翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 12-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「ではルイ=ル=グラン学校に行こう。セバスチャン・ジルベールに会えるはずだ」

「行きましょうか」ピトゥはため息をついて言った。柔らかい草の上から離れたくなかったのだ。

 おまけにその夜の昂奮も何のその、うぶな心と怠い身体を司る眠気というご主人様が、アンジュ・ピトゥの良心と疲労の上に、罌粟を両手に舞い降り始めていた。

 ビヨは既に立ち上がっていた。ピトゥも腰を上げたところで、四半刻の鐘が鳴った。

「待てよ? 十一時半にはルイ=ル=グラン学校は閉まってしまうんじゃなかったか」

「確かそうですよ」

「それに夜中だと待ち伏せに遭うかもしれん。パレ=ド=ジュスティスの方に野営の明かりが見えた気がする。捕まって殺される可能性だってある。ピトゥの言う通りだ。俺は捕まって殺されるわけにはいかないんだ」

 ビヨがピトゥの耳に「おまえの言う通りだ」という、人間の自負心を突く一言を囁いたのは、朝からこれで三度目だった。

 ピトゥとしてはビヨの言葉を繰り返すよりほかなかった。

「あなたの言う通りです。殺されてはいけません、ビヨさん」

 草の上に寝転がりながら口にされたその言葉は、最後まで発音されることはなかった。彼声留咽喉Vox faucibus hæsit。起きていればすべて口にされたであろうが、やんぬるかなピトゥは眠りに落ちてしまった。

 ビヨはそれに気づかず、「一つ思いついたんだが――」と独り言つ。

 ピトゥは「ぐう」と返事をした。

「いいか、一つ思いついたんだが、俺がどんなに気をつけたところで、白兵で殺されたり、遠くから撃たれて死んだりする可能性はなくならないだろう。そんなことが起こった場合に備えて、俺の代わりにジルベール先生に伝えるべきことを教えておこう。だがみだりに口にしちゃならんぞ、ピトゥ」

 ピトゥは聞いていなかった。ゆえに返答しなかった。

「俺が致命傷を負って思いを遂げられなかった場合は、おまえさんが代わりにジルベール先生のところに行って伝えてくれ……ピトゥ、聞いているのか?」ビヨはピトゥを覗き込んだ。「おまえさんが伝えてくれ……畜生! いびきをかいているじゃないか」

 ビヨの昂奮もピトゥの睡眠の前に立ち消えになった。

「眠るとするか」

 文句も言わずに、連れの隣に身体を横たえた。如何に重労働に慣れた農夫と雖も、一日中走り通しのうえに今晩のような事件に遭遇しては、眠りの力に抗うすべもない。

 そうして二人が眠りに就いてから――いや前後不覚に陥ってから――三時間が経過した頃。

 二人が再び目を開けても、パリの貌からは前夜の険しさが失われてはいなかった。ただし兵士がいない代わりにそこら中に一般人がいた。

 急拵えの槍や、撃ち方もわからぬ銃や、金や象牙や螺鈿で飾られた用途も仕組みも理解できない旧時代の武器を手にしている。

 兵士たちが立ち去るとすぐにガルド=ムーブルに陣取ったのだ。

 人々は市庁舎に向かって二台の砲台を押して行った。

 ノートル=ダム、市庁舎、教区中に警鐘が鳴り響いた。見れば、人が湧き出ている――何処から? わからない――舗道の下から湧き出たように、着の身着のままに痩せさらばえた男女が、前日までは「パンを!」と叫んでいたように、今では「武器を!」と叫んでいる。

 一、二か月前からこの辺りに現れていた斯かる幽霊の集団ほど不気味なものはあるまい。物も言わず門を越え、パリに居坐り、墓地の屍鬼グールのように腹を空かしていた。

 その日、パリだけではなくフランス全土が飢えをきっかけとして、「我らに自由を!」と国王に訴え、「飢えを満たし給え!」と神に訴えていた。

 ビヨに続いてピトゥが目を覚ますと、二人はルイ=ル=グラン学校に向かった。見渡せば辺りは血塗れ。その惨状に肝を潰した。

 今日カルチェ・ラタンと呼ばれている地区に近づき、ラ・アルプ街を上り、目的地であるサン=ジャック街にたどり着くに至り、フロンドの乱の時代を髣髴とさせるバリケードが築かれているのが目に入った。女や子供が家の上まで運んでいた。二つ折り本。重い家具。それに貴重な大理石。敵兵がパリに古くからある曲がりくねった狭い路地に侵入しようものなら、押し潰されよう。

 やがてビヨも気づいた。集団の中にフランス近衛兵が何人かいて、てきぱきと人々を組織し、銃の操作法を教えている。女や子供が好奇心や学習意欲に燃えて訓練している

 ルイ=ル=グラン学校は叛乱中だった。生徒たちが立ち上がり、教師たちを追い出していた。ビヨとピトゥが門まで来ると、生徒たちがそこまで押し寄せている。校長も恐怖に負けたほどの迫力だった。

 ビヨはこの内乱を一目見るや、大声を出した。

「セバスチャン・ジルベールというのは?」

「僕です」女性のように美しい十五歳ほどの若者が声をあげた。三、四人で梯子を立てかけて壁を登り、門をこじ開けられるか確かめようとしていた。

「こっちに来てもらえないか」

「何のご用です?」セバスチャンがビヨにたずねた。

「この子を連れ出すつもりか?」校長が怯えて声をあげた。目の前の二人は武装しており、しかもジルベールに声をかけた方は血塗れなのだから当然だった。

 ジルベールの方は驚いて二人を見つめ、乳母子ピトゥの面影を探そうとしたが、最後に会ってからかなり大きく成長していたし、兵士のような恰好をしていたこともあって、まるで見分けがつかなかった。

「連れ出すだって? ジルベールさんの息子を? こんな騒ぎの中、どんな危険に遭わないとも限らないというのに。冗談じゃない」

「ご覧なさい、セバスチャン。ご覧なさい、怒れる者よ。ご友人はあなたを必要ともしていないのです。こちらの方々はご友人なのでしょう。よいですか、ご友人の方々。よいですか、若者たちよ、生徒たちよ」校長が声を張り上げた。「どうか私の言うことを聞きなさい。お願いですから言うことを聞いて下さい」

我当懇願Oro obtestorque」とピトゥが言った。

「先生。」ジルベールが若さに似合わぬ毅然とした声を出した。「生徒たちを引き留めたければ引き留めるのはかまいません。でも僕だけは外に出してもらえませんか」

 ジルベールは門に向かいかけたが、教師に腕をつかまれた。

 白い額の上に栗色の髪を散らし、ジルベールは反論した。

「先生、ご自分が何をやっていらっしゃるかご存じですか。僕をほかの生徒と同じだと思わないで下さい。僕の父は逮捕され、投獄されているわけで、いわば君主の支配下にあるんですから!」

「君主の支配下だと? おいおい、詳しく話してくれないか?」ビヨが息巻いた。

「間違いありません。セバスチャンの言う通りです」生徒たちも怒鳴り返す。「お父さんは檻の中なんです。民衆によって牢屋が破られたので、お父さんも牢屋から出られるんじゃないかと期待しているんですよ」

「畜生!」ビヨはヘラクレスのような腕で門を揺すった。「ジルベール先生が逮捕されただと! カトリーヌの言う通りだったじゃないか!」

「そうなんです、父は逮捕されてしまいました。だから僕はここから抜け出し、銃を手に、戦いに向かおうとしているんです。父を助け出すその時まで!」

 この言葉はあらゆる賛同の怒号を持って迎えられた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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