アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
そうした考えに取り憑かれてしまったため、ジルベールが国王と話すのをやめた瞬間に、ビヨはジルベールに自分の思っていることを打ち明けた。
「ジルベールさん、どうして国王は国民の徽章(la cocarde nationale)をつけてないんでしょうね?」
「そうだねビヨ、きっと国王は新しい徽章があるのを知らないのか、それとも自分の徽章こそ国民の徽章に相応しいと考えているんじゃないかな」
「何言ってんですか、国王のは白くて俺らのは三色だからじゃありませんか」
「早まっちゃいけない」新聞の言葉に軽々しく飛びつこうとしたビヨを、ジルベールが止めた。「国王の徽章はフランス旗のように白いけれど、それは国王のせいじゃない。徽章と旗は国王が生まれる前から白かったんだ。しかもね、ビヨ、旗はその役目をしっかりと果たして来たし、白い徽章だってそうだった。シュフラン執行官(bailly de Suffren)がインド半島にフランスの旗を再び掲げることに成功した時にも、帽子には白い徽章が輝いていた。ダッサス(d'Assas)も帽子に白い徽章をつけていた。それがために夜中ドイツ人に気づかれても、奇襲されて味方を失うよりは自分が殺される方を選んだ。サックス元帥(Maréchal de Saxe)がフォントノワでイギリスと戦った時にも、帽子には白い徽章が輝いていた。それから、ロクロワ、フライブルク、ランス(à Rocroy, à Fribourg et à Lens)で帝国軍を破ったコンデ公の帽子にも白い徽章があった。これが白い徽章の果たして来たことなんだ、ビヨ。しかもまだこれだけじゃない。それに引き替え国民の徽章(la cocarde nationale)はいずれラ・ファイエットが予言したように世界を駆け巡ることになるだろうけれど、今はまだ何かを果たすだけの時間がなかった。出来たのが三日前なのだからね。このまま何もせずじまいだなんてことはない。つまるところ、まだ何も果たしていないということは、何か果たすのを待つ権利を国王に与えるということなんだ」
「国民の徽章がまだ何も果たしていないってのはどういうことですか?」ビヨがたずねた。「バスチーユを占拠しなかったとでも?」
「そんなことはない」ジルベールは悲しげに答えた。「君は正しいよ、ビヨ」
「だったら決まってまさぁ」ビヨは勝ち誇って断言した。「国王は国民の徽章をつけるべきじゃありませんか」
ジルベールがビヨの脇腹を肘で小突いた。国王が耳を傾けていることに気づいたのだ。声を潜めた。
「気は確かか、ビヨ? 何のためにバスチーユを占拠したんだ? 王権に抗うためだと思っていたよ。すると君は、君の勝利の記念品と国王の敗北の証を、国王の身につけさせたいのか? 正気じゃない! 国王は優しく善良で率直な人だ、そんな人を偽善者にさせたいのか?」
「ですけどね」ビヨは口調を和らげたものの、完全に譲歩したわけではなかった。「厳密に言えばバスチーユの占拠は国王に抗ったわけではなく、専制政治に抗ったわけですからね」
ジルベールは肩をすくめた。それには、下にいる者を踏み潰さぬようにという、上に立つ者の配慮が見えた。
「そうですとも」ビヨが昂奮して先を続けた。「俺らが戦った相手は国王じゃない。幕臣(satellites)なんだ」
当時、政治の上では兵士(soldats)と言わずに幕臣(satellites)と言った。芝居の中では馬(cheval)と言わずに駒(coursier)と言うように。
「そのうえにですね」ビヨがもっともらしい顔で話を続ける。「国王は俺らのところにいらっしゃる以上、幕臣とは対立する。国王が幕臣と対立するなら、俺らとは仲良くするってことです。俺らの幸せと国王の名誉のために、俺らは行動を起こしたんです、そしてこの俺らが、バスチーユで勝利を収めたんです」
ジルベールは国王の顔をよぎったものと心をよぎったものとの間にどのように折り合いをつければよいのかわからずにいた。
国王は国王で、ざわついた行列の囁きの中でも、自分のそばまで踏み込んで来た議論の言葉を拾い始めていた。
ジルベールは国王が議論に注意を傾けていることに気づいて、ビヨが踏み込んだ滑りやすい場所からもっと滑りにくい場所に連れ出そうと必死だった。
突然、行列が止まった。ラ・レーヌ大通り、旧コンフェランス門、シャン=ゼリゼーにたどり着いたのだ。
そこにはバイイ新市長を筆頭とした選挙人と市役人の代表団が整列していた。さらには聯隊長(un colonel)率いる三百人の衛兵と、第三身分から顔を連ねたのが明らかな国民議会の議員も少なくとも三百人いた。
選挙人が二人、上手く力とコツを合わせて金箔張りの大皿を傾かないように支えている。大皿の上には巨大な鍵が二つ、アンリ四世時代のパリ市の鍵が戴せられていた。
斯かる迫力ある光景を目の当たりにして、お喋りをしていた者たちもぴたりと口を閉じた。人込みの中にいる者たちも行列の中にいる者たちも、状況の違いはあれど皆それぞれに、今から交わされるであろう会話に耳を傾けようとした。
著名なる研究者にして優れた天文学者であるバイイは、意に反して代表にされ、意に反して市長にされ、意に反して演説を任されてしまい、栄えある大演説の用意をしていた。この演説はまず前置きとして、厳格なる修辞の駆使された、チュルゴー氏の政権就任からバスチーユ襲撃に至るまでの、国王への讃辞で始まっていた。如何に雄辯が優れた結果をもたらすものであろうと、事態の主導権を国王にもたらすには程遠かった。哀れな君主は事態を最大限甘受していた。これまで見て来たように、渋々と甘受していたのである。
バイイは演説に満足していた。とある出来事のせいで――バイイ自身が回想録にこのことを書いているが――とある出来事のせいで、用意していた前置きとは違う形の、なかなかに印象的な前置きが生まれたのである。そのうえ事実に基づいた名言至言を手ぐすね引いて期待している人々の記憶に残されたのはその一事のみであった。
バイイは市役人と選挙人と共に前に進みながら、国王に手渡す予定の鍵の重さに不安を感じ始めた。
「どうだろう」バイイは笑って話しかけた。「この記念品を国王にお見せした後でパリに持ち帰るのは疲れるとは思わんかね?」
「ではどうするおつもりで?」選挙人の一人がたずねた。
「そうだな、君たちにあげるか、そうでなければ木の根元にある溝にでも捨ててしまいたいね」
「何てことを」選挙人が憤慨して言い返した。「この鍵がパリ攻囲後にパリ市からアンリ四世に贈られたものだということをご存じないのですか? 大変に貴重な、歴史的な遺物ですよ」
「その通りだ。この鍵はアンリ四世に贈られた。パリの征服者たるアンリ四世にね。それがルイ十六世に贈られる。ルイ十六世は……ううん、いや待てよ!」バイイは独り言ちた。「これはいい対句が書けるな」
すぐに鉛筆を握って、用意していた演説の上に以下の前置きを書き足した。
『畏れながらこうして陛下にパリ市の鍵をお持ちする運びとなりました。この二つの鍵こそアンリ四世に贈られたものであります。アンリ四世はパリ市民を取り戻しました。そして今、パリ市民は国王を取り戻したのです』
美しく正確な文章が、パリ市民の心に植えつけられた。ありとあらゆるバイイの演説や、バイイの著作まで含めてみても、後の世に残ったものはこれだけであった。
ルイ十六世は同意の印にうなずいたものの、真っ赤になっていた。というのも敬意と美辞麗句の下に隠された諷刺や皮肉に気づいていたからだ。
だから小声で呟いた。
――マリ=アントワネットならバイイ氏によるこうしたおべんちゃらに騙されはせぬだろうし、余とは違った対応をするであろうな。
このような事情により、ルイ十六世はバイイ氏の演説の冒頭に気を取られ過ぎていたせいで、結びをまったく聴いていなかった。選挙人代表ドラヴィーニュ氏(M. Delavigne)の演説に至っては、始めから終わりまでまったく聴いていなかった。
だがそれでも国王は、演説が終わると、自分を嬉しがらせようとした演説に対し喜んでいないように見えるのはまずいと思い、堂々たる言葉をもって応えた。演説の内容に何ら非難めいたことも言わず、パリ市と選挙人の敬意を充分に受け止めた。