アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「実は、夢のことなんです!」
「夢に怯えているというのかい」
「そうでもありそうでもありません。夢を見ている最中には怖いとは感じずに、別世界に連れて行かれたような感覚なんです」
「説明を頼む」
「幼い頃にはこれと同じ幻覚を何度も見ました。ヴィレル=コトレの森で迷子になったことが何度かあったでしょう」
「そうらしいね」
「僕は亡霊のようなものを目にしていたんです」
「つまり……?」ジルベールは怯えたような目を我が子に向けた。
「こういうことなんです。ほかの子たちのように村で遊んでいた時のことです。村でほかの子たちと一緒にいる時には何も見えません。ところが一人になって村はずれの畑を過ぎると、衣擦れのような音が聞こえるんです。布をつかもうとして腕を伸ばしても、空を切るだけでした。ところが衣擦れが遠ざかるにつれて、入れ替わりに亡霊が姿を現すんです。初めは雲のように霞んでいるだけでしたが、徐々に靄は濃くなり、やがて人間の形を取りました。女性のような身体つきをしたその靄が、歩くというよりは滑るようにして森の暗い奥深くに進むにつれて、その姿はますますはっきりとして来ました。
「人智の及ばぬ抗いがたい力に引かれて、僕は女性の後を追いました。腕を伸ばして、そのひとのように声も出さずに追いかけました。声をかけようと思ったことも何度かありましたが、声になりませんでした。追いかけても追いかけても立ち止まってはくれず、追いつくことが出来ないまま、現れたのと同じように不思議な出来事が起こってそのひとはいなくなってしまったのです。だんだんと姿が見えなくなり、靄のようになったかと思うと、ぱっと消えてしまい、それっきりでした。僕は疲れ果てて、そのひとが消え失せた場所に倒れ込みました。そこに倒れているのをピトゥがその日のうちに見つけてくれることもあれば、翌日になってようやく見つけてくれることもありました」
ジルベールはますます心配して我が子を見つめ、指で脈を取っていた。セバスチャンにも父親の気持は痛いほど理解できた。
「心配しないで下さい。現実ではないとちゃんとわかっていますから。あれはただの幻覚です」
「どんな女なんだ?」
「王妃のように堂々としていました」
「顔は見えたかい?」
「ええ」
「いつから?」ジルベールは震えながらたずねた。
「ここに来てからです」
「パリにはヴィレル=コトレのように木々に覆われた鬱蒼とした森はないじゃないか。沈黙も、孤独も、亡霊を見る原因になるようなものは何もない」
「あるんです、そのすべてが」
「何処に?」
「ここです」
「ここだって? ここは教師用の庭じゃないのか?」
「でもここで何回かあのひとが見えたんです。そのたび後を追いましたが、閉ざされた扉の前で立ち往生するばかりでした。作文の出来がよかったご褒美にベラルディエ院長から欲しいものを尋かれたので、時々この庭を一緒に散歩して欲しいとお願いしたところ、お許しをいただきました。僕はここに来て、ここでまた幻覚を見たんです」
ジルベールはぞっとした。
――何てことだ。でもこの子のように繊細な質ならあり得ないわけじゃない。「顔を見たんだね?」
「ええ、お父さん」
「忘れてはいないね?」
セバスチャンは微笑んだ。
「近づいてみたと言ったね?」
「ええ」
「手を伸ばしてみたとも」
「手を伸ばした瞬間に、姿が見えなくなったんです」