翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 17-6

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 自分のことだけ考えている間は、バスチーユが爆発しようと一緒になって吹き飛ぼうと気にならなかった。だがジルベール医師だけは、どんなことがあっても生きなくてはならない。

「止まれ!」ビヨはエリーとユランの前に飛び出した。「頼むから止まってくれ!」

 二人は自分たちの死を恐れてはいなかったが、震え青ざめて後じさった。

「どういうつもりだ?」二人は司令官に向かって兵士たちと同じ質問をした。

「撤退しろ」ローネーが答えた。「バスチーユに余所者がいるうちは、如何なる要求にも応じない」

「俺たちがいなくなっても、元には戻らんぞ」ビヨが言った。

「降伏するという申し出が拒まれれば、何もかもこのままだ。おまえはその入口に、私はここにいることになる」

「その言葉に嘘はないな?」

「貴族として誓おう」

 何人かはかぶりを振った。

「貴族として誓うと言っているのだ! ここには貴族の言葉を疑う人間がいるのか?」

「いや、いないぞ!」五百の声が次々と答える。

「紙とペンとインクを寄こし給え」

 注文はすぐに聞き届けられた。

「結構!」

 ローネーは侵入者に向かって告げた。

「では余所者は出て行き給え」

 ビヨとユランとエリーが範を示して真っ先に出てゆくと、ほかの者たちもそれに倣った。

 ローネーは傍らに灯心を置き、膝の上で降伏文書を書き始めた。

 傷病兵やスイス人衛兵にも、自分たちが助かるかどうかが問題になっているのだとわかり始めた。物も言わず畏敬を込めて見つめている。

 ローネーはペン先を紙に置く前に振り返った。中庭には誰もいなくなっていた。

 中で起こったことは瞬く間に外に知れ渡った。

 ロスム氏の言った如く、敷石の下から人が湧き出ていた。十万人がバスチーユを包囲していた。

 もはや労働者だけではなく、あらゆる階級の市民が集まっている。もはや大人だけでなく、子供も老人も集まっていた。

 誰もが武器を手に、叫びをあげていた。

 人混みの中、ところどころに女がいた。泣き叫び、髪を振り乱し、腕をよじり、狂ったように石の巨人を呪っていた。

 バスチーユに息子を射殺された母親であり、夫を撃ち殺された妻であった。

 ところがいつの間にかバスチーユからは音も炎も煙も消えていた。バスチーユは息をしていなかった。バスチーユは墓石のように静かだった。

 壁面を飾る弾丸の跡を数えようとしても叶わなかったであろう。圧政の象徴である花崗岩の怪物に銃弾を浴びせたいと考える者たちは、それほどまでに多かった。

 ゆえに、バスチーユが降伏しようとし、司令官が明け渡そうとしていると知っても、誰一人信じようとはしなかった。

 誰もが眉に唾つけ、そう簡単に嬉しい結末には飛びつかず、固唾を呑んで待ち続けていると、剣の先に刺した手紙が銃眼から突き出されるのが見えた。

 だが手紙との間にはバスチーユの堀があり、大きく、深く、水を湛えていた。

 板が欲しいとビヨが言うと、板が三切れ運ばれて来たので橋にしようとしたが、短すぎたため役には立たなかった。四つ目の板が堀の両岸に届いた。

 ビヨは板をよい位置で留めると、躊躇うことなくぐらつく橋に足を進めた。

 誰もが息を止めたまま、まるで堀の上に宙ぶらりんになったような男を一心に見つめていた。澱んだ水はまるでコキュトスだ。ピトゥは土手の陰にしゃがみ込み、膝の間に頭を突っ込み丸まって震えていた。

 勇気が足りずに涙が出た。

 突然のことだった。三分の二ほど進んだところで板がぐらつき、ビヨは腕を広げたまま、堀の中へと姿を消した。

 ピトゥは絶叫し、ビヨを追って飛び込んだ。主人の後を追う猟犬のように。

 男が一人、板に近づいた。今し方この高さからビヨは放り出されたのだ。

 男は躊躇うことなく板を渡った。シャトレの執達吏、スタニスラ・マイヤールだった。

 ピトゥとビヨが泥の中でもがいていた場所まで来ると、すぐに下を見て、二人が無事に岸までたどり着いたのを確認すると、そのまま先に進んだ。

 三十秒後には向こう岸に着き、剣の先に突き出された手紙を手にしていた。

 それから、落ち着きも渡った時と同じく、毅然とした歩きぶりも同じくして、同じ板の上を歩いて戻った。

 だが手紙を読もうと周りに人が群がった瞬間、恐ろしい銃声が聞こえると同時に、銃眼から弾丸が降り注いだ。

 たった一つの、だが復讐を誓う人々の胸に共通する叫びがほとばしった。

「君主を信用したけりゃするがいい!」ゴンションが叫んだ。

 降伏のことも、火薬のことも、自分のことも囚人のことも忘れて、夢も希望も願いもなく、ただ復讐のみを胸に、中庭になだれ込んだ。その数はもはや百ではなく千という単位になっていた。

 それを妨げるものはもはや銃撃ではなく門の狭さであった。

 この銃声を聞いて、ローネー氏に張りついていた二人の兵士が飛びかかり、三人目が灯心を奪って足で踏み消した。

 ローネーは仕込み杖を抜き、自害しようとしたが、真っ二つに折られてしまった。

 もはや待つことしか出来ぬと悟ったローネーは、ただ待った。

 殺到する人々を前に、兵たちは許しを請うた。バスチーユは降伏したのではなく、力ずくで乗っ取られたのである。

 百年の昔より、この王家の要塞に封じ込められていたのは単なる無機物ではなく、思想であった。思想がバスチーユを破壊し、人々はその割れ目から中に入った。

 発砲があったのは、静寂のさなか、停戦中のことであった。無計画にして、且つ拙劣、決定的な攻撃は、命令を下したのが誰なのか、火種を撒いたのが誰なのかはわからぬまま、完遂された。

 全国民の未来が運命の天秤に掛けられた瞬間であった。秤は傾いた。目的を達したことを疑う者はなかった。見えざる手が、或いはナイフの刃が、或いは拳銃の弾が、天秤皿の上に落とされたのだ。その時すべてが変わり、聞こえるのはただ一つの叫び声だけであった。「敗者に災いあれ!」

 
 第17章終わり。第18章に続く。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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