翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 35-5

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「そうです。わたしたち二人が夜中に、かすかな物音にも怯え惑い、口さがない者たちの目を盗み、二匹の飢えた二十日鼠のように誰もいない廊下を走り回っているのが見えたはずです。カンパン夫人は扉を三つとも閉め、一番内側の扉の隙間に布を詰めて塞ぎました。わたしのドレスを掛けておく壁際の洋服台に、二人して胸当て(le plastron)を掛けました。わたしはしっかりと、力を込めて、胸当て(la cuirasse)にナイフを突き立てました。すると刃が曲がって飛んでゆき、恐ろしいことに、床に突き刺さったのです」

「何だと!」

「お待ち下さい」

「穴は空かなかったのか?」

「続きをお聞き下さい。カンパン夫人が刃を拾って下さり、『お力が充分ではございませんでした。手が震えておいででしたから。私ならもっと強く刺せます』。そう言ってナイフを握り、壁際の洋服台に力一杯突き立てると、ナイフの刃は網の目の上で綺麗に折れてしまいました。この二つが刃の欠片です。残った部分は短刀にしてお返しいたします」

「想像以上だな。網目は破れなかったのか?」

「一番上の鎖にかすり傷がついた程度です。隣り合って三つあります、如何ですか」

「見てみたい」

「ご覧下さい」

 王妃は素早く国王の服を脱がせ、自分の考えと偉業を国王に感心してもらおうとした。

「ここに少し傷があるようだな」国王は表面にある一プスほどの凹みを指さした。

「それは拳銃の弾です」

「弾丸の入った拳銃を撃ったのか?」

「潰れて黒いままの弾丸をお見せいたします。これで確実に生き延びられると確信していただけますか?」

「そなたは守護天使だ」国王はジレのホックを一つずつ外し、ナイフと弾丸の跡をもっとよく確かめようとした。

「胸当てを撃たなくてはならなかった時の、わたしの恐怖をご想像下さい。あれほどぞっとする音は聞いたことがありませんでした。そのうえ、あなたを守ってくれるジレを撃っているはずなのに、あなたを撃っているように感じていました。網の目に穴が空いているのではないか、わたしの努力も苦しみも希望も永遠に打ち砕かれてしまうのではないかと、恐ろしくて仕方がありませんでした」

「それでこそ我が妻だ」ジレのホックを外し終わったルイ十六世が言った。「感謝してもし足りない」

 そう言って胸当てをテーブルに置いた。

「どうなさったんです?」

 王妃はジレをつかんで再び国王に差し出した。

 だが国王は気品と威厳に満ちた笑顔を見せて答えた。

「それはいらぬよ。ありがとう」

「断るのですか?」

「断る」

「でも、よくお考え下さい」

「陛下……」カンパン夫人も懇願した。

「これは救世主なのですよ、命そのものなのですよ」

「かもしれぬな」国王が答えた。

「神がもたらしてくれた助けを拒むというのですか」

「もうよい」

「断るというのですか?」

「うむ、断る」

「殺されてしまいます!」

「よいかね、十八世紀の貴族は、従軍する際に羅紗の服と上着とシャツで弾丸に立ち向かってゆくのだ。栄えある戦場に向かう際には、シャツしか身につけぬ。剣にはそれで充分だ。余はフランス第一の貴族だ。友たちと同じことしかせぬ。加えて言うなら、友たちが羅紗を着るのであれば、余にだけは絹を身につける権利がある。ありがとう、妻よ。ありがとう、王妃よ」

「嗚呼!」王妃は絶望と歓喜の入り混じった声を出した。「あの者たちが今のを聞いていてくれたら!」

 国王は慌てず騒がず服を着替え終えていた。それが勇敢な行為なのだと自覚している素振りも見せなかった。

「だったら滅びかけているのでは?」王妃は呟いた。「そんな瞬間を誇らしいと感じてしまうような君主制は?」

 
 第35章終わり。第36章に続く

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 06 | 2017/07 | 08
    S M T W T F S
    - - - - - - 1
    2 3 4 5 6 7 8
    9 10 11 12 13 14 15
    16 17 18 19 20 21 22
    23 24 25 26 27 28 29
    30 31 - - - - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2017年07月 (4)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH