翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 6-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六章 牧歌

 ビヨ夫人は玉のように丸々とした三十五、六のおかみさんで、ぴちぴち、むちむち、にこにことしている。鳩小屋から鳩小屋へ、羊小屋から牛小屋へとせわしなく立ち働いているかと思えば、営舎を点検するベテラン将校の如くポトフに竈に焼き肉に目を光らせ、どれも問題ないことを一目で見抜いたかと思えば、鍋に入れたタイムとローリエの分量が適切かどうかを一嗅ぎで判断し、いつもぶつぶつと愚痴ってはいるものの、さりとて誰かをなじろうという気はさらさらなく、夫のことは偉大な名君の如く愛していたし、娘のことはセヴィニエ夫人が娘グリニャン夫人を愛したよりも深く愛していたし、農夫たちのことは十里四方でビヨ夫人に勝るおかみさんはないと言えるほど面倒を見ていた。それ故にビヨ氏のところで働きたい者は跡を絶たなかった。だが生憎なるかな、天国にも似て、志願者の数に比べて、招かるる者は多かれど、選ばるる者は少なかった。

 ピトゥが招かれもせぬのに選ばれたことはお読みになった通りである。自分を正当に評価してもらえたのが嬉しかった。ましてや右にはこんがりと焼けたパン、左には林檎酒の壜、目の前には塩漬豚プチ・サレがあるのだ。母を失くした五年前からこのかた、祭りの日でさえこんな食事を味わったことはなかった。

 斯くて頬張ったパンを飲み込み、林檎ソースを添えた塩漬豚を喉の奥に流し込むにつれ、感謝の念がいとど増すに留まらず、農夫への賛嘆、夫人への敬意、娘への愛情もますます深く感じるのであった。頭を悩ませているのは一つだけ、羊と牛の番をして一日を過ごすという卑しい仕事のことであった。夜中に頼まれている仕事とはえらい違いではないか。夜中の仕事は、社会性と哲学という崇高なる原理を人類に教え込むのが目的のはずだ。

 食事を済ませたピトゥが考えていたのはそのことであった。だが考えている最中も豪華な食事は効用をもたらしていた。飲まず食わずの時とはまったく違う観点から物事を考えることが出来た。極めて低く見積もっていた羊番や牛飼いの仕事も、太古より神や半神によって営まれて来たのだ。

 ピトゥに似た境遇のアポロンは、いわばアンジェリク伯母にプリューを追われたピトゥのように、ユピテルにオリュンポスを追われ、羊飼いとなってアドメトスの家畜の番をしたではないか。アドメトスが牧人の王であったのは確かだが、それを言うならアポロンも神であったのだ。

 ヘラクレスも牛飼いのようなものだ。神話によれば、ゲリュオンの牛の尾をつかんだというのだから。尾をつかむか首を曳くかの違いは習慣によるものでしかない。煎じ詰めれば牛を率いる者が牛飼いだと言って差し支えあるまい。

 さらに、アウグストゥスから賜った安息を見事な詩句で謳いあげたウェルギリウスの語るところでは、ブナの木陰に横たわるティテュルスも羊飼いであった。そしてまた、住まいを去らねばならぬことを詩的な言葉で嘆いたメリボエウスも羊飼いであった。

 斯かる者たちはなるほど神父になれるほどラテン語を操ることが出来たが、弥撒をおこなったり晩課を誦したりするよりも、山羊が苦い金雀児エニシダを食むのを見ている方が好きだった。かにかくに考えるに、羊飼いなる仕事にもその仕事なりの魅力があるに相違ない。そもそも、失った尊厳と詩情をピトゥが取り戻すのに、そしてまた隣村のメナルカスとパラエモンに歌合わせを披露するのに、何の妨げがあろうか? 妨げなどない。ピトゥは幾度も譜面台の前で歌った経験があったから、たとい一度でもフォルチエ神父の食卓からワインを飲んで聖歌隊から外されるようなことがなければ、その才能を伸ばすことも出来たはずだ。笛は吹けなかったが、壜を用いて似たような音を奏でることは出来た。シュリンクスに焦がれたパンとは違い、大きなパンパイプを削り上げることは出来なかったが、菩提樹や西洋栃マロニエで笛を作ることは出来たし、いつもその出来栄えには讃嘆の目を向けられていた。となれば、羊飼いになるのも不相応とは言えまい。当今ではあまり評価されていない斯かる務めに、身を落としたのではない。務めの方を引き上げたのである。

 おまけに羊小屋を管理しているのはカトリーヌ・ビヨ嬢だった。カトリーヌの口から出たのなら、命令も命令とは感じられない。

 だがカトリーヌの方ではピトゥの自尊心に気を遣っていた。

 その夜、ピトゥはカトリーヌにたずねて、他の羊飼いと合流するには何時に出かければいいのか確認した。

「出かける必要ない」

「えっ?」

「パパに言っておいたから。ピトゥさんが受けた教育は、パパが頼んだ仕事より高尚なものなんだって。出かけなくてもいいから」

「よかった! これで一緒にいられるや」

 ピトゥは思わず口を滑らし、耳まで真っ赤になった。カトリーヌの方は顔を伏せて口元をほころばせていた。

「ごめんなさい、思わず口から出てしまったんです。怒りましたか?」

「ちっとも。わたしと一緒にいたいからって責めたりはしないけど」

 沈黙が落ちた。驚くには当たらない。二人が語るのに言葉など不要であった!

「でも、家にいて何もしないわけにはいきません」

「わたしがやってたことをやってもらおうかな。帳簿と会計をつけてくれる? 日給と収入と支出。計算は出来るでしょう?」

「足し、引き、掛け、割りが出来ます」ピトゥは胸を張った。

「わたしより一つ多いね。掛け算までしか出来ないからなあ。パパが会計係に使ってくれると思う。それで二人とも一挙両得ね」

「あなたも得するんですか?」

「時間を得するでしょう。その時間を利用して、帽子を作ろうと思うんだ。可愛くなりたいじゃない」

「帽子なんかなくても可愛いと思います」

「かもね。でもそれはキミの好みだからね」カトリーヌはふふっと笑った。「だいたい、帽子もなくちゃ日曜日にヴィレル=コトレのダンスに行けないもの。髪粉と無帽が許される貴婦人ならそれでもいいでしょうけど」

「髪粉をつけたらますます綺麗になるでしょうね」

「はいはい。お世辞なのはわかってるんだから」

「お世辞じゃありません。フォルチエ神父からそんなの習ってないですもん」

「じゃあダンスは習った?」

「ダンスですか?」ピトゥは驚きの声をあげた。

「ええ、ダンス」

「フォルチエ神父のところでダンスですって!……まさか! ダンスなんて」

「じゃあ踊れないの?」

「はい」

「じゃあ日曜日に一緒に行こうか。ド・シャルニーさんのダンスを見てるといいわ。この辺で一番上手いんだから」

「シャルニーさんって誰ですか?」

「ブルソンヌ城の城主」

「その人、日曜に踊るんですか?」

「多分ね」

「誰とですか?」

「わたしと」

 我知らずピトゥは心臓を鷲づかみにされた。

「じゃあ綺麗になりたいのはその人と踊るからなんですね?」

「シャルニーさんでも、ほかの人でも、誰とでも」

「でもボクとではない」

「どうして?」

「だって踊れませんから」

「覚えればいいじゃない」

「カトリーヌさんが教えてくれたら、シャルニーさんのダンスを見るより覚えが早そうなのに」

「じゃあそうしましょう。でももう寝る時間。お休みなさい、ピトゥ」

「お休みなさい、カトリーヌさん」

 カトリーヌの話には良いことも悪いことも含まれていた。良いこととは、羊飼いや牛飼いから簿記係に昇進したことだ。悪いこととは、ピトゥは踊れないのに、シャルニー氏が踊れることだ。カトリーヌによれば、誰よりも上手いらしい。

 ピトゥは一晩中うなされていた。夢の中ではシャルニー氏がダンスをし、ピトゥが下手くそなダンスを踊っていた。

 翌日、ピトゥはカトリーヌの指示の許で仕事を始めた。驚いたことがある。先生が違えば勉強も楽しいのだ。二時間後には完璧に仕事を覚えていた。

「ラテン語の先生もフォルチエ神父じゃなくてあなただったら、文法間違いなんてしないのに」

「そのうえ神父になれたかも……?」

「なれましたとも」

「そうして女人禁制の神学校に閉じ籠もって……」

「そんなこと考えもしませんでした……神父にならない方がいいや!……」

 九時にビヨ氏が戻って来た。ピトゥが起きるよりも早く、毎朝三時には馬と馬車を出すのを監督し、九時まで畑を回って、全員が持ち場に就いているか、仕事をこなしているかを確認しているのだ。九時になると朝食に戻り、十時にはまた仕事に戻った。一時には昼食を摂り、食事を済ますと朝同様に見回りをおこなった。こうしてビヨ氏の農場はみるみる栄えて行った。こうして本人の言葉通り、外に出れば六十アルパンの土地、家に入れば千ルイの金を手に入れた。或いはきちんと勘定がされていれば、或いはピトゥが勘定をつけていれば、或いはピトゥがカトリーヌ嬢の存在や思い出に心掻き乱されていなければ、金も土地もビヨ氏の辯より多く存在した可能性もある。

 朝食の席でビヨからお達しがあった。ジルベール医師の著作の読み聞かせは、翌々日の朝十時から納屋で始めることになった。

 ピトゥは恐る恐る朝十時は弥撒の時間である旨を伝えたが、人夫たちに実際に味わってもらうためにわざわざその時間を選んだのだと言われてしまった。

 思い出していただきたい。ビヨ氏は哲学者であった。

 聖職者は専制の使徒だと言って毛嫌いしており、仲間割れさせる機会があれば、ここぞとばかりにその機会をものにしていた。

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コメント

東様

お疲れ様です。今週も楽しく拝読させていただきました。

ビヨ夫人、こんなしっかり者の元気なおっかさんだったんですね・・・ああ、それなのに・・・それなのに・・・(ToT)。しかもまだ35~36とは!!ビヨと結構年離れていたんですね。なのに、なのに・・・とますます今後とのギャップに驚かされました。これならビヨの気持ち、ちょっとわかってきました(苦笑)。

そして、ジルベールの名前の件、そうだったんですね・・・そして先週、三谷幸喜さんの「おのれナポレオン」(L'honnerur de Napoléonをもじったタイトル)見た直後だったので、これを書いてしまいました。名前だったらHonoréですね。名前、前にもお伝えしていたと思いますが、私が読んだ『シャルニー伯爵夫人』でピトゥのフルネームが違っていたんです(苦笑)。つまりこういうことですかね(苦笑)。デュマ・・・

そして何ともう「ブルソンヌ城主のド・シャルニーさんとのダンス」のくだりが出てくるのですね。キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!もう、ものすごくいつも以上に楽しみにしております(≧m≦)。

ヴェールに包まれていたところが毎週のように明らかになっていって、「うぉ~っ、そうだったんだ??」の連発です。来週も楽しみにしております。

寒暖の差が激しい日々が続いておりますので、どうぞご自愛くださいませ。
【2013/04/20 23:39】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
マトリョーシカさま

 いつもありがとうございます。

ほんとうに気温の差が激しいですよね。

続く第七章は調べものが多くて時間がかかりそうです。
「bonnet à la Galatée(ガラテイアふうのボンネット)」やら
jeu de paume の専門用語「tierce」「chasse」「quinze」やらが出てきて頭が痛いです。
【2013/04/27 12:30】 URL | 東 照《あずま・てる》 #-[ 編集]
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