翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 28-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「スパルタは三百の戦力でクセルクセス(Xerxès)の軍勢を破ったではないか、シャルニー殿」

「その通りです。しかし現在の状況では、三百人のスパルタ兵とは八十万のパリ市民であり、五十万の兵士がクセルクセスの軍隊に当たるのです」

 王妃は拳を握り締めて立ち上がった。顔は怒りと恥辱で真っ赤になっていた。

「わたしが玉座から転がり落ちるというのか、五十万のパリ市民に八つ裂きにされて殺されるというのか。わたしに尽くしているはずのシャルニーという男にこんな話し方をされとうはない!」

「こんな話し方をするのも、やむにやまれぬゆえのこと。あなたの仰いますシャルニーという男には、祖先に恥じぬ血が流れておりますし、あなたに尽くすに相応しい血が流れているのです」

「ではわたしと二人でパリに向かい、一緒に死のうではないか」

「惨めにも戦う機会さえ持たずに。立ち向かうことさえせず、ペリシテ人やアマレク人(des Philistins ou des Amalécites)のように死ぬのです。パリに向かう? 現状をご存じなのですか? 私たちがパリに着いた途端に、紅海の波に押し潰されたファラオのように、崩れた家に押し潰されてしまいます。あなたはフランスに汚名を残し、お子様たちは狼の子らのように屠られてしまうでしょう」

「わたしがどのように死ぬと?」王妃は尊大にたずねた。「どうか聞かせてもらえますか」

「生贄として」シャルニー伯爵は恭しく答えた。「王妃の死に相応しく、石もて投げ打つ者たちに微笑みと許しを与えて。私と同じ人間が五十万いれば、『発きましょう。今宵発ちましょう。今すぐ発ちましょう』と申し上げることも出来ますし、明日にはあなたにチュイルリーの統治をお約束し、玉座を取り戻すことも出来るのですが」

「では諦めているのですか? あなたに希望を託しておりましたのに」

「仰る通り諦めております。フランス中がパリと考えを同じくしておりますし、軍隊もパリでは勝利を収めてもリヨンやルーアンやリリーやストラスブールやナントをはじめとした幾多の飢えた町々には呑み尽くされてしまうでしょう。どうか勇気を持って、剣を鞘にお収め下さい」

「嗚呼こんなことなら周りに勇敢な人間を集めておけば。そして勇気を囁いておけば」

「私の考えが受け入れられないというのなら、ご命令を。今夜にでもパリに向かいましょう。さあどうぞ」

 伯爵の提案には忠誠の意が満ちていたにもかかわらず、王妃にはそれが拒絶よりも恐ろしかった。王妃は狂ったように長椅子に身を投げ、しばらく自尊心と戦っていた。

 やがて顔を上げ、

「何もせずにいろ、と?」

「僭越ながらそれがよろしいかと」

「そうしておきましょう。戻りなさい」

「もしやお怒りになりましたか?」伯爵は愛情に溢れた顔に悲しみを滲ませて王妃を見つめた。

「いいえ。手を」

 伯爵は身を屈めて手を差し出した。

「一つ文句がありますの」マリ=アントワネットは微笑もうとした。

「何でしょうか?」

「ご兄弟がいらっしゃるでしょう。わたしが知ったのはたまたまだったんですよ!」

「と言われましても」

「今晩、ベルシュニー(Bercheny)軽騎兵隊の若将校さんが……」

「ああ、ジョルジュですか!」

「どうしてこれまで教えて下さらなかったの? どうして聯隊の幹部に就任してらっしゃらないの?」

「まだまだ若く未熟者ですから、指揮官が務まるような器ではございません。それに陛下がシャルニーの名で呼び私に目を留めて友情をお掛け下さろうとしているからといって、もっと相応しい勇敢な貴族たちを押しのけてまで血の繋がった弟たちを高い地位に据えていいような理由などございません」

「というと、ほかにもご兄弟が?」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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