翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 32-9

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「さあ陛下」ジルベールは王妃の心に生じていることをはっきり見抜いていた。「おわかりいただけますね、誰にも知らせず隠していることはもちろん、陛下ご自身すら気づいていないことも、容易く知ることが出来るのです。陛下の指が支えを求めて本能的に伸ばしているその椅子の上に、陛下を容易く横たえることが出来るのです」

「やめなさい!」王妃がぞっとして叫んだ。名づけようもない震えが心にまで伝わって来た。

「この私が唱えたくない言葉を心の中で唱えたとしたら、意思を曲げずに明らかにしたなら、陛下は私の力に打たれて倒れてしまうことでしょう。お疑いですか? お疑いにならないことです。私のことを試してみようと思っていらっしゃるのかもしれませんが、試したりしようものなら……いけません、よもやお疑いではありませんね?」

 王妃は倒れそうになって、息をあえがせ、胸を波打たせ、我を失って椅子の背にしがみつき、絶望に駆られながら無意味な抵抗を続けた。

「陛下」ジルベールはなおも続けた。「このことだけはわかっていただきたいのですが、この私が臣下の中でも陛下にもっとも敬服し献身し低頭している人間でなければ、恐ろしい経験をしていただいてでも説得するところです。怖がる必要はありません。王妃の御前にも増して女性の前では敬意を失したりはいたしませんから。自分の考えていることが陛下のお考えと触れ合うと思うだけで身体の震えが止まりませんし、陛下のお心を乱そうとするくらいなら死を選びます」

「おやめなさい」王妃は三歩と離れていないところに立っているジルベールを押しやろうとでもするように腕を振り回した。

「それなのにこの私をバスチーユに閉じ込めたのです。バスチーユに討ち入られたのを残念に思っていらっしゃるのも、バスチーユに討ち入って扉を開いたのが庶民だからでしかありません。個人的には何の恨みもない人間に、憎しみにたぎらせた目をお向けになったのです。おやおや、先ほどまで抑え込んでいた力を緩めてからというもの、息を吹き返した途端に疑いを新たになさらないとも限らないようですね」

 言葉に違わず、ジルベールが目と手の力を止めてからというもの、マリ=アントワネットは、真空ポンプ内で窒息しかけている鳥がそこから抜け出して歌声を取り戻しまた空を飛ぼうとするように、必死になって立ち上がっていた。[*5]

「まだお疑いですね。嘲笑い、軽蔑しておいでだ。いいでしょう! 心をよぎった恐ろしい考えを言わせていただきます。こんなことをしようとしていたところでした。陛下が心の奥深く仕舞い込んでいる苦しみや、隠し持っている秘密を、力ずくで打ち明けていただこうと思っていたのです。陛下がお触れになっているそのテーブルの上で今言ったような秘密を書いていただいた後で、陛下の意識を戻して目覚めさせてから、ご自身の筆跡であることを確認していただき、疑義を差し挟んでいらっしゃる力に何ら出任せなところなどないことを証明しようとしていたのです。それからどれだけ甚だしく我慢を重ねたかを、そうです、陛下が今さっき侮辱なさった人間がどれだけ寛大かを、侮辱する権利も理由もわずかなりとも持たないというのに陛下が一時間前から侮辱なさっている人間が、どれだけ寛大なのかを、証明しようとしていたのです」

「だったら眠らせてみればいい! 眠っている間に口を利かせてみればいい!」王妃は真っ青になって声をあげた。「やってみたら如何? それがどういうことかご存じなの? 脅した結果どうなるのかおわかり? 大逆罪ですよ。おわかりですか? わたしがひとたび目を覚まし、意識を取り戻したが最後、死罪を言い渡すような罪なのですよ」

「陛下」ジルベールは昂奮のあまり逆上している王妃を見つめながら答えた。「咎めたり脅したりするのはまだお控えになって下さい。確かに私は陛下を眠らせていたことでしょう。確かに女の秘密をすっかり聞き出していたことでしょう。ですがこうした状況の下では断じてありませんし、王妃と臣下という立場や、女と見知らぬ男という立場で二人きりおこなうものでも決してありません。王妃を眠らせていたはずなのは間違いありませんし、これほど簡単なこともありませんが、証人もなしに眠らせようとしたり口を利かせようとしたりは絶対にいたしません」

「証人?」

「ええ、陛下の言葉や身振りを残らず見聞きしてくれる証人です。それから起こるであろう場面の、疑う気持をわずかすら残さず陛下から奪い去るであろう場面の、どんな細かいところも見逃さずにいてくれる証人です」

「証人ですって?」王妃はぎょっとしたように繰り返した。「誰が証人になるというのです? いいですか、罪が二倍になるのですよ、証人を用意した場合、共犯者を持つことになるのですから」

「その証人が国王その人だったなら?」

「国王ですって!」マリ=アントワネットが声をあげた。催眠状態で告白させられると聞いた時よりもさらに激しく怯えているのを隠すことは出来なかった。「ジルベールさん!」

「国王です」ジルベールは冷静に話を続けた。「国王、あなたの夫、あなたの支援者、あなたを守って然るべき保護者です。あなたが目覚めた時に、国王がお話しして下さることでしょう。あまたの君主の中でももっとも尊敬されている方に己の科学を実践してみせることに、私が如何に敬意と誇りを感じていたかを」

 言い終えると、ジルベールは王妃にたっぷり考える時間を与えた。

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 04 | 2017/05 | 06
    S M T W T F S
    - 1 2 3 4 5 6
    7 8 9 10 11 12 13
    14 15 16 17 18 19 20
    21 22 23 24 25 26 27
    28 29 30 31 - - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH