翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』61-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十一章 ピトゥが農家を出て唯一にして真の故郷アラモンに戻ろうと決意する次第

 一方ビヨ夫人は使用人の長という立場をとうに受け入れていたので、体裁を飾ったり刺々しさを見せたりすることもなく進んで仕事に戻っていた。斯くして農家の上下関係は一瞬だけ乱されたものの、蜜蜂の家庭のようにまたせわしなく動き始めていた。

 馬の用意を待つ間、カトリーヌが戻って来てピトゥを横目で眺めた。ピトゥの身体は動くことがなかったが、首だけはカトリーヌを追って風見鶏のように動いていた。カトリーヌは寝室に姿を消した。

 ――カトリーヌは何しに寝室に戻ったんだろう?とピトゥは考えた。

 哀れなピトゥ。何をしに? 髪を整え、白い縁なし帽をかぶり、一等見映えのよい絹靴下を履きに戻ったのだ。

 カトリーヌは身繕いの仕上げを終えると、馬が軒下の地面を蹴っているのを耳にして寝室を出て、母親に口づけをしてから出発した。

 カトリーヌが出がけに見せた一瞥にピトゥは納得できなかった。無関心と憐れみの相半ばするその目つきを浴びて、ピトゥは動くこともままならず混乱したままどうすることも出来ずにいた。

 カトリーヌと再会を果たしてからというもの、カトリーヌなくしては生きて行けそうになかった。

 さらに加うるに、そうした重く気怠い気持の奥には、懸念のようなものが時計の振り子のように規則正しく行き来していた。

 無邪気な人間というものは、どんな物事も同じように考えるものだ。そうした半端な人間でも、ものを感じるのは他人と変わらない。ただし感じるだけで分析はしない。

 分析するには楽しんだり苦しんだりする経験がいる。人間の心という深淵の奥底で沸き立つ感覚を覗くためには、何らかの刺戟を経験する必要があった。

 だから無邪気な老人などはいない。

 ピトゥは遠ざかってゆく馬の跫音を耳にして戸口に駆け寄った。カトリーヌが農場からラ・フェルテ=ミロン(La Ferté-Milon)までの脇道をたどり、丘のふもとまでたどり着いたのが見えた。丘の頂は森に隠れていた。

 ピトゥは戸口から未練と敬意の詰まった別れを捧げた。

 だが手と心を用いて別れを告げるや否や、ピトゥはあることを考え始めた。

 一緒に来るなとは言われたが、追って来るなとは言われなかった。

 顔も見たくないと言うことは出来ても、見るなと言うことは出来なかっただろう。

 つまりピトゥはこう考えたのである。すべき仕事がない以上は、カトリーヌがたどろうとしている道を、森を抜けて追いかけられない理由など何もない。そうすればピトゥは相手から見られることなく木の間隠れに遠くからカトリーヌを眺めていられるだろう。

 農場からラ・フェルテ=ミロンまでは一里半しかない。行き帰りの一里半ずつなどピトゥにとっては物の数ではない。

 しかもカトリーヌは街道に出るために森を迂回している。森を突っ切れば四半里は儲けることが出来る。そうなれば行き帰りのために残っているのは二里半だけということになる。

 親指小僧から身ぐるみ剥いだような人間にとって、或いは親指小僧が人食い鬼から奪った七里の長靴を奪ったような人間にとって、二里半という距離などは踏破すべき道のりのほんの序の口に過ぎない。【※le Petit-Poucet(おやゆび小僧)。シャルル・ペローの童話。両親に捨てられた小さな子供が機知によって人食い鬼から七里の長靴を奪い財宝を手に入れて家に戻り幸せに暮らす。】

 ピトゥは心を決めるやすぐに実行に移った。

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 05 | 2018/06 | 07
    S M T W T F S
    - - - - - 1 2
    3 4 5 6 7 8 9
    10 11 12 13 14 15 16
    17 18 19 20 21 22 23
    24 25 26 27 28 29 30

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2018年06月 (3)
  • 2018年05月 (4)
  • 2018年04月 (4)
  • 2018年03月 (5)
  • 2018年02月 (4)
  • 2018年01月 (4)
  • 2017年12月 (5)
  • 2017年11月 (4)
  • 2017年10月 (4)
  • 2017年09月 (5)
  • 2017年08月 (4)
  • 2017年07月 (5)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH