アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
ここでピトゥははっと我に返った。
「まだ蹄の音がする!」
ピトゥは顔を上げた。
「間違いない。馬の走る足音だ。坂の上まで来れば確認できるぞ」
と思う間もなく、馬が坂の天辺に現れた。すぐ後ろ、距離にして四百パッススばかりしかない。
警官は驢馬に化けることは出来ないが、逃げる獲物を馬に乗って追いかけることは出来る。
とうに過ぎ去ったとばかり思っていた恐怖に再び襲われ、ピトゥは最前までの二時間よりもさらに大きく、さらに激しく足を動かした。
ものも考えず後ろも確かめず、逃げるのを隠そうともせずに、自らの脚力を信じてひと跳びで側溝を飛び越え、畑を突き抜けエルムノンヴィル(Ermenonville)に向かって逃げ出した。そこがエルムノンヴィルだ、と知っていたわけではない。地平線の先に木々の梢が見えたからだ。
「あれは森かな。あそこまで行けば大丈夫だ」
というわけで一直線にエルムノンヴィルを目指した。
今回の相手は馬である。ピトゥに備わっているのはもはや足ではなく翼だった。
百パッススばかり走ったところで後ろを振り返ってみると、馬が大きく飛び跳ねて側溝を越えていたのだから、なおさらだった。
これでもう疑いは消えた。あの男が追いかけているのは自分だ。ピトゥはさらに速度を上げ、振り返って時間を無駄にもしなかった。ピトゥの背を押しているのは敷石を叩く蹄の音ではなくなっていた。下が作物と土になったため音は弱まっている。ピトゥの背を押しているのは、追いかけてくる声らしきものであった。ピトゥの名を呼ぶ「ウゥ! ウゥ!」という最後の音節が、まるで憤怒の唸りのように尾を引いて空中を渡って来るようであった。
だがさすがに全速力で十分も走ると、胸が苦しく、頭が重くなって来た。目もちかちかし始めた。まるで膝が腫れ、腰に小石が詰まったようだ。普段は靴の鋲が見えるほど足を高く上げて走るのに、今は何度か畝につまづいた。
走ることにかけては人間より優れた馬が、ついに二本足のピトゥに追いついた。もはや「ウゥ! ウゥ!」ではなくはっきり「ピトゥ! ピトゥ!」と言っているのが聞こえた。
終わった。もう駄目だ。
それでもピトゥは走ろうとした。意思とは別に、何かの反動に突き動かされるようにして前に進んだ。不意に膝が言うことを聞かなくなった。足がもつれ、空気を吐き出し、うつぶせに倒れ込んだ。
だが、もう起きるまいと開き直り、そのままわざと腹ばいになっていると、腰にぴしゃりと鞭を当てられ、聞き覚えのある声で罵られた。
「まったくおまえって奴は! カデを潰すつもりか」
カデという名前を聞いて、ピトゥもようやく心を決めた。
ピトゥが振り返ったので、うつぶせから仰向いた形になった。「ビヨさんの声だ」
確かにビヨ氏だった。それを確認してピトゥは身体を起こした。
ビヨ氏の方も、白い汗をかいているカデを止まらせた。
「ビヨさん、追いかけて来てくれたんですね! カトリーヌさんがくれた大型ルイがなくなったら戻るつもりだったんです。でもあなたがいらっしゃったんなら、大型ルイはお返しします。元々ビヨさんのですもんね。じゃあ農家に戻りましょう」
「どいつもこいつも農家だな!
「イヌ?」ピトゥにはこの言葉の意味がよくわからなかった。少し前の時代に語彙に加わったばかりなのだ。
「ああ、イヌだ。わかりやすく言えば、黒服の男たちのことだな」
「あの人たちですか! わざわざ追いつかれるまでボクが待っていたと思ってるんですか」
「上出来だ! てことはあいつらは遙か後ろか」
「もちろんです。たいしたことじゃありませんけど、駆け比べの時みたいに走りましたからね、きっとそうだと思います」
「それだけ自信があるなら何でまたそこまで必死で逃げていたんだ?」
「だってあの親分が仕事をやり遂げようとして馬で追いかけて来ていると思ったんです」
「なるほどな! 思っていたほど抜けてはいないらしい。さあ道が開けたからには、進め! ダマルタンへ」
「ようし! 進め! 進め!」
「よしそうだ。起き上がって一緒に来い」
「ダマルタンに行くんですね?」
「ああ。ルフラン(Lefranc)の野郎のところで馬を借りて、カデを預けていく。さすがに限界だからな。今夜にはパリまで行くぞ」
「そうしましょう、ビヨさん」
「よし、進め!」
ピトゥはそうしようとした。
「ビヨさん、行きたい気持はあるのですが、行けそうにありません」
「立てないのか?」
「はい」
「さっきはあれだけ飛び回ってたじゃないか」
「そりゃそうですよ。ビヨさんの声が聞こえたうえに、鞭で背中をはたかれたんですから。あんなの一回きりです。もう声にも慣れちゃいましたし、鞭だってカデを操る時にしか使わないのはわかってますから。そのカデだってボクと同じくらい疲れてるじゃないですか」
ピトゥの理屈ももとをただせばフォルチエ神父の理屈なのだが、これにはビヨも納得した。いや、感銘を受けたと言ってもいい。
「悪いが事情を汲んでる暇はない。頑張ってカデの後ろに乗んな」
「でもそんなことしたらカデが持ちませんよ!」
「大丈夫だ。三十分でルフランのところに着く」
「でもビヨさん、ボクがルフランさんのところに行っても無意味じゃありませんか」
「なぜだ?」
「ビヨさんはダマルタンに行かなくちゃならないかもしれませんけど、ボクには行く用がありません」
「そうだな。だが是非パリに行ってもらいたいんだ。パリに行ったら、その力強い拳が役に立つ。向こうじゃもうすぐひと騒動持ち上がるだろうからな」
「本当に役に立つと思いますか?」
大喜びでピトゥがカデによじ登ると、ビヨが小麦粉袋のように引っ張り上げた。
ビヨが道に戻り、手綱を締め拍車を掛けると、言葉通り三十分もしないうちにダマルタンに到着した。
ビヨはよく知っている小径から町に入っていた。ルフラン親父の農場に着くと、ピトゥとカデを中庭に残して、真っ直ぐ台所に向かった。折りしも畑に出かけようとしたルフラン氏が脚絆を留めているところだった。
「急いでくれ。逞しい馬が要る」ビヨはルフラン氏が驚きから醒める間も与えなかった。
「マルゴだな。さっき鞍をつけたばかりだ。これから乗るところだったんだ」
「じゃあマルゴだ。一つ断っておくが、乗り潰してしまうかもしれん」
「マルゴを乗り潰すだと! どういうことだ?」
「晩までにパリに行かなくちゃならないんだ」ビヨが嘆きをあげた。
それからビヨはルフランに神秘的なフリーメーソンの合図をした。
「マルゴが潰れたら、カデをもらえるんだな?」
「それで手を打とう」
「酒は?」
「二杯」
「一人じゃないのか?」
「ああ。頼れる青年が一緒だ。疲れているんで向こうで休ませている。何か食べるものはないか?」
「ちょっと待ってくれよ」
二分後には農夫二人は壜から葡萄酒を飲み、ピトゥはパン二リーヴルと脂身半リーヴルを嚥み込んでいた。その間、作男が馬を擦るようにピトゥを藁で揉んでいた。
身体を揉まれ、腹もくちくなると、ピトゥも葡萄酒を飲み始めた。ピトゥが参加したために三本目の壜は瞬く間に空になった。食事が済むとビヨがマルゴに乗り、ピトゥもコンパスのようにしゃちほこばりながらも背に跨った。
拍車を掛けられたマルゴは、二人分の重さをものともせずにパリ目指して駆け出した。蠅を追い払って動く尻尾の毛が、ピトゥの背に当たって埃を立て、靴下の脱げかけたふくらはぎに時折りぶつかっていた。