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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』70e

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 第七十章 突然の終幕

 悲しみを宴会で塗り込めれば、悲しみがひときわ強まるか完全な慰めとなるかのどちらかだ。

 二時間後にピトゥが気づいたのは、悲しみが増してはいないということだった。

 宴会の参加者がもうみんな立てなくなった頃に、ピトゥは席を立った。

 スパルタ人の節制について一席ぶったが、誰もが酔いつぶれていた。

 そこでピトゥは考えた。誰もがテーブルの下でいびきをかいているような時には外をぶらついて来るのがいい。

 名誉のために言っておくと、少女たちは頭や手足や心ではっきりとわかっていたわけではないもののデザート前にそっと立ち去っていた。

 勇者の中の勇者ピトゥは幾つかのことを考えざるを得なかった。

 これだけの愛情や美女や贅沢も、ピトゥの心や記憶には何一つ残らなかった。残っているのはカトリーヌの最後の眼差しと最後の言葉だけだった。

 記憶を覆う陰影越しに、ピトゥはカトリーヌのことを何度も思い出していた。自分の手に触れたあの手のことや、親しげに肩をかすめたあの肩のことや、打ち解けてお喋りを重ねる中で見せたあの色気や可愛らしさのことも。

 素面の時には気にしていなかったものに上気せて(ivre)、ピトゥは我に返ったように辺りを見回した。

 ピトゥは暗がりに問いかけた。愛と優しさと恵みに染め抜かれているような女性に対し、どうしてあれほど厳しくなれたのか。生まれた時から叶わぬ夢を見ていられたような女性に対し、どうしてあれほどつらく当たれたのか。そもそも叶わぬ夢を持たぬ者などいるだろうか?

 ピトゥは自問した。どうしたら孤独で醜男の貧しい自分が村一番の美少女に恋愛感情を起こさせることが出来たというのか。ましてやすぐそばで美男の領主という村一番の孔雀が羽を広げているというのに。

 それから自分にも長所はあると言い聞かせ、人知れず目に見えぬ香りを放つ菫になぞらえた。

 香りが目に見えぬのは確かにその通りだが、真実とはいつだって酒の中にあるものだ。それがアラモンの酒であろうと同じこと。【※「la vérité est dans le vin」。ラテン語「In vino veritas」で知られる諺。「酒の中に真実あり」。人は酒に酔うと本音を洩らす、の意】

 ピトゥはこうした哲学のおかげで非道い状態から快復し、カトリーヌに対して恥ずべき振舞とは言わないまでも場違いな振舞をしたことを正直に認めた。

 あんなやり方では嫌われて当然だ。計算が完全に間違っていた。ピトゥが性悪(mauvais caractère)なところを見せようものなら、シャルニーに心を奪われているカトリーヌは、ピトゥの素晴らしい長所を認めるまいとする口実にするだろう。

 ということは善良(un bon caractère)だということをカトリーヌに証明しなければならない。

 どうやって?

 女たらしならこう言うだろう。――騙されてもてあそばれたんだ、今度はこっちがもてあそんで嘲笑ってやろう。

 ――軽蔑してやろう。恥知らずな行為でもしたように愛の行為を咎めてやろう。

 ――怖がらせ、恥を掻かせ、逢い引きの道には棘があると気づかせてやろう。

 ピトゥは寛容で高邁な人間だったが、酒と喜びのせいで火照り切っていたので、自分のような男を振ったことをいつかカトリーヌに後悔させてやろう、ほかにもいろいろなことを考えていたといつか打ち明けてやろうと思いついた。

 加えて述べておくと、潔癖なピトゥには美しく清らかで誇り高いカトリーヌしか認めることは出来なかった。イジドールにとっても、レースの胸飾りや拍車付きの長靴に仕舞われた革製キュロットに微笑みかけるような小娘とは別物だったことだろう。

 もしもカトリーヌが胸飾りや拍車に熱を上げていたとしたら、そのことが上気せ切ったピトゥにどれだけの痛みをもたらすことになっていただろうか。

 いつの日にかイジドールは都会に行って何処かの伯爵夫人を娶り、カトリーヌのことなどもう見向きもせずに物語は終わることになるのだろう。

 年寄りを若返らせる酒というものが、アラモン国民衛兵の司令官にこのような老成した考えを吹き込んだのだった。

 そこで自分が善良(bon caractère)な人間だということをカトリーヌにきちんと証明するために、夕べの失言を一つ一つ訂正しようと決めた。

 そのためにはまずカトリーヌを捕まえなくてはならない。

 上気せて酔っ払った人間、しかも時計を持たない人間には時間など存在ない。

 ピトゥは時計を持っていなかったし、バッカスやその愛弟子テスピスのように酔っ払ってからは家の外に出かけていなかった。【※テスピスは古代ギリシアの劇作家・俳優。ディオニュソス祭でディオニュソスに捧げる悲劇を演じた。ディオニュソスはローマ神話のバッカスに相当】

 カトリーヌと別れたのが三時間以上前だということも、カトリーヌがピスルーに戻るのに遅くとも小一時間しか掛かからないということももう思い出せなかった。

 ピトゥは森の中を駆け抜け果敢に木立を突っ切り、踏み固められた道の端々を避けてピスルーを目指した。

 木立を抜けて、藪を抜けて、荊の茂みを抜けて、ドルレアン公の森を足で踏みつぶし杖で掻き分けては、森からしっぺ返しを喰らっていた。

 カトリーヌの話に戻れば、カトリーヌは物思いと悲しみに沈んで母にくっついて家に戻っているところだった。

 農場から少し離れたところにある沼まで来ると、道が狭くなっているため、これまでは並んで歩いていた馬を一頭ずつ通さなくてはならなかった。

 ビヨ夫人が最初に通った。

 カトリーヌが通ろうとした時、かすかな口笛の合図が聞こえた。

 振り返ると暗がりの中にイジドールの従僕がかぶっているひさし帽の飾り紐が見えた。

 母親はそのまま進んだ。というのも農場のすぐそばだったため心配する必要もなかったからだ。

 従僕がカトリーヌに近づいた。

「お嬢様、イジドール様が今晩是非ともお会いしたいと仰ってます。十一時にご希望の場所でお待ちいただけますか」

「不幸でもあったの?」

「存じません。ですが今宵パリから黒い封印のある手紙が届いておりました。もう一時間も前のことです」

 ヴィレル=コトレの教会が十時の鐘を知らせていた。時鐘の一つ一つが青銅の翼の上を震えながら運ばれ、空中を通り過ぎて行った。

 カトリーヌは周りに目を遣った。

「そうね、この場所は暗くて人気もないし、此処で待つことにする」

 従僕は馬に跨り、駆け足で立ち去った。

 カトリーヌは震えながら母を追いかけ農場に戻った。

 こんな時間に伝えなくてはならないこととは、不幸でないなら何だというのだろう?

 逢瀬の約束ならもっと華やいだ形を取るものだ。

 だが問題はそこではない。イジドールは夜中に会う約束をしたがっていた。時間にも場所にもこだわらず。しようと思えば真夜中にヴィレル=コトレの墓場で待ち合わせることだって出来ただろう。

 だからあれこれ考えようともせずに母親に口づけをすると、眠ろうとするように寝室に引っ込んだ。

 母親も疑うことなく服を脱いで床についた。

 もっとも、疑ったとしても何だというのか! カトリーヌこそ上に立つ家長ではなかったのか?

 寝室に引っ込んだカトリーヌは服も脱がず床にも入らなかった。

 カトリーヌは待っていた。

 十時半の鐘が鳴り、十時四十五分の鐘が鳴った。

 四十五分の鐘の音を聞くとカトリーヌは灯りを消して食堂に降りた。

 食堂の窓は道路に面していた。カトリーヌは窓の一つを開けて素早く地面に飛び降りた。

 また中に戻れるように窓は開けっ放しにし、鎧戸を合わせるだけにしておいた。

 そうして暗闇の中を約束の場所まで走った。到着した時には心臓が跳ね、足は震えていた。火照った顔と破裂しそうな胸を押さえてカトリーヌは待った。

 さほど待たぬうちに、馬の駆ける音が聞こえて来た。

 カトリーヌは前に進んだ。

 イジドールがそばにいた。

 従僕が後ろに控えている。

 イジドールは馬に乗ったまま腕を伸ばしてカトリーヌを鐙に乗せ、口づけをしてこう言った。

「カトリーヌ、昨日ヴェルサイユでジョルジュ兄さんが殺された。オリヴィエ兄さんに呼ばれたから、行かなくてはならない」【※ジョルジュが死んだのは10月6日。現在はピトゥがビヨたちと別れた7月下旬~8月初旬頃から2か月強(=銃の訓練期間)経っているので、平仄は合う】

 痛ましい悲鳴を響かせて、カトリーヌはイジドールの腕を千切れるほど強くつかんだ。

「ジョルジュが殺されたんだもの、あなたも殺されてしまう」

「何が起こっていようと行かなくちゃ。兄が待っているんだ。カトリーヌ、どれだけ愛しているかわかるだろう」

「行かないで!」カトリーヌには一つのことしかわからなかった。イジドールが行ってしまう。

「でもカトリーヌ、名誉のためだ、ジョルジュ兄さんのためだ、復讐のためなんだ!」

「そんなの耐えられない」

 カトリーヌはイジドールの腕の中にくずおれて、冷え切った身体をひくひくと震わせた。

 イジドールの目から涙がこぼれ、カトリーヌの首筋に落ちた。

「泣いてるの? ありがとう、愛してくれて」

「もちろんだ、愛しているよ。でもわかって欲しい、兄から『来い』という手紙が届いたんだ。言う通りにしなくては」

「だったら行っていいよ。もう引き留めない」

「最後に口づけをくれないか」

「さようなら!」

 カトリーヌも事態を受け入れた。イジドールが兄の命令に逆らえないことはわかっていたので、観念してイジドールの腕の中から地面に滑り降りた。

 イジドールは目を逸らして溜息をつき、少しだけ躊躇っていたがすぐに絶対的な命令に従って馬を走らせた。最後にカトリーヌに別れの言葉をかけてから。

 従僕もその後から畑を通り抜けて行った。

 カトリーヌは地面に取り残され、狭い道を塞ぐようにその場に倒れ込んでいた。

 その直後、ヴィレル=コトレの方からやって来た一人の男が丘の上に姿を見せた。大股で急いで農場の方に歩いているうち、舗道に横たわっている意識のない肉体にぶつかった。【※農場のあるピスルーはヴィレル=コトレのすぐ南。ピトゥはアラモンからピスルー目指してずっと南下していた】

 男は平衡を崩してよろめいて倒れ込み、動かぬ手に触れてようやくそれが誰のものなのか気づいた。

「カトリーヌ! カトリーヌが死んでしまった!」

 その恐ろしい叫び声を聞いて、農場の犬たちも吠え始めた。

「誰がカトリーヌを殺したんだ?」

 がたがたと震え、真っ青になって縮こまり、動かぬ身体を膝の上に横たえて坐り込んだ。

 幕

 
 
 これにて『アンジュ・ピトゥ』完結です。

 本書が唐突な終わり方をした事情については、次作『シャルニー伯爵夫人』の前書きに説明があります。デュマによれば、フィユトン(新聞小説)が風紀に悪影響を与えていると考えられたため、一作につき一サンチームの印紙が課されることになり、社主のジラルダンから作品を短くカットするよう促されたという事情があったそうです。

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コメント

東様、「アンジュ・ピトゥ」翻訳終了、本当にお疲れ様でした♪(ノ⌒∇)ノ*:・'゚☆。.:*:・'゚★゚'・:*:.。.:*:・'゚:*:・'゚☆。!!!!!
そしてありがとうございました゚☆,。・:*:・゚★o(´▽`*)/\(*´▽`)o゚★,。・:*:・☆゚!!!!!!

まさにタイトル通り『突然の終幕』でしたね(苦笑)。

東様のおかげでようやく「シャルニー伯爵夫人」の第1章の話につながりました\
≧▽≦)/!

東様が最終稿を上げ次第、また印刷させていただきます<(_ _)>。

引き続き、「シャルニー伯爵夫人」もよろしくお願いいたします。東様の翻訳を心待ちにしております♥
【2018/12/22 21:35】 URL | マトリョーシカ #-[ 編集]
マトリョーシカ様

 長いあいだ拙訳におつきあいくださりありがとうございました。

ここまできたら『シャルニー伯爵夫人』もやりたいですね。
しばらくは『バルサモ』改訳の続きやほかの作家などを挟んでから、いつか取り組みたいと思います。

 その折りはまたよろしくお願いいたします。
【2018/12/23 12:42】 URL | 東 照《あずま・てる》 #-[ 編集]
このコメントは管理者の承認待ちです
【2020/05/26 20:12】 | #[ 編集]
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