翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 05-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「おまえさんは財産だよ」農夫ビヨがからからと笑い出した。

 これほど高い評価を受けたのは初めてだったので、ピトゥはいよいよ驚きに打たれてしまった。

「さて、働くのは嫌いか?」

「どんな仕事でしょうか?」

「仕事全般だ」

「働いたことがないので、よくわかりません」

 ビヨ嬢が笑い出したが、ビヨ氏の方は真剣だった。

「坊主どもと来たら!」町に向かって拳を突き出し、「怠け者と役立たずばかり育て上げているじゃないか。なあ、そんな小僧が兄弟たちに善を施すことが出来ると思うか?」

「たいしたことは出来ないでしょうね。ボクには兄弟がいなくてよかったですけど」

「人類という意味で兄弟という言葉を使ったんだ。まさか人類みなが兄弟ではないと言うつもりか?」

「まさか。聖書に書いてありますし」

「では平等だと思うか?」

「それは別です。だってフォルチエ神父と平等だったら、鞭やヘラでぶたれたりはしなかったでしょうし、伯母さんと平等だったら、追い出されたりもしなかったでしょうから」

「人間はみな平等なのさ。いずれ王様たちにそいつをわからせてやるんだ」

「君主たちに!」

「その証拠に、俺の家に来るといい」

「あなたの家にですか! からかっているんじゃありませんよね?」

「もちろんだ。必要なものは?」

「パンを一日三リーヴル」

「パンには何もつけないのか?」

「バターとチーズを少し」

「そりゃあいい。銭のかからない坊主だ」

「ピトゥさん、パパにほかのお願い事はないの?」

「ボクが? ありませんよ!」

「だったらどうしってここに来たの?」

「あなたが連れて来たんじゃないですか」

「親切でしょう? でもお礼は受け取らないことにしているの。保護者の方がどうしているかパパにたずねに来たんじゃなかったの?」

「あっ、そうだ。馬鹿だな、すっかり忘れてました」

「あのジルベールさんのことを聞きたいって?」ビヨ氏の声からは、地主に対する深い敬意が窺えた。

「ええ。でも今はいいです。ビヨさんが家に置いて下さるなら、アメリカから戻るまでじっと待っていればいいですから」

「そういうことなら長く待つ必要はないな。帰っていらしてるぞ」

「えっ! いつですか?」

「詳しくはわからんが、一週間前ならル・アーヴルにいた。俺の革袋の中にある小包はジルベールさんからもらったんだ。帰国した時に送ってくれたのが、ちょうど今朝ヴィレル=コトレに届いたんだ。嘘だと思ったら見てみるといい」

「これがジルベールさんからだって誰から聞いたの、パパ?」

「何言ってやがる! 手紙が入ってたんだよ」

「ごめんなさい」カトリーヌは笑顔で謝った。「でもパパは字が読めないでしょう。そう言って自慢してたじゃない」

「ああそうさ! 『ビヨの親父は人に頼るような男じゃない。教師にだって頼らない。自分の運命は自分で切り開いたんだ、ビヨって奴は』と言われたいからな!手紙を読んだのは俺じゃない。騎兵隊の伍長さんに会ったんでな」

「それで、手紙には何て書いてあったの? 悪い内容じゃなかったんでしょう?」

「自分で確かめな」

 ビヨ氏は革の鞄から手紙を取り出して娘に手渡した。

 カトリーヌが読んだのは以下の内容であった。

 

『親愛なるビヨ様

 僕はアメリカに来ました。ここには僕らよりも豊かな人たち、立派な人たち、幸せな人たちがいます。この国の人々は自由なんです。僕らとは違う。それでも僕らも歩き続けます。新時代に向かって。一人一人が努力して、一日でも早く光の輝く日を招かなくてはなりません。僕はビヨさんの主義思想を知っていますし、ビヨさんが同業の農場主の方々に影響力を持っているのも、あなたの下で働く素晴らしい人夫や作男の方々に影響力を持っているのも存じ上げています。それも国王のものとは違い、父親のような影響力です。あなたがご存じの献身と友愛の思想を是非とも皆さんにご教授なさって下さい。哲学は誰のものでもありません。人間であれば誰であろうと、哲学の光に照らされて、自分たちの権利や義務を読まなくてはなりません。その義務と権利のすべてが書かれた本をお送りいたします。表紙に名前こそありませんが、この本は僕が書いたものです。どうかこの思想を広めて下さい。全世界が平等であるという思想です。冬の夜長に声に出して読んでもらって下さい。本を読むことは精神の糧になります。パンが肉体の糧となるように。

 近いうちにお伺いして、アメリカで用いられている新しい形の小作法をお伝えいたします。農夫と地主の間で収穫を分け合うというものです。これは僕には社会本来の原理に則っているように思えます。さらに言えば、神の御心に則っているのではないでしょうか。

 愛と親しみを込めて。

 オノレ・ジルベール、フィラデルフィア市民』

 

「凄い! 何て感動的な手紙なんだろう」ピトゥが洩らした。

「だろう?」

「そうね。でもパパ、騎兵隊長も同意見かしら?」

「何だと?」

「この手紙のせいでジルベール医師せんせいだけじゃなく、パパも危険に巻き込まれかねないと思わない?」

「馬鹿だな、怖がりめ。ここに本があることに変わりはあるまい。そしてこれがおまえさんの仕事だ、ピトゥ。夜にはこれを読んでくれ」

「日中は?」

「日中は羊と牝牛の番をしてくれ。ほら、本だ」

 ビヨ氏は革袋から赤い表紙の本を取り出した。当局の許可があるかないかは別にして、当時はこのように幾多の本が出版されていた。

 ただし許可がない場合には、その本の著者はガレー船行きの危険にさらされていた。

「題名を読んでくれ、ピトゥ。中身を読む前に題名を知りたい。残りは後で読んでくれるか」

 ピトゥは扉に書かれた文字を読んだ。将来に於いては取るに足らない使われ方に過ぎぬが、当時に於いてはありとあらゆる人の心に訴えかける言葉であった。

「人間の独立と国民の自由」

「どう思う、ピトゥ?」

「独立と自由とは同じ意味だと思います。こんな同義反復をしていたら、フォルチエ神父に教室から追い出されてしまいます」

「同義反復かどうかはさておき、この本は人間の本だということだな」

「そんなことはいいから、パパ、その本を隠して」素晴らしきは女の勘というべきであろう。「悪いことが起きそうな気がするの。その本を見ているだけで怖くなる」

「著者に悪いことが起きていないのに、どうして俺に起こるんだ?」

「わからないの、パパ? この手紙が書かれたのは一週間前。ル・アーヴルからここに届くのに一週間もかからないでしょう。あたしも今朝手紙を受け取ったの」

「誰から?」

「セバスチャン・ジルベールもあたしたちに手紙を書いていたの。乳母子のピトゥ宛てに言伝を頼まれていたっけ。すっかり忘れてた」

「内容は?」

「三日前からお父様を待っていて、もう着いているはずなのに、いまだに来てないって」

「お嬢さんの言うことはもっともです」ピトゥも続けた。「遅れているのには嫌な予感がします」

「怖がってぐだぐだ言わずに、先生の本を読みな。そうすれば学者はもちろん人間にもなれる」

 当時の人間が斯かる言い方をしたのにはわけがある。当時のフランス国民はまだギリシアとローマが築いた歴史の幕開けに居合わせたに過ぎず、これから十年をかけてその大いなる歴史を模倣してゆくことになる。忠誠、追放、勝利、隷属という言葉で表されるその歴史を。

 本を抱えたピトゥの態度が厳かだったのが、ビヨ氏の心を打った。

「飯は食ったか?」

「いいえ、ビヨさん」ピトゥは本を受け取ってからの英雄然とした厳粛な態度を崩さずに答えた。

「ちょうどご飯の時間に追い出されちゃったんだよね」カトリーヌも言葉を添えた。

「よし、だったらかみさんに用意してもらえ。明日から仕事に入れよ」

 ピトゥはビヨ氏に感謝の眼差しを向け、カトリーヌに連れられて、ビヨ夫人の絶対的な権力下にある台所という名の領地に入った。


 第六章につづく。

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コメント

東様

週末出掛けていたので、今、今週分を読みました。

ビヨの文盲の件、『シャルニー伯爵夫人』の最後で知って、びっくりしていたんです。何で文盲なのにあんなに長い某宣言を諳んじることができたんだ??ってずっと疑問に思っていたんです。ビヨが色々な思想的な考えを知っていくのはもちろんジルベールの口頭による話もあったでしょうが、文字になっているものに関してはピトゥを通してだったってことなんですね・・・!!そしてピトゥ自身も学んでいくんですね・・・今後の展開が楽しみです!

さて、今回のジルベールからの手紙で、「オノレ・ジルベール」とありますが、彼の名前はセバスティアンだったかと思うので、このhonneurは名誉市民ということで使っているんでしょうか?
【2013/04/14 21:27】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
マトリョーシカさま

> 彼の名前はセバスティアンだったかと

 そうなんですよ。「セバスチャン」は『アンジュ・ピトゥ』ではなぜか息子の名前になってしまってます。
他人から「Honoré」と呼ばれているならともかく、ジルベールは自称してますからね。。。敬称というよりも、そう名乗っちゃったんでしょうね。

 もっとも、公証人の名前も「Niquet」から「Niguet」に変わっていたりするので、単なるデュマの勘違いや書き間違いかも知れません。
【2013/04/20 10:27】 URL | 東 照《あずま・てる》 #-[ 編集]
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