翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 28-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第二十八章 オリヴィエ・ド・シャルニー(承前)

 中断は一時的なものだったし、たったいま王妃を突き動かしている二つの嫉妬という感情に何の変化ももたらさなかった。女としての愛情に関わる嫉妬と、王妃としての権力に関わる嫉妬だ。

 結果として、一周目で論じ尽くされたように見えながらその実は表面をなぞっていただけの会話が、これまでにも増して鋭く甦ろうとしていた。さながら戦場にて、ぽつぽつとした点上を攻撃していた第一射撃が止んだ後、戦を決定づける第二第三の射撃がありとあらゆる線上に放たれるのに似ていた。

 そのうえ事態がこうなってしまっては、王妃はおろか伯爵にも言い訳の必要がありそうだった。そこで扉が閉められると、伯爵の方から口を開いた。

「私が戻って来たのは妻のためなのかとおたずねになりましたね。ということは陛下はお忘れなのですか? 二人の間で交わした約束を。私が誠実な人間だということを」

「ええ」王妃は首を傾けた。「約束を交わしました。あなたは誠実な方です。わたしの幸せのために身を捧げると誓って下さった。だからこそ苦しんでいるのです。わたしの幸せのために身を捧げるということは、高貴な女と気高い人間と……それに罪に身を捧げるということなんですから」

「そこまで言う必要はありません。ただ一言、私が誠実な男らしく約束を守ったと言って下さればよいのです」

「そうですね。どうかしていたんです。許して下さいな」

「偶然と必然から生まれたものを罪と呼ぶことは出来ません。偶然と必然が結びついたところで、王妃の名誉を守ることしか出来ませんでした。嘆いてみても始まりません。四年というもの私が耐え忍んで来たように、もはや耐えることしか出来ないのです」

「わかっています。でも。でも、わたしにあなたの苦しみがわからないと、あなたの悲しみが理解できないと思っているのですか? 深い敬意という形で姿を見せている苦しみや悲しみのことが、何もわからないと思っているのですか?」

「お願いです」伯爵が頭を下げた。「私が味わっている苦しみだけではまだ足りず、周りの人間にかける苦労もまだ足りないというのなら、教えて下さい。私にも周りの人間にも倍の苦痛を与えましょう。いくらあなたに身を捧げたところで永遠に届かないことはよくわかっているのですから」

 王妃は伯爵に手を伸ばした。伯爵の言葉には抗いがたい力があった。実直で熱烈な心からあらゆるものが発していた。

「命じて下されば従います。ご命令を恐れないで下さい」

「ええ、わかってますとも。わたしが間違っていました。わかっています、ごめんなさい、そうですよね。でも、密かに敬意を捧げている胸に秘めた偶像がおありなら……あなたにとって世間の何処かに憧れの女がいるのなら……もうそんな言葉は口にしません。恐ろしすぎます。いつその言葉が空気を震わせ耳をおののかせるのかと気が気ではありませんから。もし誰にも知られていないそんなひとがいるのなら、どうか忘れないで下さい、誰の目にも明らかな、あなたからもほかの人からも隠れもしない、若く美しい女(une femme jeune et belle)がいることを……あなたが細やかに欠かさず世話をしている女がいることを。あなたの腕にもたれながら、あなたの心にももたれている女がいることを」

 オリヴィエが眉をひそめた。端整な顔立ちが一瞬だけ歪んだ。

「何を仰りたいのですか? シャルニー伯爵夫人を遠ざけろと? 黙っておしまいになりましたね。図星ですか? ご命令にならいつでも従うつもりでおります。けれどご存じの通り、妻は孤独な身の上。孤児なのです。お父君のタヴェルネ男爵は昨年亡くなりました。今現在起こっている出来事を目にするのを拒んだかのように、古き時代の立派な貴族らしく亡くなりました。兄君のメゾン=ルージュが姿を見せるのはせいぜい一年に一度、妹を抱き寄せ、王妃陛下にご挨拶した後、立ち去ってからどうしているのかは誰にもわからないのです」

「ええ、すべて知っています」

「よくお考え下さい。わたしが神の御許に呼ばれてしまえば、天使たちの中でもひときわ清らかな天使も、如何なる夢を見ようと如何なることを考えようとも妻であった時の言葉も名前も記憶も思い出すことなく、娘時代の名前を取り戻すことが出来るでしょう」

「ええ、わかっています。アンドレは地上の天使、愛されて当然のひとだと。だからこそ、未来はアンドレのものであり、わたしからは遠ざかっていると考えているのです。どうか伯爵、お願いです、それ以上は言わないで。王妃らしくない口を利いて申し訳ありません。我を忘れていました、けれどどうしろと?……わたしの心の中には、不幸や戦争や死を囁く忌まわしい声の隣で、いつも幸福や喜びや愛を歌っている声がするのです。わたしが生き延びて来た若き日の声です。シャルニー、許して下さい、わたしもいつかは若くなくなるし、もう二度と微笑むことも、人を愛することもないでしょう」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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