きや収穫や蔵入れするのに困ることがあるか?」

「ありませんけど、ビヨさんは神父じゃなくて、農夫じゃありませんか。ウェルギリウスが言うような、agricola農夫なんです。Ô fortunatos nimium何と幸いなるかな……」

「百姓が坊主より劣っているとでも? だったらそう言っとくんな、小坊主! 外に出れば六十アルパンの土地、家に入れば千ルイの金を持っていてもか?」

「神父であるにくはなし、って散々言われましたけど」ピトゥはとっておきの笑顔を見せた。「言われたことをすっかり忘れてしまうのも得意ですから」

「おまえさんは間違ってないさ。俺だってその気になれば詩も書けるんだ。神父より向いていることがあるんじゃないのか。どのみちこの時期なら神父にならないのは好都合だ。百姓の経験から言わせてもらうと、神父でいるには風向きが良くない」

「風向きが?」

「ああ、嵐が来る。嘘は言わん。おまえさんは正直で、頭もいい……」

 ピトゥは深々とお辞儀をした。頭がいいなどと褒められたのは生まれて初めてだ。

「だから神父にならずとも暮らしていけるさ」

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コメント

東様

この章からいよいよビヨの登場ですね(≧▽≦)!ビヨがいかにしてあのような人物になったのかが語られていくのだと思うので、とっても楽しみです!!

さて、翻訳事情の件、本当にありがとうございました。いつもありがとうございます<(_ _)>。

今読んでいる本は基本固有名詞は仏語表示になっているので安心していたのですが、実は昨日登場人物の年齢について検索をしていた時に、デュマが創作した登場人物の一人の名前だけが原書と違っていたことが分かったり、デペルノン公爵の名前が英訳版ではラヴァレットと続きになっているのに、本当はラ・ヴァレットだったってことが判明したり、アンリ3世の王妃のルイーズ・ド・ロレーヌの名前が英訳版ではトレーヌになっていたりと、何だかこの英訳版結構怪しいと思い始めました・・・(汗)(それで昨日登場人物名を原書でチェックしてしまいました。)

私が見た完全版と思われる英訳版は92章ありました。これがカナダのトロント大学の図書館の蔵書らしく、1965年8月23日のハンコが押してありますので、翻訳はその前ですから、かなり古い本と思われます。確かにこの本の英語はとっても読みにくいです。ただ、今日仏語の原書を見ていた時に「この内容は私が読んでいる英訳版にはないぞ!」と思ったところが、この英訳版にはあったので、これは原書からの完全版かなと思っています。(この本はロンドンの出版社から出版されたものでした。私が読んでいるのはアメリカの出版社が2006年に出版したものです。)せっかく読むんだから完全版で読みたかったのに、抄訳だったことを知り、ものすごくショックを受けています・・・(ToT)。とりあえずは今の本を読んでから、このトロント大学の蔵書を見て、内容をつけたそうかなと思っています。

それにしても海外の翻訳って本当にアバウトなんですね・・・今私が読んでいる本がどうも『四十五人』では一般的な本のようなので、英語を話す人たちはこの内容でしか知らないんですよね。まあ確かに日本語に翻訳されている小説も知らなかったら、そういう内容だと思ってしまうのと同じでしょうが、こんな省略があるとは思わず、衝撃でした。完全翻訳が基本だと思っていたので。確かに『シャルニー伯爵夫人』の英訳版を購入する時も出版社によって長さが違っていて、一体どれが完全版なのかわからない状態でした。なので、今回はページ数が多いぞって思ったもので新しいものを選んでみたのですが、こんな落とし穴があったとは・・・です。ちなみに東様ご指摘の欠落の章をこのトロント大学版で読んだのですが、なぜ省略したかわからんって感じでした。タイトルをご覧になったかと思いますが、読者は基本『モンソローの奥方』を読んでいるので、まさにこれがないとどういうこと?って思いますよね。それを削除している意味わからんって感じでした。そしてその件の人物が家を持っているのですが、この省略された章に家を買ったことが書かれていて、私はそれを知らずに読んでいたので、「何でこの人、こんなところに家を持っているの?」って思っていたんです。多分読者はみんな思うはずなんですが、外国人は思わないんでしょうか・・・?(苦笑)

『ジョゼフ・バルサモ』もそんなことになっていたのですね・・・そう思うと『シャルニー伯爵夫人』も相当怪しいですね(苦笑)。

ちなみに私が今読んでいる『四十五人』はこのテキストと同じと思われます。そしてここに420ワード/分のことが書いてあったのです。
http://www.readcentral.com/book/Alexandre-Dumas-Pere/Read-The-Forty-Five-Guardsmen-Online
外国人でも速読なことがわかり安心しました(笑)。

余談ですが、実在の登場人物検索をしていた際に、『モンソローの奥方』のビュッシィ・ダンボワーズが実在の人物だったことを知り、驚きました!『モンソローの奥方』、面白くなかったので、読書中は全然気に留めていなかったんですが(苦笑)、今更実際にあった話を基にしていた話だったことを知って、興味深くなってきました(笑)。モンソロー伯爵にあたる人もディアーヌにあたる人も本当にいたんですね・・・ビュッシィ・ダンボワーズの最期も本当の出来事だったんですね・・・あとがきにはそういうことを書いて欲しかった・・・って思いました。それ知ってて読むのと読まないのとでは全然違うので。今更ながら彼の最期にかなり衝撃を受けてしまいました。
【2013/03/30 20:05】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
マトリョーシカさま

> 私が見た完全版と思われる英訳版は92章ありました。

 気になったのでわたしも探して見ました。なぜか第49章が二つもあるんですね。目次では「continued」となっていますが、本文の内容は第50章。謎です。もともと二巻本だったのを一冊にするときに間違えでもしたのでしょうか。こんなこともあるんですね。

> 『モンソローの奥方』のビュッシィ・ダンボワーズが実在の人物だったことを知り、驚きました!

 そうなんですよね。デュマの出世作である戯曲『アンリ三世とその宮廷』を読んだら、それにもビュッシーが出てきて、しかも『モンソローの奥方』で描かれていたモンソロー夫妻&ビュッシーの関係をそのままスライドして、『アンリ…』ではギーズ公夫妻&サン=メグランに重ね合わせているらしく、よっぽどビュッシーのエピソードが好きなのかと感じたものです。

 SFマガジンで連載されている明治時代のヴェルヌ翻訳についてのエッセイを読んでいたら、地球空洞説に触れた著作として、デュマの『イサク・ラケデーム(Isaac Laquedem)』の名が挙げられていました。こちらは邦訳はないようですが、どんな話なのか気になります。
【2013/04/02 09:35】 URL | 東 照《あずま・てる》 #-[ 編集]
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