アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「さあどうしたんだ?」シャルニー伯爵がたずねた。「あんなに強くて勇敢なお前が、失神するほど怯えていたなんて?」
「パリであんな恐ろしいことが起こっていますのに。殿方も震えていますもの、女なら気を失ってしまいますわ。パリから離れていたんですね、よかった」
「お前の具合が悪くなったのは、私のことが心配だったからだというのか?」シャルニーは疑わしげにたずねた。
アンドレは改めて夫と王妃を見つめたが、何も答えなかった。
「決まってるじゃありませんか。どうしてお疑いになるんです?」マリ=アントワネットが代わりに答えた。「伯爵夫人は王妃ではありませんもの、夫を心配する権利くらいあるでしょう」
シャルニーはその言葉の下に嫉妬が潜んでいるのを感じ取った。
「伯爵夫人が心配しているのは、私のことなどより陛下のことにほかなりません」
「もうよい。この部屋で気を失ったのはどういう訳で、どういういきさつがあったのですか、伯爵夫人?」マリ=アントワネットが質した。
「お話しすることなどできません。わたくしにもわからないのですから。それでも、このようにつらく恐ろしく心に負担のかかる生活をもう三日も続けていれば、女が失神してしまうのもごく当たり前のことかと存じます」
「そうなのでしょうね」王妃が呟いた。心の中に踏み込まれるのをアンドレが嫌がっていることに気づいたのだ。
「それに――」アンドレはひとたび落ち着くと、もはや抑えを失くすことはなかった。とは言え難しい局面のせいでますます負担が強まって来ると、そうした落ち着きがうわべのものでしかないことも、人間らしい感情を覆い隠していることも、自明であった。「陛下の目も潤んでいらっしゃいます」
最前の王妃の言葉のように、今度は妻の言葉に皮肉が込められていることに、伯爵は気づいた。
「アンドレ」伯爵の声には常ならぬ厳しさがあった。「王妃陛下が目に涙を浮かべていても驚くには当たるまい。陛下の愛していらっしゃる国民が血を流しているのだから」
「幸いにして
「うむ。だが当面の問題は陛下のことではなくお前のことだ。陛下のお許しがあればお前の話に戻ろうじゃないか」
マリ=アントワネットは同意の印にうなずいた。
「怯えていたんだな?」
「わたくしが?」
「それに苦しんでいた。否定はさせない。非道い目に遭ったんだな。どんなことだ? 知らないけれど、聞かせてくれるね」
「勘違いなさっています」
「誰か非難すべき相手がいるのか? 男か?」
アンドレが青ざめた。
「誰かを非難する謂れはありません。わたくしは国王陛下のお部屋から参ったのです」
「真っ直ぐ?」
「真っ直ぐ。陛下もお認めくださいます」
「そういう訳なら、言い分は伯爵夫人にあるのでしょう」マリ=アントワネットが言った。「国王陛下も伯爵夫人のことは大事になさっていますし、わたしがとても大切に思っていますからどんなことがあっても傷つけたりはしないということをご存じですもの」
「でも」シャルニーは引かなかった。名前を口にしたではないか」