翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 16-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ビヨは手前にいる歩哨の列を突っ切り、ピトゥは広場に戻った。

 跳ね橋ではまたもや一悶着があった。

 ビヨが許可証を見せると、跳ね橋が降ろされ、鉄門が開いた。

 門の後ろに司令官がいた。

 司令官が待ち受けていた内庭は、囚人の散歩する場所であった。塔という名の八つの巨人に囲まれている。頭上に窓は一つもなく、暗く湿った舗石に太陽が届くことはない。さながら広大な井戸の底と言えよう。

 庭にある柱時計が鎖に繋がれた囚人に支えられて時を刻んでいる。独房の天井から滴る水が敷石を穿つように、ゆっくりと控えめな音を立てて時を穿っていた。

 この井戸の底で、石の谷に埋もれている囚人は、生命のしるしもない石をしばし見つめ、やがて牢獄に戻った方がましだと思うらしい。

 庭に面した鉄門の向こうには、前述の通り、ド・ローネー氏がいた。

 ローネー氏は五十路近い男性で、この日は亜麻色の服を着ていた。サン=ルイ勲章の朱綬を身につけ、仕込み杖を手にしている。

 ローネー氏は悪人であった。その悪名はランゲの回想録【Simon-Nicholas Henri Linguet,1736-1794,Mémoires sur la Bastille】によって照らされ、囚人に劣らず憎まれていた。

 父から子に封印状を受け継がせたシャトーヌフ家、ラ・ヴリリエール家、サン=フロランタン家と同様、ローネー家も父から子にバスチーユを引き継いでいた。

 ご存じの通り、典獄を任命しているのは陸軍大臣ではない。バスチーユでは司令官の地位から見習いコックの地位に至るまですべては金で買えるのだ。バスチーユ司令官とは規模の大きな門番であり、肩書きを持った食堂の亭主である。六万フランの給料に加えて、六万フランを強請り取り、着服していた。

 払ったお金を取り戻す必要があったのだ。

 ローネー氏は先任者以上に貪欲であった。購入金額が先任者よりも高額であり、それほど長くは地位にしがみつけないと考えていたのだろう。

 囚人を踏み台にして暮らしをまかなっていた。牢の暖房をケチり、家具の料金を二倍にした。

 葡萄酒百樽を無関税でパリに入れる権利を有していたので、それを酒屋の亭主に売りつけ、旨い葡萄酒の十分の一の値段で酢を買って囚人に飲ませていた。

 バスチーユに幽閉されている者たちにも一つだけ慰めがあった。稜堡の上に築かれた小庭である。囚人たちはそこで散歩を味わい、束の間の空気と、花と、光と、そして自然と再会していたのである。

 ローネー氏はこの庭を庭師に貸して年に五十リーヴル受け取る代わりに、囚人たちから最後の楽しみを奪っていた。

 一方で金を持った囚人にはたっぷりと心尽くしをした。囚人を家に連れて来られた愛人は、ローネーの懐を痛めることなく、家具を購入することも維持管理することも出来た。

 バスチーユが日の下に晒されれば、こうしたことは無論のことまだまだ幾つもの事実が明らかになるだろう。

 さらに言えばローネー氏は勇敢だった。

 前夜から、身のまわりで嵐が吹き荒れ、暴動の波がひたひたと這い上って壁を叩いているのを感じていた。

 それでも、青ざめてはいたが落ち着きは失っていなかった。

 背後には四台の大砲がいつでも発射できるようにされている。周りにはスイス兵と傷病兵。目の前にいるのは、ただ一人丸腰の人間。

 さよう、ビヨはバスチーユに足を踏み入れると、小銃をピトゥに預けていたのだ。

 柵の向こう側では武器は身を守るのではなく身を滅ぼしかねないのだと気づいていた。

 ビヨは一目ですべてを見て取った。挑発的なほどに落ち着いた司令官の態度。詰め所に居並ぶスイス人衛兵。砲座上の傷病兵。軍用車のタンクに薬包を詰め込む砲兵たちの無駄のない動き。

 歩哨たちは銃を手に提げ、将校たちは剣を抜いている。

 司令官が動かなかったため、ビヨの方から歩いていかざるを得なかった。不吉な音を軋ませ後ろで鉄門が閉まると、如何に勇敢なビヨとて、骨の髄まで凍えるのを避けられなかった。

「まだ何か用か?」ローネーがたずねた。

「まだ? 会うのは初めてだと思ったが。だったら俺を見てうんざりすることもあるまい」ビヨが応えた。

「市庁舎から来たのでは?」

「そうだ」

「やはりな。先ほど市庁舎の使節が来たばかりだ」

「何をしに?」

「砲撃するなという言質を取りに」

「約束したのか?」

「ああ。大砲を引っ込めろと言われた」

「それで引っ込めたのか。バスチーユ広場から見えたよ、動かしているのが」

「脅しに屈したと思っているんだろうね?」

「どう見てもそうだろう」

「言った通りだろう?」ローネーは将校たちを見て言った。「きっと臆病者だと思われると言ったはずだ」

 それからビヨに向かい、「誰の代理だ?」とたずねた。

「民衆の代理だ!」ビヨは胸を張って答えた。

「なるほど。だがそれだけかな?」ローネーは薄笑いを浮かべた。「そんなものでは歩哨の防衛線を通り抜けられなかったはずだ」

「ああ、あんたの友人フレッセルさんの許可証がある」

「フレッセルか! 私の友人だと言ったな」ローネーは心の奥深くを読もうとでもするかのようにビヨを見つめた。「フレッセル氏が私の友人だと誰から聞いた?」

「そう思ったのさ」

「思っただけか。まあいい。許可証を拝見しよう」

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