翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 31-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 味方は(少なくともその大部分は)耐え忍ぶことに慣れて来た者たちであるからして、つまりはどれだけ深い傷を負おうと何も感じはしないのだろう。

 音を立てるのを恐れて反撃を躊躇う者たち。

 だから忘れるふりや思い出すふり、許すふりや許さないふりをして、忘却の中にすべてをうずめなくてはならなかった。

 とてもフランス王妃とは言えぬ。ましてやあの心優しきマリア=テレジアの娘とは言えなかった。

 受けて立って戦うべし! 叛乱を起こされた王国の誇りはそう囁いた。だが戦うことは適切と言えたのだろうか? 流された血で憎しみをなだめることが出来るだろうか? オーストリア女と呼ばれるのが恐ろしくないのか? その名を残すために、イザボー・ド・バヴィエールやカトリーヌ・ド・メディシスがしたように鏖殺の洗礼をその名に与えなくてはならないのだろうか?

 それに、もしシャルニーが真実を口にしていたとすれば、成功は覚束ない。

 斯様に、政治的危機から見て、王妃としての苦しみは如何ばかりであったろうか。考えているうちにいつしか、藪を踏んづけて蛇を起こしてしまったように、愛されるあまりに愛を疑う女としての絶望が苦しみの奥から浮かび上がって来るのを感じていた。

 既に見たようにシャルニーの口振りには自信ではなく諦念が滲んでいた。シャルニーも例に洩れず、王妃と同じカップから浴びるほどの誹謗中傷を飲んだのではないか? 昨日までは蔑まんばかりに無視していた妻のアンドレに、初めて優しい言葉を用いていたのではないか? 妻がまだ若く今も美しいことに気づいたのではないか?

 そう考えただけで、蛇に咬まれたような激しい痛みを覚え、政治的な危機など心に受けた悲しみに比べれば物の数ではないことに気づいて愕然とした。

 危機を前にしても動じなかったのに、悲しみを感じて心を動かされていた。王妃として冷静且つ中立的に正面から危機を見据えながら、女としては坐していた椅子から憤然として飛び上がっていた。

 苦しみとは無縁だった人間の運命のすべてが、この夜の精神状態に表れていた。

 危機と悲しみから同時に逃れるにはどうすれば良いか? ひっきりなしに寄せては返す苦悶に苛まれながら、王妃は自問した。王侯暮らしを捨てて、質素に生きる幸せを選ばなくてはならないのだろうか? 作り物ではないトリアノンと山小屋に、平穏な湖に、酪農という素朴な喜びに、戻らなくてはならないのだろうか? 飽くまで家臣として留まろうとする忠実な者たちが利権を主張してくれれば、僅かばかりの断片くらいは手に入れることも出来るだろうが、それを除けば、ばらばらになった王権の欠片を国民が分け合おうとするのを、黙って見ていなくてはならないのだろうか?

 嗚呼! ここでまた、嫉妬という名の蛇がさらに深く牙を突き立てた。

 幸せとは何ぞ? 愛を拒まれるという辱めを受けて幸せになれるのだろうか?

 幸せとは何ぞ? 英雄としては威厳の足りぬ、国王というつまらぬ夫のそばにいて、幸せだろうか?

 幸せとは何ぞ? 最愛の妻の許、相思相愛の妻の許で幸せをつかむシャルニーの許にいて、幸せだろうか?

 こうした想いが哀れな王妃の心に火をつけた。火をつけられたのは、自分の火葬台などではなく、愛に死んだディドーを焼き尽くす燃えさかる松明だった。

 だが焼けつくような拷問のさなかにも、安らぎの光が見えた。おののく苦悶のさなかにも、喜びを見出せた。無限の愛を持つ神は、善のありがたみを実感させるためだけに悪を創造したのだろうか?

 アンドレは王妃にすべて打ち明けた。人生の汚点を恋敵に告白した。アンドレは目に涙を浮かべ、顔を伏せ、自分には誠実な男による愛と崇拝を受ける資格などないのだと訴えた。だからアンドレがシャルニーに愛されることなどないのだと。

 だがシャルニーは何も知らなかった。トリアノンの惨事のこともその結果のことも、これからも知らないままだろう。つまりシャルニーにとって、あの惨事は存在しないに等しい。

 そんなことを考えながら、意識の鏡に映る、衰えてしまった美しさを、失われてしまった明るさを、過ぎ去ってしまった若々しさを、見つめていた。

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