翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 26-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 王と王妃の二通りの人柄に、誰もが強い印象を受けた。王妃はかろうじて涙を抑えていた。国王はブルボン家の人間に相応しい食欲で食事を続けていた。

 こうして部屋は少しずつ空っぽになった。太陽に当たって庭園の雪が溶け、ところどころに黒い地面を覗かせるように、人の集まりも解けてしまった。

 好戦的だと見込んでいた人々が立ち去るのを見て、自分の力が消え失せて行くのを見ているようだった。それは喩えるならば、かつてアッシリアやアマレク(Amalécites)の大軍を、かつて神の息吹が蹴散らし、夜や海がその奥深くに永遠に飲み込んでしまっているのに似ていた。

 王妃を我に返らせたのは、ポリニャック伯爵夫人(la comtesse Jules)の穏やかな声だった。義姉のディアーヌ・ド・ポリニャック夫人と二人でいつの間にかそばに近づいていた。

 その声の響きによって、一度は遠ざけられた未来、甘い未来が、讃辞という花と勝利という葉を連れて、高慢な女の許に戻って来た。誠実で真に忠実な友は、十の王国よりも価値がある。

 王妃はポリニャック伯爵夫人(la comtesse Jules)にしがみついた。「もう頼れるのはお友だちだけよ」

 どうにか目に留まっていた涙が、瞼からこぼれ落ち、頬に跡をつけて、胸を浸した。だが今度の涙は苦いものではなく甘い涙だった。胸を張り裂けさせるのではなく胸を落ち着かせる涙だった。

 王妃が伯爵夫人の腕にしがみついていた間は、しばらく沈黙が続いた。

 義妹の手をつかんでそれを打ち破ったのは、公爵夫人ディアーヌだった。

「陛下」恥じているのかと思うほど小さな声だった。「今からご判断を委ねます考え(projet)には陛下もお怒り(blâme)にならないと存じます」

「考えとは? お話しなさい」

 王妃は無我夢中で公爵夫人ディアーヌの話を聴こうとして、伯爵夫人の肩越しに身を乗り出した。

「これから申し上げるのは、そのご威光を陛下もお疑いにはならない方のご意見(opinion)でございます。と申しますのは、国王陛下の叔母さまアデライード殿下なのです」

「前置きはよいから本題に入りなさいな!」王妃は笑って促した。

「嘆かわしい状況なのです。私たち家族が陛下のおそばで享受しております寵愛を、ことさらに悪く考える者たちがいるのです。心からの献身に対して陛下が許して下さっているご厚誼を、誹謗中傷で汚す者たちがいるのです」

「何ですって!」王妃は初めに驚いて見せた。「わたしがそこまで意気地なしだと考えているの? 人の意見や、宮廷、国民、国王その人が相手だからといって、怖じ気づいて友情をないがしろにしたとでも?」

「とんでもございません。陛下はどのような攻撃にも胸を張って立ち向かい、親しい者たちを勇敢に支えて下さいました。そのために今では脅威は大きなものとなり、恐怖の対象とすらなってしましました。勇敢にも陛下に守っていただいた者たちが、ここで陛下に対して同じことをしないでは、卑怯者や恩知らずのそしりを免れましょうか」

「ありがとう、嬉しいわ!」マリ=アントワネットは感極まってポリニャック伯爵夫人を抱きしめて胸に押しつけたまま、夫人の手を握り締めた。

 ところが二人とも王妃に触れられて勇ましく顔を上げるどころか、青ざめてしまった。

 ジュール・ド・ポリニャック夫人が王妃の腕から抜け出そうともがくのを、無意識のうちに王妃は胸に引き留めようとしていた。

「恐れながら」ディアーヌ・ド・ポリニャック夫人が躊躇いがちに答えた。「お伝えしたことをきちんとわかっていただけなかったようです。私たちにお示しになっているご厚誼のせいで、陛下の玉座やお人柄がおびやかされているのです。そうした攻撃を逸らすためには、痛ましい手段や心苦しい犠牲に耐えなくてはならないことを、必要から促されているのでございます」

 それを聞いて青ざめたのは今度は王妃の方だった。今や感じられるのは、勇敢で誠実な友情などではなく、こうした前置きとおずおずとした態度の下に隠された怯えであった。

「話しなさい、公爵夫人、犠牲とは何です?」

「何もかもでございます。私たちはフランス中から憎まれております。玉座をきれいにして、私たちのせいで火の消え遮られていた国民の愛情を、その輝きと熱気とを、戻さなくてはなりません」

「おまえたちを遠ざけると?」王妃がまなじりを上げた。「誰がそのようなことを? 誰の差し金です?」

 王妃はぎらぎらとした目でポリニャック夫人を見つめた。そっと手を押しのけられて、ポリニャック夫人はうつむいた。

「あたしではありません。だって離れたくありません」

 だがその言葉には明らかに、『立ち去るようお命じになって下さい、そうすれば立ち去りますから』という気持が透けて見えた。

 あゝ友情よ。王妃と侍女の二つの心を固く結ぶことも出来た鎖よ! あゝ友情よ! 人の心が生んだ気高き病たる愛と野心よりも気丈に振る舞う友情よ! 王妃は心に建てたその祭壇を一瞬で打ち壊した。一目で、たった一目だけで、十年前には見えなかったものが見えた。それは例えば、つれなさ、打算、言い訳、正当化、こじつけ。だが一人が愛を捨ててしまっても、まだ愛を抱いている者の目には、捨てられた言い訳も、正当化も、こじつけも、届くだろうか?

 マリ=アントワネットは自分が感じた苦しみを晴らすのに、冷たい目つきで友人を包み込むだけに留めた。

「そう。ディアーヌ、それがおまえの意見ですか」王妃は火照った手で胸を掻きむしった。

「陛下、私が選んだのではありませんし、望んだのでもありません。すべきことを命じたのは、運命の意思なのです」

「わかりました、公爵夫人」

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