翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 158

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十八章 誘拐

 ひどい疲れに襲われ、眠ってそれを癒している間に、心は二つの力を勝ち取ったようだ。安全な状況を理解し、死ぬほど憔悴している肉体に目を配っていた。

 意識を取り戻したアンドレが目を開けると、傍らに女中が眠っている。火床が元気に爆ぜる音を聞き、部屋が静けさに包まれているのを感じた。何もかもが自分と一緒に眠っていたようだった……

 智性はまだ目覚めきってはいない。さりとて眠りに就いているわけでもない。そんな半醒半睡の状態をだらだらと引き延ばすのが心地よかった。疲弊した意識の中に感性が一つ一つゆっくりと戻って来るに任せよう。理性のすべてが突然戻ってしまうのが怖いわけではないけれど。

 不意に、遠くでかすかな泣き声のするのが、厚い壁を通して聞こえて来た。

 あれほど苦しんでいた震えが甦る。壜の中でたゆたっていた澱が衝撃で濁るように、数か月前から無垢と善意を濁らせていた憎しみが甦った。

 その瞬間から、眠りも安らぎもなくなった。忘れられない憎しみを覚えていた。

 だがたいていの場合、感情の力も肉体の力に比例する。アンドレに残されていたのは、フィリップと過ごした夜に見せた力がすべてだった。

 赤ん坊の泣き声が傷のように脳を穿ち、拷問のように脳を穿った……フィリップが思いやりからこの子を遠ざけたのだとすれば、残酷な命令を実行したりはしなかったのか……。

 幾ら悪いことを考えようとも、こんな状況ほど嫌悪を抱かせることなどない。アンドレはまだ見ぬこの子を憎んでいた。この子が形を表すのが怖かった。この子の死を望んでいた。それなのに、泣き声を聞くと心が痛んだ。

「辛いのだわ」とアンドレは考えた。

 それからすぐに自問する。

「あの子が辛がっているからどうだと言うのかしら……わたくしほど不幸な人間はいないのに」

 赤ん坊がさらに大きく辛そうな声をあげた。

 その声が不安な声を呼び覚ましたように感じられたことに気づき、見えない糸に引かれるように、泣きじゃくっている見捨てられた存在に向かって心が引っ張られるのを感じた。

 漠然とした予感が現実となった。この世の摂理が準備の一つを終えた。腹を痛めたという事実は強い吸引力を持っていた。こうして赤ん坊の僅かな動きにも母親の心は引き寄せられた。

「いけない。今あの子は泣き叫んでいる。天に向かってわたくしを恨んで泣いている。産まれて間もない赤子たちに、気持が届けられるような大きな声を、神様がお与えになったのだ……この子たちを殺して苦しみから救うことは出来るけれど、辛い思いをさせる権利などない……そんな権利があるのなら、そもそもこの子たちがこうして泣き喚くことなど神様も許しはしないはずだもの」

 アンドレは顔を上げて女中を呼ぼうとした。だが弱々しい声では眠っている女中を起こすことが出来なかった。いつの間にか赤ん坊も泣きやんでいた。

「きっと子守りが来たのだわ。扉の音が聞こえたもの……ほら、隣の部屋で足音がする……もう泣いてない……助けが来たのだとわかって、小さな心も安心したのでしょう。何てことかしら! あそこにいて子供の面倒を見ているのが母親なのでは?……僅かなお金で……わたくしの腹から産まれたあの子もやがて母を目にすることになるはず。そのうち、あれほど苦しんで命を与えたわたくしのそばを通りかかっても、わたくしには見向きもせずに、献身的な雇われ者に向かってわがままいっぱいに『お母さん!』と声をかけるのだわ。確かに恨みに感じているわたくしよりはよほど献身的でしょうけれど……そんなことさせるものですか……あれほど苦しんで、この子の顔を覗き込んでじっと見つめる権利を得たのだから……わたくしには愛してもらえるように世話をする権利があるし、立派な人だと思ってもらえるように犠牲を払い苦しみを舐める権利があるはずですもの!」

 アンドレは懸命に身体を動かし、力を振り絞って声をかけた。

「マルグリット! マルグリット!」

 女中がようやっと目を覚ましたが、身動きもせずに痺れたように椅子に沈んでいた。

「聞こえた?」

「はい、お嬢様、只今!」ようやく頭がはっきりとして来たらしい。

 マルグリットは寝台に近寄った。

「お飲物でしょうか?」

「いいえ……」

「只今の時刻ですね?」

「そうじゃ……ない」

 アンドレは隣の部屋の扉から片時も目を離さなかった。

「わかりました……お兄様がお戻りになったかどうかお知りになりたいのですね?」

 高慢な魂が弱々しく、そして熱く高潔な心が力強く、アンドレの願いと戦っていた。

「わたくしは……」アンドレがついに口を開いた。「わたくしは……その扉を開けなさい、マルグリット」

「かしこまりました……まあ寒い!……風が!……凄い風!……」

 アンドレの部屋にも風が吹き込み、蝋燭や燈火の炎を揺らした。

「子守りが扉か窓を開けっ放しにしているのではないかしら。見て来て、マルグリット……あの……子が寒がっているでしょうから……」

 マルグリットが隣の部屋に向かった。

「毛布でくるんで参りましょうか」

「いい……え!」アンドレの声は途切れがちだった。「ここに連れて来て」

 マルグリットが部屋の中で立ち止まる。

「その……フィリップ様が仰るには、赤ちゃんはあそこに寝かせておけと……お嬢様をご不快にさせたり昂奮させたりしないようにとのご配慮かと存じますが」

「連れて来なさい!」心が破けそうなほどの叫びだった。苦しみのただ中で乾ききった目から、涙がほとばしった。幼子たちの守護天使がそれを見ればきっと天国で笑顔を見せたに違いない。

 マルグリットが部屋に駆け込む。アンドレは坐ったまま両手で顔を覆っていた。

 マルグリットはすぐに戻って来たが、何が起こったのかわからないといった顔をしていた。

「どうしたの?」

「それが……どなたかいらっしゃったのですか?」

「どういうこと?……誰かとは?」

「赤ちゃんがいらっしゃいません!」

「さっき物音がしたけれど……足音が……あなたが眠っている間に子守りが来て……起こしたくなかったのだと……それよりお兄様は何処? 部屋を見て来て」

 マルグリットが慌ててフィリップの部屋に向かったが、誰もいなかった!

「変ね!」胸の動悸が激しくなっていた。「わたくしに会いもせずにまた出かけたのかしら……?」

「お嬢様!」

「何?」

「通りの扉が開きました!」

「確認して!」

「フィリップ様です、お戻りになりました……早く、早くお入り下さい!」

 確かにフィリップだった。後ろには粗末な毛糸の外套を纏った農婦が、家庭的な好ましい笑顔を見せている。女中は改めて歓迎の言葉を伝えた。

「アンドレ、戻って来たぞ」部屋に入るなりフィリップが言った。

「お兄様!……迷惑をかけてしまってごめんなさい! あら、そこにいるのは子守りの方ね……出て行ってしまったかと思っておりました……」

「出て行ったって?……今来たところだぞ」

「戻って来たと仰りたいの? だって……先ほど確かに聞いたんです、静かにとは言え歩いているのを……」

「どういうことだい。誰も……」

「ありがとう」アンドレがフィリップを引き寄せて、言葉の一つ一つをはっきりと口にした。「お兄様はわたくしのことをよくわかって下さってますもの。わたくしがこの子に会って……抱きしめるまでは、連れ出そうとはなさらなかったんでしょう……フィリップ、わかって下さって嬉しいわ……ええ、そうなんです、落ち着いて聞いて下さい、わたくし、この子を好きになれそうなんです」

 フィリップがアンドレの手をつかんで口唇を押し当てた。

「ここに連れて来てくれるよう子守りに伝えて……」若き母親はそう言った。

「それがフィリップ様、赤ちゃんはあそこにはいらっしゃいませんから」

「何だって? 何を言っているんだ?」

 アンドレが不安げに兄を見つめた。

 フィリップが女中の寝台に向かい、そこに誰もいないのを目にして恐ろしい悲鳴をあげた。

 アンドレは鏡に映ったフィリップの動きを追って、フィリップが青ざめ、腕を硬直させるのを見た。悲鳴に応えるように吐き出された溜息を聞き、真実の一部を悟った。アンドレは気を失って枕の上に倒れ込んだ。またもや不幸が起こるとは、しかもこれほど大きな衝撃だとは、よもやフィリップも想像していなかった。懸命になって、アンドレをさすり、慰め、涙を流し、ようやく意識を取り戻させた。

「赤ちゃんは何処?」アンドレが囁いた。「赤ちゃんは?」

 ――母親を助けなければ、とフィリップは考えた。「アンドレ、ぼくらも馬鹿だなあ。先生が連れて行ったのを忘れていたよ」

「先生が?」その声には疑いと希望が相半ばしていた。

「ああ、そうさ。そうだとも……ちょっと混乱していたんだ……」

「フィリップ、誓って本当なのね?……」

「アンドレ、ぼくが誠実なのはわかっているだろう……どうしてあの子が……いなくなるだなんて思ったんだ?」

 フィリップは子守りと女中に同意を求めるようにして作り笑いを浮かべた。

 アンドレはなおも言い募った。

「でも聞こえたんです……」

「何をだい?」

「足音が……」

 フィリップがぎょっとした顔を見せた。

「何を言っているんだ! 眠っていたんだろう?」

「いいえ、起きていました。聞こえたんです……聞こえたんです!……」

「そうか、じゃあ先生だよ。赤ん坊の具合が心配で、後で戻って来て連れて行こうとしたんだろう……そんな風に話していたからね」

「本当ね」

「本当に決まっているじゃないか……何でもないよ」

「でもそうしますと、あたしはここで何をすればよろしいのでしょうか?」子守りがたずねた。

「まったくだ……先生があなたのお宅で待っているはずだ……」

「あらまあ」

「先生のところに行くといい。さあ……マルグリットはぐっすり眠っていたから、先生の言ったことが聞こえなかったんだ……或いは先生が何も言おうとしなかったのかもしれない」

 アンドレが衝撃から立ち直り、落ち着きを取り戻した。

 フィリップは子守りを追い払い、女中を部屋に残した。

 それから明かりを手に取り、隣室の扉を丹念に調べ、庭の門が開いて雪の上に足跡があるのを見つけた……足跡をたどって門までたどり着いた。

「人間の足跡だ!……赤ん坊は攫われたんだ……何てことだ! 何てことだ!」

『ジョゼフ・バルサモ』 157

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第百五十七章 父なし児

 苦しみの日が、屈辱の日が、近づいていた。ルイ医師が頻繁に通う日数が増えても、フィリップが心を込めて優しく世話を焼いても、最期の刻が迫る死刑囚のように、アンドレは日に日に打ち沈んで行った。

 フィリップは気づいていた。アンドレが時々ぼうっとして震え……両の目が乾いていることに……何日もの間アンドレは一言も口を利かなかった。それが急に立ち上がって、自分自身から逃れようと――苛まれている苦しみから逃れようと――部屋を慌ただしく駆け巡った。

 とうとうある晩、アンドレがいつもより青ざめて感じやすくなっているのを見て、フィリップは医師にその夜のうちに来てもらえるよう遣いを送った。

 十一月二十九日のことだった。フィリップは食事が終わるとアンドレといる時間を出来るだけ引き延ばすことにしていた。辛く悲しい内輪の話を二人で話し合った。だが怪我人が傷を乱暴に触られるのを嫌がるように、アンドレはその話題を嫌がっていた。

 フィリップは灯りのそばに腰を下ろしていた。医師を呼びにヴェルサイユに向かっている女中が鎧戸を閉めるのを忘れていた為に、その灯りが反射して、初冬の寒さで庭の砂を覆っている雪の絨毯を穏やかに照らしていた。

 フィリップはアンドレの心が落ち着く時が来るまで待ってから、何の前触れもなく口を開いた。

「ねえ、心は決まったかい?」

「何について?」ため息は悲痛にまみれていた。

「それは……おまえの子供のことだよ」

 アンドレが身体を震わせた。

「もうすぐだろう?」

「おぞましい!」

「だけど驚かないよ、それが明日でも……」

「明日ですって!」

「今日でもおかしくないだろう」

 アンドレの青ざめ方が尋常ではなかったので、フィリップはぎょっとして、アンドレの手をつかんで口づけした。

 すぐにアンドレは落ち着きを取り戻した。

「お兄様、わたくしは惨めな魂を貶めるようなこうした偽善をお兄様と分かち合うつもりはありません。わたくしにとっては良かろうと悪かろうと偏見は偏見です。善なるものを疑い出してからというもの、悪なるものがわからないのです。ですから、これから申し上げるものの考え方を真面目に聞いていただく気がないのであれば、どうか狂人の言うことだと思ってあまり厳しくお咎めにならないで下さい。これから申し上げるのは、わたくしのたった一つの心そのもの。わたくしの思いをまとめたものです」

「おまえが何を望もうとも、何をしようとも、ぼくにとって誰よりも愛しく誰よりも大切な女であることに変わりはないよ」

「ありがとう、お兄様。お兄様が仰ったことが的を外している、とは申しません。わたくしは母親になります。それでもわたくしは信じております」アンドレは顔を赤らめた。「人間の出産とは植物が実を結ぶのと変わらないものであるべし、と神が望んでいることを――。果実は花の後にしか実りません。植物は花が開いている間に準備をして形を変えるのです。わたくしが思いますに、花、とはつまり、愛に当たるのではないでしょうか」

「その通りだね、アンドレ」

「わたくしは準備も変化もしておりません。畸形なのですわ。愛にも色欲にも溺れたことはなく、身体と同じく心も魂も処女《おとめ》なのですから……それなのに!……ひどい奇蹟!……望んでなどいないのに、思ってさえいないのに、神様から授かったなんて……実をつけぬ木に果実を授けたことなどない神様が……いつそんな事実が? 可能性さえなかったというのに?……子を産む苦しみを味わう母親は、産まれてくる子供のことを知っているというのに、わたくしは何もわからない。考えるだけで恐ろしい。その日が来ることを思っても、死刑台に上る心地しかしないのです……フィリップ、わたくしは呪われているのですわ!……」

「アンドレ!」

「フィリップ……」アンドレが声を荒げた。「この子を憎まずにいられるでしょうか?……無理です。この子が憎い! 生きているうちは毎日、初めてこのおぞましい子を腹に宿した日のことを思い出さずにはいられないでしょう。そして思い出すたびに怖気を震わずにはいられません。無垢な赤ん坊が身動きすれば、母であれば嬉しいはずです。でもわたくしの血は怒りに燃え、これほどまでに汚れのない口唇からも呪詛の言葉が吐き出されることでしょう。フィリップ、わたくしはいい母親にはなれません! わたくしは呪われているんです!」

「アンドレ、頼むから落ち着くんだ。考え過ぎて気持を乱してはいけない。この子はおまえの血肉を分けた生命じゃないか。ぼくはこの子を愛している。だっておまえの子なんだから」

「この子を愛しているですって!」アンドレは怒りに青ざめていた。「よくもわたくしに向かって、わたくしたちの恥を愛していると言えたものですね! こんな犯罪の証拠、卑劣な犯罪者の忘れ形見を愛しているだなんて!……いいわフィリップ、先ほど言った通り、わたくしは臆病でもなければ偽善者でもないんです。この子が憎い。わたくしの子じゃありませんから! こんな子、望んだわけじゃないのですから! この子が呪わしい。きっと父親に似ているに違いないもの……父親!……そんな言葉を口にしたら、いつか死んでしまいそう! ああ神様!」アンドレが床に膝を突いた。「主よ! わたくしには産まれて来る子を殺すことが出来ません。あなたが生命を吹き込んだ子だから……子を宿している限りは自らの命を絶つことも出来ません。あなたが殺人に加えて自殺も禁じたからです。でもどうか、お願いですから、願いを聞いていただけたら、主よ、あなたに正義があるなら――この世の悲しみを気に掛けて下さるなら――このわたくしが恥と涙にまみれて生きた後で絶望のあまり死んでしまうことはないと請け合って下さるなら――どうか主よ、この子をお持ち帰り下さい! この子を殺して下さい! わたくしを救って下さい! わたくしの名誉をお返し下さい!」

 激しい怒りと神がかった力で、アンドレは大理石の角に頭を打ちつけた。フィリップが懸命にしがみついても止めることは適わなかった。

 突然、扉が開いた。女中が医師を連れて戻って来たのだ。医師は一目見て状況を読み取った。

「よいですか」医師は常と変わらぬ冷静な声を出した。それである者は命令に従い、ある者は素直に言うことを聞くようになる。「陣痛が来ても騒ぎ立ててはなりませんよ。間もなくかもしれない……」それから女中に向かい、「馬車の中で伝えたものをすべて用意するように。それからあなたは――」とフィリップに向かい、「妹さん以上に落ち着かねばなりません。一緒になって怯えたり弱気になったりせずに、私と一緒に励ましてあげるのです」

 アンドレが狼狽えたように立ち上がったが、フィリップが椅子に押し戻した。

 アンドレは苦しさに赤らみ、痛みに引きつって倒れ込んだ。握り締めた拳が椅子の縁飾りに触れ、青ざめた口唇から呻き声が洩れた。

「こんな風に苦しんだり倒れたり怒ったりするから発作が進んだのです。部屋に戻っていただけますか、ド・タヴェルネさん、それから……さあ、しっかり!」

 フィリップは胸をふくらませてアンドレに駆け寄った。横たわって胸を上下させていたアンドレが、苦しさに耐えて起き上がり、フィリップの首に両腕を巻きつけた。

 アンドレはがっちりとしがみつき、フィリップの冷たい頬に口唇を押しつけ、囁いた。

「さよなら!……さよなら!……さようなら!……」

「先生! 先生!」フィリップが絶望の叫びをあげた。「聞いて下さい……」

 ルイ医師は優しいながらも断固として二人を引き離し、アンドレを再び椅子に坐らせ、フィリップを部屋に連れて行った。そうしてアンドレの部屋についている錠を掛け、カーテンも扉もすべて閉めて、この部屋に閉じ込めることで、女が医師も無しで、そして二人が神も無しで済まそうとしていた出来事をすっかり覆い隠した。

 午前三時、医師が扉を開けると、その向こうでフィリップが泣きながら祈っていた。

「妹さんは男の子を産みましたよ」

 フィリップが手を合わせた。

「入らないで。今は眠っている」

「眠っている……先生、本当に眠っているのですか?」

「もし違っているのなら、別の言い方をしていますよ。『妹さんは男の子を産みましたが、この子は母を亡くしてしまった……』と。何なら確かめてご覧なさい」

 フィリップは覗いてみて、

「本当だ! 本当です!」と呟いて医師を抱きしめた。

「乳母の用意も出来ていますよ。ポワン=デュ=ジュールを通りがかった際に、そこに住んでいる乳母に、準備しておくように前もって伝えておきましたから……とは言うものの、連れて来るのはあなたでなければなりません。会いに行くのはあなたでなくてはならないのです……妹さんが眠っている間に、私が乗って来た馬車でお出かけなさい」

「先生はどうなさるのです?……」

「ロワイヤル広場に重篤な患者がいて……肋膜炎です……夜の間はそばにいて、薬を与えて結果を確認したいのです」

「冷えますよ……」

「外套がありますから」

「街は安全ではありません」

「この二十年というもの、何度も夜中に襲われましたよ。そのたびに答えて来ました。『私は医者で、病人のところに行くのです……欲しいのは外套ですか? 差し上げます。しかし命は取らないでもらえますか。私がいないと病人が死んでしまうのです』。この外套は二十年間役に立ってくれたのです。追剥ぎたちは取らずにいてくれました」

「先生!……明日でよいでしょうか?」

「明日の八時に参りましょう。では」

 病人のそばで手厚く看護するようにと、医師は女中に指示を出した。医師の気持としては、子供は母のそばにいるべきだったが、フィリップは離してくれるように頼んだ。妹から先ほど見せられた激しい反応を忘れられなかったのだ。

 そこでルイ医師は手ずから赤子を女中部屋に入れ、モントルゲイユ街から抜け出し、その間にフィリップはルール側から辻馬車に乗って出かけた。

 女中はアンドレの傍らで、椅子に坐って眠りに就いた。

『ジョゼフ・バルサモ』 156

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第百五十六章 最後の謁見

 十一月、言い換えるなら我々がお話しした出来事があってから一月後、フィリップ・ド・タヴェルネはその時期にしては朝早く――端的に言えば夜明けに、妹と暮らしている家から出かけた。まだ明かりも消えぬ時間ながら、パリ中の産業が目を覚ましていた。朝の瑞々しい空気の中、湯気の立ったお菓子を、田舎の貧乏商人がご馳走でも食べるように貪っている。野菜でいっぱいの籠。魚や牡蠣を積んだ二輪馬車が、市場を走り回っている。こうして忙しく立ち働きながらも、富裕層の眠りを妨げてはなるまいとばかりの控えめな様子も身体に染みついていた。

 フィリップは人でごった返した自宅周辺地区を急いで通り抜け、人気のないシャン=ゼリゼーにたどり着いた。

 梢の先で色褪せた葉がくるくると回転している。大部分は王妃の中庭の踏み固められた並木道を覆っていた。この時間帯には人気のない球技場も、震える葉群に隠れている。

 フィリップはパリでも指折りのブルジョワのような裾のゆったりした服と絹のキュロットと靴下を身に着けていた。腰には剣を佩いている。丁寧に整えられた髪からは、昼前に当時のファッションの最高峰である鬘師の手に任せていたことが窺える。

 だから、朝方の風によって髪が乱され髪粉が飛び散り始めたことに気づいて、フィリップはシャン=ゼリゼーの並木道で眉をひそめて、この道で営業している貸し馬車がどれか一台でも、まだ出発してはいないかどうか確かめた。

 長くはかからなかった。使い古され壊れかけた年代物の四輪馬車が、痩せた川原毛色の雌馬に曳かれて、揺れ始めた。御者が何物も見逃すまいとした暗い目つきをして、木立の中に乗客がいやしないかと遠くに目を凝らしている。その様はあたかもティレニア海の波間に船を探すアイネイエスの如きであった。

 フィリップを見つけた御者がさらに激しく鞭を当てた為、四輪馬車はすぐにフィリップのところにたどり着いた。

「九時頃までにヴェルサイユに行けるようにしてくれ。半エキュやろう」

 言葉通り九時には、謁見を始めていた王太子妃からフィリップも朝の謁見を賜っていた。細心の注意を払い、また作法を脱ぎ捨てて、大公女はトリアノンでおこなわせている仕事を朝のうちに見て回ることにしていた。途中で謁見の約束をしていた請願者に出会うと、急いで用件を済ませた。智性と優美な佇まいの中にも威厳を失わず、優しさを誤解されていることに気づこうものなら尊大にさえなった。

 初めこそフィリップは歩いて訪問しようとしていた。それだけ経済的に逼迫していたのだ。だが自尊心から――或いは、軍人なら目上の人間と対する際に決して失うことのない、敬意の気持から――ヴェルサイユを礼服で訪れんが為に倹約の日々を過ごさざるを得なかったのだ。

 フィリップは徒歩で戻るつもりだった。梯子の同じ段の上で、正反対の地点から飛び出していながら、貴族階級のフィリップと平民階級のジルベールは交差していたのである。

 フィリップは心を締めつけられながらも、なおも心を奪われているヴェルサイユに戻って来た。二人の将来を魅了して来た、黄金色と薔薇色の夢に満ちた場所。心をずたずたに切り裂かれて、不幸と恥の思い出であるトリアノンに戻って来た。九時ちょうどに、謁見状を手にして、四阿近くの花壇に沿って歩いていた。

 およそ百歩ほど離れたところに、王太子妃が建築家と話をしているのが見えた。寒い季節ではないというのに、建築家は貂の毛皮を羽織っていた。王太子妃はワトーの描く貴婦人のような小さな帽子をかぶり、緑豊かな木立を背景にして立っていた。時折り、澄んだ声の震えた響きが届き、フィリップの感情を掻き立てた。普段であれば、傷ついた心のうちの悲しみを消し去っていたであろう。

 フィリップと同じく謁見を許された人々が、次々と四阿の戸口に現れた。控えの間では取次が謁見の順序を按配しに来ていた。王太子妃が建築家のミックと戻って来るたびに、その途上にいる人々が言葉をかけてもらっていた。特別な計らいで言葉を交わした人さえいる。

 それが終わると別の謁見者が現れるのを待った。

 フィリップは今もしんがりにいた。王太子妃の目が自分に向けられたことにはとうに気づいていた。まるで王太子妃の方からも会いたがってくれていたように感じられて、フィリップは赤面し、その場に相応しい謙虚で忍耐強い態度を取ろうと努めた。

 ついに取次がフィリップに声をかけた。ご用件はございませんか。王太子妃殿下は遅れてお戻りになるわけにはなりませんし、ひとたびお戻りになってしまえば誰ともお会いにはなりません。

 そこでフィリップは進み出た。王太子妃から見つめられるままに、百歩の距離を縮め、適切な機会を捉えて恭しく挨拶をした。

 王太子妃が取次を見た。

「この挨拶した者の名前は?」

 取次が謁見状を読み上げた。

「フィリップ・ド・タヴェルネ殿です」

「ええ……」

 王太子妃はフィリップのことをさらにじっくりと物問いたげに見つめた。

 フィリップは身体を折り畳んだような状態で待っていた。

「ご機嫌よう、ド・タヴェルネさん。アンドレ嬢はお元気?」

「臥せっております。ですが妃殿下からいただいたご厚意のしるしを見れば元気になるに違いありません」

 王太子妃は答えなかった。フィリップの痩せて青ざめた顔に苦しみを読み取り、町人のような簡素な服装の下に、初めてフランスの地を訪れた時に案内役を務めたあの将校を認めた。

「ミックさん、では舞踏室の内装についてはそういたしましょう。隣の森林園のことはもう決定いたしましたわね。こんなに長く寒い思いをさせてしまってごめんなさい」

「それでは失礼いたします」ミックはお辞儀をして立ち去った。

 王太子妃からお辞儀をされて、待機していた人々もすぐに退出した。王太子妃は自分にも型通りに挨拶するはずだ、と考えて、フィリップはずっと苦しんでいた。

「妹さんは臥せっている、と仰ったわね?」目の前に王太子妃が現れてたずねた。

「臥せっております」フィリップは躊躇った。「控えめに申しましても元気がありません」

「元気がない?」王太子妃が首を傾げた。「あれほど健康的でしたのに!」

 フィリップが頭を下げた。王太子妃は一族の許では鷲の視線と呼ばれる問うような目つきでそれを眺めてから、こう言った。

「少し歩いてもいいですか。風が冷たいので」

 王太子妃が歩き始めても、フィリップは動かなかった。

「あら、いらっしゃいませんの?」マリ=アントワネットが振り向いてたずねた。

 フィリップはひと飛びで王太子妃のそばに寄った。

「どうしてもっと早くにアンドレ嬢の具合を知らせて下さいませんでしたの?」

「そんな。妃殿下ご自身が仰ったのではありませんか……以前には妹に目を掛けて下さいましたが……今は……」

「今もまだ気に掛けておりますわ……ですけれど、ド・タヴェルネ嬢がとっとと仕事を辞めてしまったのではありませんの?」

「そうするしかなかったのです!」フィリップは声を絞り出した。

「何ですって? そうするしかなかった?……その言葉を説明して下さいな」

 フィリップは答えなかった。

「ルイ先生が話してくれました。ヴェルサイユの空気はド・タヴェルネ嬢の健康に良くないそうですね。お父様の家で過ごせば元通りになると……そう言われました。妹さんが出発前に一度だけ訪ねてくれましたが、顔色も悪く悲しそうでした。その際に妹さんがどれだけ我慢しているのかはっきりと伝わって来ました。あんなにたくさんの涙を流していたのですから!」

「嘘偽りのない涙でございます。心が激しく打ちつけ、涸れることもなりません」

「確かお父様に宮廷に連れて来られたはずでしたから、故郷が恋しくなって、何処か具合が……」

「妃殿下」フィリップが急いで口を挟んだ。「妹が恋しがっているのは妃殿下を措いてほかにございません」

「それなのに苦しんでいるなんて……おかしな病気ですね。故郷の空気で良くなるはずなのに、悪化してしまうなんて」

「いつまでも妃殿下に誤魔化しているわけには参りません。妹の病気は深い悲しみによるもので、絶望と隣り合わせの状態にまで悪化してしまいました。ド・タヴェルネ嬢が愛しているのはこの世で妃殿下とぼくだけであるにもかかわらず、愛情よりも神を信じるようになったのです。ここに謁見をお願いしましたのも、妹のこうした願いを妃殿下に援助していただきたかったからでございます」

 王太子妃が顔を上げた。

「修道院に入りたがっているというのですか?」

「はい、殿下」

「それは辛いでしょう? あなたは妹さんを愛してらっしゃるのに」

「妹の立場に相応しい判断をしたと思っておりますし、そもそもこれはぼくが言いだしたことです。ぼくはアンドレを愛しています。この考えが間違っているとは思いませんし、欲得ずくだと思われることもないでしょう。アンドレを幽閉することでぼくには何の益もありません。お互いに何一つ持ってなどいないのですから」

 王太子妃は動きを止めて、改めてフィリップを盗み見た。

「あなたは理解しようとはなさらなかったけれど、わたくしが先ほど申し上げたのはそのことです。お金には苦労なさっているのでしょう?」

「妃殿下……」

「うわべだけの恥などお忘れなさい。大事なのは妹さんの幸せではありませんか……率直にお答え下さい。誠実に……あなたが誠実な方なのはわかっておりますもの」

 誠実に光るフィリップの目が大公女の目とぶつかり、そのまま下がらなかった。

「お答えいたします、殿下」

「では。妹さんが俗世を離れたがっているのには、すぐにでもそうしなくてはならない止むに止まれぬ事情があるのですか? 何ということを口になさるのかしら! 君主というのも不便なものですね! 神から不幸を憐れむ心をいただいていながら、慎みの名のもとに、それを見抜く洞察力を拒まれているのですから。率直にお答え下さい。そうなのですか?」

「違います」フィリップはきっぱりと答えた。「そうではありません。ですが妹はサン=ドニ修道院に入りたがっておりますし、それなのに必要な持参金の三分の一しかないのです」

「持参金は六万リーヴルでしたね。では二万リーヴルしかお持ちではないのですか?」

「それだけは何とか。ですが妃殿下ならお出来になるはずです。たった一言で、財布の紐をゆるめることなく、寄宿生を受け入れさせることが出来るはずです」

「確かにその通りです」

「でしたら特別にご厚意をお願いするわけには参りませんか。既に妹がルイーズ・ド・フランス様のところでどなたかに仲介の約束を取りつけていなければの話ですが」

「聯隊長、突然のお話ですね」マリ=アントワネットが不思議そうに言った。「わたくしの周りには、貧しい貴族の方がたくさんいらっしゃるのです! それがわかっていなかったことはお詫びいたします」

「ぼくは聯隊長ではありません」フィリップの声は穏やかだった。「今のぼくは妃殿下の忠実な僕でしかありません」

「聯隊長ではないと仰いましたか? いつからでしょう?」

「一度でもそうだったことはありません」

「国王はわたくしの見ているところで聯隊の約束をなさったじゃありませんか……」

「任命状が届かなかったのです」

「でも階級が……」

「国王の不興を買って落ちぶれた以上は、それも諦めました」

「国王の不興? 何故ですの?」

「わかりません」

「ああ! 宮廷というところは……」王太子妃は悲しみを露わにした。

 フィリップが侘びしげに微笑んだ。

「妃殿下は天使でいらっしゃいます。フランス王家にお仕えして、妃殿下の為に死ぬ機会を得ることが叶いませんのが残念でなりません」

 王太子妃の双眸に激しい光がよぎり、フィリップは両手で顔を覆った。王太子妃はそれを慰めようとも、この瞬間にフィリップの頭を占めていた考えを取り除こうともしなかった。

 王太子妃は声も立てず何とか息を吸って、ベンガル薔薇の花を震える手でむしり取った。

 フィリップが再び口を開いた。

「許していただけますか」

 マリ=アントワネットはその言葉には応えなかった。

「妹さんがそうしたければ明日にでもサン=ドニに入れます」王太子妃の声は燃えるように鮮やかだった。「そしてあなたは、一月後には聯隊の責任者になっているはずです。わたくしがそういたしましょう!」

「妃殿下、先ほどの言葉を聞いてもなおこのようなご厚意を寄せて下さるのですか? 妹は妃殿下のご親切をお受けいたしますが、ぼくの方はお断わりせねばなりません」

「断ると言うのですか?」

「ええ。ぼくは宮廷で侮辱を受けました……侮辱した人たちは、ぼくが今より厚遇されたらもっとひどいことをしてくるでしょう」

「わたくしの庇護があってもですか?」

「その故にますますひどくことなるでしょう」フィリップは断言した。

「その通りですね!」大公女は青ざめて呟いた。

「それに……忘れていました。殿下とお話ししながらすっかり忘れていました。この世に幸運などもうないことを……暗がりに籠ってもう外に出るべきではないことを。暗がりの中で勇気を持って祈り、心のよすがにいたします!」

 フィリップの声の響きに、王太子妃は背筋がぞっとするのを感じていた。

「その時が来たら、今は頭の中で考えるしか出来ないことも、口にすることが出来ますもの。妹さんがそうしたくなったらいつでもサン=ドニに入れますよ」

「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

「あなたの方は……どうか希望を仰って」

「ですが……」

「お願いですから!」

 王太子妃の手袋を着けた手が下がるのが見えた。何かを待つように宙ぶらりんのまま。意味するところは恐らく命令にほかならなかった。

 フィリップはひざまずき、手を取り、胸を高鳴らせながらゆっくりと口唇をつけた。

「希望を!」王太子妃は感動のあまり手を引っ込めることもしなかった。

 フィリップが顔を伏せた。辛い思いが波となって、船を飲み込む嵐のようにフィリップを飲み込んだ……しばらくは口を聞くことも動くこともしなかったが、やがて立ち上がった顔色は変じ、目からは生気が消えていた。

「フランスを出る旅券を下さい。妹がサン=ドニ修道院に入った日に、ぼくはフランスを発ちます」

 ぎょっとしたように王太子妃が後じさった。フィリップがどれほど苦しんでいるのかを理解し、共感してしまっては、曖昧な言葉を返すことしか出来なかった。

「そうですか」

 そして常緑の帷子を纏った孤独な糸杉の並木道に姿を消した。

『ジョゼフ・バルサモ』 155

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十五章 十二月十五日

 ジルベールはフリッツの案内で難なくバルサモに会うことが出来た。

 伯爵は長椅子に寝そべり、有閑人のように一晩中眠っていたせいでぐったりとしていた――と、少なくともジルベールはそう感じた。こんな時間に横になっているのを目にしたからだ。

 ジルベールが現れたらすぐに案内するように命じられていたのだろう。名乗る必要も、口を開く必要さえなかった。

 応接室に入ると、バルサモが肘を起こし、声もなく開いたままだった口唇を閉じた。

「おや、結婚する青年か」

 ジルベールは無言のままだった。

「結構」伯爵に尊大な態度が戻って来た。「お前は幸せだし、感謝もしているのだろう。大変結構。お礼を言いに来たんだな。要らんことだ。また何か欲しくなった時の為に取っておけ。感謝というのは笑って配れば人を喜ばせる礼金のようなものだ。さあ行け、兄弟」

 バルサモの話す言葉や響きには、何処か深い悲しみと優しさが潜んでおり、それがジルベールには非難と告発を受けているような衝撃を与えた。

「違います。僕は結婚なんかしません」

「ふん! ではどうしたんだ?……何が起こった?」

「僕は拒絶されたのです」

 伯爵がジルベールを正面から見据えた。

「へまをやったんだな」

「そんなことはありません。少なくとも僕はそう考えてます」

「誰に追っ払われたんだ?」

「お嬢様です」

「さもありなん。どうして父親に話さなかった?」

「運命がそれを望まなかったからです」

「ほう、俺たちは運命論者だったのか?」

「僕は信仰を持つことが出来ませんから」

 バルサモが眉をひそめ、面白そうにジルベールを見つめた。

「自分の知らないことを語るな。大人であれば愚か者のやることだし、子供であれば自惚れ屋のすることだ。自惚れるのはいいが、馬鹿は許さん。馬鹿なことはしないと言うなら認めてやろう。で、何をやったんだ?」

「それが、詩人のように、行動する代わりに頭を使おうと思ったんです。愛を夢見る喜びを知った並木道を散歩しようと思っていたんです。ところが不意に何の前触れもなしに現実が目の前に立ち現れて、その場で僕を打ちひしいだのです」

「それもまた結構なことではないか。男とはどんな状況であれ斥候のようなものだ。進む時はいつも右手に小銃、左手に龕灯を持たねばならん」

「とにかく僕はしくじったのです。アンドレ嬢からは悪党とか人殺しと呼ばれ、殺してやると言われました」

「ほう。だが子供は?」

「子供は自分のものであり、僕のものではないと言われました」

「それから?」

「そう言われて、僕は引き下がって来たのです」

「そうか!」

 ジルベールが顔を上げた。

「僕はどうすればよかったのでしょう?」

「俺にはまだわからん。何がしたいのか教えてくれ」

「僕に屈辱をもたらしたことに対して、罰を与えたいんです」

「ただの言葉だ」

「いいえ、これは決意です」

「だが……お前は黙って奪われただけだったんだな? 秘密と……金を?」

「僕の秘密は僕のものであって、誰にも取られるつもりはありません。お金はあなたのものです。お返しいたします」

 ジルベールは上着をめくって三十枚の銀行券を取り出し、しっかりと数えて卓子の上に広げた。

 伯爵はそれを手に取って折り畳んだが、その間もジルベールに目を据えていた。ジルベールの顔にはどんな高ぶりも現れてはいない。

 ――正直者。貪欲ではない……才気と信念の持ち主……男というわけだ。

「ところで伯爵閣下、預かった二ルイのことで謝らなくてはならないことがあるんです」

「深刻に考えるな。十万エキュ返してくれる立派さと比べたら、四十八リーヴル返すことなど子供騙しみたいなものだ」

「お返しするつもりはありません。僕はただ、この二ルイで何をしたかを伝えるつもりでした。僕にはそれが必要なのだということを、あなたにちゃんと知ってもらいたかったので」

「それなら別だ……つまり金をくれと?」

「そうです……」

「理由は?」

「あなたが先ほど『言葉』と呼んだことをする為です」

「そうか。復讐がしたいのか?」

「復讐をするなら恥ずかしくないようにやりたいんです」

「そうだろうな。だが現実は無慈悲だ」

「その通りです」

「幾ら必要なんだ?」

「二万リーヴルです」

「あの娘に近づくつもりはないんだな?」こう言えばジルベールをはっとさせられると思ったのだ。

「ありません」

「兄には?」

「ありません。父親にも」

「中傷するつもりもないな?」

「もう口を開いてあの人の名前を口にすることはありません」

「わかった……だが女を刺し殺そうと、虚勢を重ねて殺そうと、同じことだ……姿を見せ、後を追い回し、軽蔑と憎悪に満ちた笑いを見せつけて苦しめることで、仕返しするつもりなのだろう」

「ほとんど当たっていません。フランスを離れる気になった時に備えて、お金をかけずに海を渡る方法をお願いしに来たのです」

 バルサモが異を唱えた。

「ジルベール」その声にはとげとげしさと柔らかさが同居していたが、苦しみも喜びも含まれてはいなかった。「ジルベール、その要求は筋が通らんぞ。人に二万リーヴルくれと言っておきながら、その二万リーヴルで船に乗ることは出来ないというのか?」

「それには二つ理由があるんです」

「理由を聞こう」

「一つには、船に乗る日には一銭も持っていないだろうからです。忘れないでいただきたいのは、僕は自分の為に頼んでいるのではなく、あなたが手を貸した過ちを償う為に頼んでいるということです……」

「まだ言うか!」バルサモが口を引きつらせた。

「事実ですから。お金が欲しいのは償う為であって、生活の為でも手すさびの為でもありません。この二万リーヴルのうちの一スーたりとも僕の懐に入ることはありません。このお金にはお金の行き場所があるんです」

「お前の子供か、わかったぞ……」

「ええ、僕の子供なんです」ジルベールは誇らしげに答えた。

「だが、お前はどうする?」

「僕は強いですから。束縛されてもいませんし、智恵もあります。これからも生きてゆきます。生きたいんです!」

「生きるがいい! 寿命を待たずに地上を離れる魂に、天はこれほどに力強い意思を与えはしまい。天は長い冬に立ち向かうのに必要な植物を着せて暖めてくれよう。長い苦難に耐えられるだけの鋼の鎧を心に纏わせてくれよう。だが手元に千リーヴル残せないのには確か二つの理由があると言っていたな。一つ目は心遣いで……」

「二つ目は用心です。フランスを離れる時には、身を潜めることも出来るでしょう……ですが港で船長を見つけ、お金を払う段になれば、そうは行きません――誰だってそうするでしょうね――上手く身を隠せても、自分から姿を見せなくてはならない段になれば、そうは行かないんです」

「つまり、俺なら身を隠す手助けをしてやれると?」

「あなたになら出来ることはわかってます」

「誰がそんなことを?」

「何を仰っているんですか! あなたはこの世のあらゆる武器を収めた武器庫を持たぬ代わりに、超自然を欲しいままに使えるではありませんか。魔術師ならどれだけ自信がなくても、神に頼るようなことはしないはずです」

「ジルベール」不意にバルサモが手を伸ばした。「お前には大胆で向こう見ずなところがある。女のように善でもあり悪でもあり、ふりではなく本心から禁欲的だし誠実だ。いつか立派な男として遇することになりそうだな。俺と一緒にいろ。感謝を忘れるような奴ではあるまい。いいな、ここにいろ。この家に隠れていれば安全だ。もっとも、俺は何か月かしたら欧州を離れるから、その時は一緒に連れて行くことになる」

 ジルベールはうなずいた。

「その時が来たら喜んでお供します。ですが今はこうお返事しなくてはなりません。『ありがとうございます、伯爵閣下。僕のようなつまらない人間にとっては、お申し出は畏れ多いくらいなのですが、残念ながらお断わりいたします』と」

一時いっときだけの復讐と五十年分の未来は釣り合わんぞ?」

「失礼ながら、思いつきや気まぐれが浮かんだ瞬間から、それは僕にとってはこの世の何よりも価値があるのです。それに復讐のほかにもやらねばならないことがあるのです」

「ここに二万リーヴルある」バルサモが即答した。

 ジルベールは二枚の銀行券を手に取り、恩人にじっと目を注いだ。

「こんな施しをして下さるなんて国王にも負けてはいらっしゃいません!」

「勝っている、と思いたいな。何しろ記憶に留めて欲しいとすら願ってはいないんだから」

「そうですね。でも先ほど言われた通り、感謝の気持は忘れていません。目的を達したら、この二万リーヴルはお返しいたします」

「どうやってだ?」

「召使いが主人に二万リーヴル返すのに必要なだけの年月を、あなたの許で働きます」

「また矛盾したことを言っているな。お前はついさっき、この二万リーヴルは俺の罪滅ぼし代わりだ、と言ったばかりではないか」

「確かにそう言いました。ですがあなたには感銘を受けたので」

「そいつはありがたい」バルサモは無表情のまま答えた。「では、俺がそうしろと言えば、言う通りにするんだな?」

「その通りです」

「何が出来る?」

「何も出来ません。ですがあらゆることをする準備はあります」

「そうだな」

「それでもはやり、必要とあらば二時間後にフランスを離れることの出来る手段を手にしておきたいのです」

「ははっ! 脱走兵が一人か」

「戻って来る用意は出来ています」

「こっちも再会する用意は出来ている。ではとっとと終わらせよう。あまり長く話すと疲れっちまう。卓子をこっちに寄こせ」

「はい」

「洋箪笥の上にある箱に入っている紙を取ってくれ」

「はい」

 バルサモは紙を手に取り、そのうちの一枚に書かれた文章を小さく読み上げた。紙には三つの署名――いや、三つの謎めいた文字――が記されている。

 十二月十五日、ル・アーヴルにて、ボストン行き、P・J・ラドニ。

「アメリカのことをどう思う、ジルベール?」

「フランスではないところ。いつかその時が来てフランス以外の何処かの国に海を渡って行くことになれば、これほど嬉しいことはありません」

「結構!……十二月十五日頃。これはお前の言う『その時』だな?」

 ジルベールは指を折って考えた。

「間違いありません」

 バルサモは羽根ペンをつかみ、白い紙に次のような文字を二行だけ書き記した。

 ラドニに乗客を一人乗せてくれ。

  ジョゼフ・バルサモ

「この紙は危険です。ねぐらを探した挙句、バスチーユを見つけることになりかねません」

「頭がいいと馬鹿にも見えるもんだな。ラドニとは商船で、俺が筆頭船主なのだ」

「失礼しました」ジルベールは頭を下げた。「時々頭が働かなくなってしまうのですが、こんなことが何度も続くことはありませんから、お許し下さい。ありったけの感謝の気持を信じて欲しいんです」

「行くんだ、友よ」

「さようなら、伯爵閣下」

「また会おう」バルサモはそう言って背中を向けた。

『ジョゼフ・バルサモ』 154

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第百五十四章 決意

 ジルベールがどうやって部屋に戻ったのか、どうやって苦しみと怒りで息絶えることなく苦悶の夜を耐えたのか、どうやって目覚めた時に白髪にならずに済んだのか、読者諸氏に説明しようとは思わない。

 陽が昇ると、ジルベールはアンドレに手紙を書きたくなった。夜の間に脳から湧き出て来た誠実で確かな弁明を伝えたかったのだ。だがアンドレが頑固なことは様々な状況の許で承知していたから、もはや期待はしていない。手紙を書くというのは便宜に過ぎないし、誇りが許さない。手紙が読まれもせずに丸められて放り投げられるところを想像してみろ。しつこくて頭の悪い奴が後を追っていると知らせる役にしか立たないと考えてみろ。手紙は書かないのが賢明だ。

 こうなると父親の方から取りかかった方がいいのではないか。父親の方なら金に汚く野心に燃えている。兄の方は誠実な人間だ。素早い決断力だけに気をつければよい。

 ――だけど、男爵やフィリップから認めてもらっても、アンドレから「あなたなんか知らない!」といつまでも責められ続けては何の意味もない……。あんな女のことは忘れちまえ。僕らを結びつけている絆を断ち切ることしか考えてないんだぞ。

 そう独り言ちながら、呻吟してマットレスの上をのたうち回り、激情に駆られてアンドレの声や顔を一つ一つ思い出していた。独り言ちながら、耐え難い拷問に苦しんでいた。狂おしいまでにアンドレを愛していたのだ。

 太陽がとうに地上高く顔を出し、屋根裏に光が射し込む頃、ジルベールはふらつきながらも起き上がった。アンドレが庭や館にいるのが見えないかと最後に期待を掛けたのだ。

 今もなおそれは不幸の中にあって唯一の喜びであった。

 だが不意に、悔しさと後悔と怒りが苦い波となって頭の中に浸み込んで来た。アンドレが自分に示した嫌悪や軽蔑の数々が思い起こされる。肉体が意思から荒々しく命じられ、屋根裏の途中で立ち止まった。

「もうないんだ。もうあの窓を見つめることもない。もう入り込むこともなく、死ぬほどの毒に耽ることもない。残酷な女め、何度ひれ伏したって、一度も微笑んでくれたことはないし、慰めや親しみの言葉をかけてくれたこともない。まだ無垢で純粋な愛に満ちていた心臓を、爪で押しつぶして楽しむような人なんだ。守るものも信じるものもなく、子供に向かって父親という支えを否定し、哀れな子供を見捨てたり冷たくしたりもしかすると死なせたりするような人なんだ。それもこれもその子が受胎して母胎を汚したからというわけか。そうさ、ジルベール、お前が犯罪者だろうと、恋人だろうと卑怯者だろうと関係ない。あの天窓まで歩くことも、館の方に目をやることもやめよう。あの女の運命を憐れむのも、過ぎたことをくよくよ考えて魂をくじけさせるのもやめよう。働いて欲しい物を満たして獣のように命をすり減らせ。侮辱と復讐の真ん中を時間をかけて流れるくらいなら、その時間を使ってしまえ。体面を保ち、この高慢な貴族たちを見下ろしていたいと思うなら、あいつらより上になるしかないということを覚えておけ」

 青ざめ震えて、気持に引きずられて窓に向かって引き寄せられながら、頭脳の出す命令に従っていた。足に根が生えたようにのろのろと、一歩一歩階段に向かって歩いてゆくではないか。やがてジルベールはとうとう外に出てバルサモの家を目指した。

 だが慌てて思い直した。

「何て粗忽者なんだ! 復讐の話をしておきながら、どうやって復讐するつもりだったんだろう?……アンドレを殺すのか? そんなことをしたっていっそう喜ばすだけだ。ここぞとばかりに罵倒されるだろう。辱められたことを世間に広めたらどうだろう? 卑劣にもほどがある!……そこはあの人の心の中で一番敏感なところだ。針で刺されても剣で刺されたように感じるはずだ……屈辱に違いない……僕以上に誇り高い人だからな。

「屈辱か……僕が……どうやって? 僕は何物も持たず、何者でもないし、あの人は姿を消してしまうだろう。僕が存在したりしょっちゅう現れたりするだけで、軽蔑と挑発の眼差しで僕を残酷に罰するに違いない……母としての情けを持たない人だ。妹としても冷酷になれるだろうから、兄に僕を売り渡すに決まってる。だけど、理を説いたり手紙を書いたりすることを覚えたように、殺人を覚えたって、邪魔する人もいまい? フィリップを投げ飛ばし、降参させ、侮辱した相手を笑うように復讐しに来た相手の鼻先で笑っても、誰も止めたりはすまい? いや駄目だ、こんなのは芝居の筋書きに過ぎない。神も偶然も当てにしないあの人の才気と経験を頼みにするなんて……僕が一人で、この裸の腕と、空想をそぎ落とした理性と、自然が与えてくれた筋肉の力と頭脳の力で、あの可哀相な人たちの計画を無に帰してやる……アンドレは何がしたいんだ? 何を考えてるんだ? 自分を守り僕を辱める為に、何を持ち出すつもりだろう?……見つけなくちゃ」

 ジルベールは壁の出っ張りの先に身体を預けて、一点を見つめたままじっと考え込んだ。

「アンドレは僕の嫌いなことを喜ぶだろうな。だったら嫌いなものをぶち壊してしまえばいいのか? ぶち壊すだって! 出来ない……復讐はしても悪には染まるもんか! 剣や火器を用いざるを得ないような羽目にはなるもんか!

「じゃあほかにどうすればいい? そうだ。アンドレがどうして強気に出られるのか理由を見つければいい。どんな鎖で僕の心と腕を留めておくつもりなのか確かめるんだ……いや、もう会えないんだ!……もう見つめてもらえることもない!……誇らかに美しく微笑んで子供を抱いていても、そばを通り過ぎるだけなんて……アンドレの子供は僕を知らずに大きくなるのか……神も世もないじゃないか!」

 ジルベールは憤慨して壁にこの言葉の拳を打ちつけ、天に向けてはさらに恐ろしい呪詛を放った。

「子供か! 所詮表向きには出来ない子だ。この子をアンドレのところに置いておくわけにはいかないし、アンドレにもジルベールという名前をいつまでも憎んでもらっても困る。早い話が、むしろこの子がアンドレという名前を憎みながら大きくなることはよくわかってるはずだ。結局アンドレはこの子を愛したりはしないだろうし、きっと辛く当たるだろうな。心の冷たい人だもの。この子は僕を永遠に苦しめることになるだろう。アンドレはこの子に二度と会えないし、この子を失って仔を取り上げられたライオンのように吠えなくちゃならないんだ!」

 ジルベールは怒りと残酷な喜びも露わに堂々と立ち上がった。

「そういうことだ」アンドレの住処に指を向け、「あんたは僕のことを恥辱と孤独と悔恨と愛情を種に責め立てたけど……こっちこそあんたを実りない苦しみと孤独と恥辱と恐怖とぶつける当てのない憎しみで苛ませてやる。僕を探そうとしたって、逃げ出してやるさ。再び子供に会えたら引き裂いてでも取り戻そうとするに違いない。だけど少なくとも激しい思いがあんたの魂に火をつけることになるだろうし、柄のない刃があんたの胸に突き刺さることになるだろう……そうだ、子供だ! 子供を手に入れてやるぞ、アンドレ。あんたは自分の子供だと言ったけれど、僕の子供でもあるんだ。ジルベールは我が子を手に入れてみせる! 貴族を母に持つ子供だぞ……僕の子だ!……僕の子なんだ!……」

 ジルベールは昂奮してだんだんと歓喜に酔いしれて来た。

「もう庶民だからといって悔しい思いをしたり田舎者の自分を愚痴ったりせずともいいんだ。必要なのはよく出来た計画だ。もうアンドレの家を探ろうとして気を配らなくていい。僕の力と魂のすべてをかけて、絶対に計画を成功させることだけを考えて監視していればいいんだ。

「これからはずっと見張ってやるぞ、アンドレ!」ジルベールは厳かに呟き、窓に近づいた。「昼も夜も休むことなく監視してやる! あんたの行動はすべて監視されることになるんだ。苦しみにあげる叫びも、今よりもっと辛いものになるはずだ。微笑みを浮かべるのは、僕が皮肉と嘲りを込めて笑った時だけになるだろうな。あんたは僕のもんだ。あんたの一部は僕のもんだよ。目を逸らすことなく監視してやる!」

 天窓に近づくと、館の鎧戸が開いているのが見えた。アンドレのシルエットが、恐らくは鏡に反射して、カーテンや天井上を動き回っている。

 それからフィリップが見えた。朝早くから起きてはいたのだが、それまではアンドレの部屋の奥にある自分の部屋で忙しくしていたのだ。

 二人はかなり激しく言い合っているようだ。間違いない。話題はジルベールのこと、前夜のことだ。フィリップが困ったように歩き回っている。ジルベールが現れたせいで、ここで暮らすはずだった計画に変更が生じたのだろう。何処か別の場所に平和と隠棲と過去の消去を求めに行くことになったのだ。

 そう考えたジルベールの目に光がきらめいた。館を燃やし、地の中心まで貫きかねない光だった!

 ところがまもなく使用人の娘が庭から入って来た。何か言伝があったらしい。アンドレは言伝を受諾したらしく、ニコルが使っていた部屋に衣類を置いた。それから家具、日用品、食糧を見て、兄妹で静かに暮らしているのだとジルベールは確信を固めた。

 フィリップが念入りに庭の扉の錠を改めている。ニコルからもらった合い鍵で侵入したのではないかと考えているのだろう。それで錠前屋が錠前を新しくしたのだ。

 これまでの中で一番嬉しい出来事だった。

 ジルベールはにやりと笑った。

「可哀相に。二人とも無邪気な人たちだな。鍵のせいにしているなんて。よじ登る可能性すら思いつかないのか!……見くびられているらしいな、ジルベール。ありがたい! アンドレめ、こっちは鍵が掛かっていようと、入ろうと思えばいつでも入れるんだ……とうとう僕にも運が向いて来た。あんたなんかもう構ってやるもんか……気が向いたら別だけど……」

 ジルベールは宮廷の遊び人を真似てくるりと回転した。

「そうだとも……」辛そうに呟いた。「僕にはもっと相応しいものがある。もうあなたはいらない!……安らかに眠り給え。あなたをものにするよりも楽に苦しめる方法があるんだ。眠るがいいさ!」

 天窓から離れて衣服に目を走らせた後で、階段を降りてバルサモの家へ向かった。

『ジョゼフ・バルサモ』 153

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第百五十三章 偏見を覆すより罪を犯す方が簡単だとジルベールが気づいた次第

 囚われていた辛い感情が弱まるにつれ、ジルベールの考えはどんどんはっきりとした形を取り始めた。

 そうこうしているうちに闇も深まり、ものが見えづらくなって来た。それでも目的を達したいという強い気持の現れで、木々も家も並木道も見分けることが出来た。どれも溶け合ってひとかたまりの影となり、上空の空気は深淵を見下ろすようにとぐろを巻いて漂っていたにも関わらず。

 ジルベールは幸せだった夜のことを思い出していた。アンドレがどうなったのか知りたくて、会いたくて、出来れば声を聞きたくて、命の危険も顧みず、あの五月三十一日から続いている痛みに苦しみながらも、二階から一階まで――幸せな庭の大地まで――樋を滑り降りたあの夜のことを。

 あの時この家に忍び込むのは極めて危険だった。男爵がいたし、アンドレは厳重に守られていた。だが如何に危険であろうとも、あの状況がどれだけ甘美なものだったかを、そしてアンドレの声を聞いた途端に心臓がどれだけ喜びに打ち震えたかを、ジルベールは覚えていた。

「もしやり直すことが出来たら、あの時に並木道の砂の上に残されていたはずの足跡を這い回って探していたとしたら……?」

 人に聞かれたらただでは済まないこんな言葉を、あろうことかジルベールは声に出して、それも嬉しそうに口にしていた。

 ジルベールは独り言をやめて、館があるはずの場所に目を凝らした。

 しばらく無言で見つめてから、

「ほかの誰かが住んでいる形跡はないな。明かりもないし物音もしないし扉も開いてない。行くぞ!」

 ジルベールには取り柄がある。一度こうと決めたら直ちに行動に移すのだ。屋根裏の扉を開けて、ルソーの部屋の前まで手探りで妖精のように降り立った。二階まで来ると躊躇うことなく鉛管を跨ぎ、買ったばかりのキュロットを駄目にする危険を冒して下まで滑り降りた。

 階段の下まで着くと、初めて訪れた際の感情が甦り、靴の下で砂が鳴った。ニコルがド・ボージール氏を引き入れていた扉に見覚えがある。

 それから玄関に向かい、鎧戸の銅の握りに口唇を押しつけた。きっとアンドレの手がこの握りに触れていたのに違いない。ジルベールの罪は信仰にも似た愛から生まれたものだった。

 突然、家の中から物音がしてジルベールは震え上がった。床を歩くような、聞き取れないほどの小さな音だ。

 ジルベールは尻込みした。

 顔から血の気が引いていた。そのうえ一週間以上前から罪の意識に苛まれていたので、扉から洩れている光を見て、無垢と悔恨からこぼれ落ちた一つのことを考え続けたせいで忌まわしい炎が目の中に灯ったのであり、鎧戸の板越しに洩れているのがその炎なのだ、と信じ込んでしまった。怯えきった魂が別の魂を呼び寄せ、死期が訪れ狂人か奇人が見るような幻覚が現れたのだと信じ込んだ。

 だが足音と光が近づいて来ても、ジルベールは目も耳も信じようとはしなかった。ところが鎧戸の向こうをよく見ようとして近づいた途端、いきなり鎧戸が開き、衝撃で壁の方に跳ね飛ばされ、声をあげて両膝を突いた。

 だがそれも、目にしたものほど衝撃的ではなかった。誰もいないと思っていた家の中、叩いても応えのなかった扉から、アンドレの姿が現れたのを目にしたのだ。

 アンドレだ。確かに本人であって幽霊などではない。ジルベールと同じく声をあげた。だがそれほど怯えてはいないのは、誰かがいるのを予期していたからだろう。

「何? どなたです? ご用件は?」

「申し訳ありません!」ジルベールは床に頭をこすりつけた。

「ジルベール!」アンドレがあげた驚きの声には、恐れも怒りもなかった。「ジルベールがここに! 何をしに来たのです、モナミ?」

 モナミという呼びかけに、ジルベールの心は痛みで底まで震えた。

「どうか!」ジルベールの声は乱れていた。「どうか責めないで下さい。お慈悲を。こんなに苦しんでいるのです!」

 アンドレは驚いてジルベールを見つめた。ジルベールが下手に出ている理由がまったく理解できないようだった。

「まずは頭を上げて、ここにいる理由を説明して下さい」

「許していただかない限り、顔を上げるわけにはいきません!」

「わたくしに何をしたというのです。許さなくてはならないようなことをしたのですか? どうか説明を」そう言ってアンドレは侘びしげに微笑んだ。侮辱などたいしたことではないとでも言うのだろうか。「いずれにしても許すのは造作ありません。鍵をくれたのはお兄様?」

「鍵?」

「ええ、お兄様の不在中は誰にも戸を開けないことにしていますから。壁を通り抜けたのでない限り、ここに入って来るには、お兄様から鍵をいただくのが一番簡単な方法に違いありませんもの」

「フィリップが……? いや、そうじゃありません。それに、お兄さんのことは措いておきましょう。いなくなったんじゃなかったんですか? フランスを出たんじゃなかったんですか? よかった! 何て幸運なんだ!」

 ジルベールは上体を起こし、腕を広げて天に感謝を捧げた。それがジルベールなりの誠意だった。

 アンドレがジルベールを心配そうに覗き込んだ。

「頭がおかしくなったの、ジルベール? 服が破けそう。放して頂戴。茶番はやめましょう」

 ジルベールが立ち上がった。

「怒ってますね。でも愚痴なんかこぼしません。怒られて当然ですから。はっきりさせなきゃいけないのはそんなことじゃないんです。それよりどういうことですか! ここに住んでいるとは知りませんでした。空っぽで人がいないと思っていました。僕が探しに来たのは、あなたの思い出の品だったんです。それだけでした。ただの偶然で……もう何を言っているのか自分でもわかりません。すみません。まずはあなたのお父上に話したかったのですが、その当人がいなくなって」

 アンドレが身じろぎした。

「お父様? 何故お父様に?」

 ジルベールは答えを誤魔化した。

「あなたが怖かったものですから。でもわかってるんです、すべて僕ら二人で解決した方がいい。すべてを償い元通りにするのが最前の方法ですから」

「償うですって? いったい何の話? 償わなければならないこととは何です? お言いなさい」

 ジルベールは愛と卑屈にあふれた目でアンドレを見つめた。

「怒らないで下さい。確かに僕は大それたことをしました。ゴミみたいな人間なのに、上を向いて大それたことをしてしまいました。でも災いは起こってしまったのです」

 アンドレがたじろいだ。

「罪と呼びたければ罪と呼んでくれて構いません。そうですね。実際、恐ろしい罪ですから。この罪のことなら、運命を憎んで下さい、お嬢様。でもどうか僕の心は……」

「心とか罪とか運命とか! あなたはどうかしてるのよ、ジルベール。お願いだから怖がらせないで」

「これほど敬意を払って、これほど悔い改めて、これほど頭を下げて、これほど手を合わせても、哀れみ以外の感情を持ってもらうのは不可能なんですね。お嬢様、これから話すことを聞いて下さい。神と人々の前で約束した神聖な誓いです。僕の人生のすべてを一瞬の過ちを償うことに費やしたい、あなたの将来を幸せなものにして過去の苦しみをすべて消してしまいたいんです。お嬢様……」

 ジルベールは躊躇った。

「お嬢様、罪深い結びつきを神聖なものにする為に、結婚に同意していただけませんか」

 アンドレが後じさった。

「違います、気が違ってなんかいません。逃げないで下さい。握っているこの手を離さないで下さい。お願いです、慈悲と哀れみを……どうか僕の妻になることに同意して下しあ」

「あなたの妻ですって?」気が違ったのは自分の方かと思いそうだった。

「お願いです!」ジルベールが泣きじゃくった。「あの夜のことを許してくれると言って下さい。罪深い行為には怯えたけれど、後悔したのを見て許すと言って下さい。押し殺された愛情が原因なら、犯罪にも弁明の余地があると言って下さい」

「人でなし!」アンドレが猛り狂った。「あなただったのね? ああ、神様!」

 アンドレは混乱した思いを逃すまいとするかのように、両手で頭を抱え込んだ。

 ジルベールは尻込みしたまま無言で石と化していた。目の前にいるのは恐怖と混乱で髪を振り乱した、美しく蒼白のメドゥーサだ。

「こんな不幸になる定めだと言うのでしょうか?」アンドレは既に激情していた。「この名を二度までも侮辱されるなんて。罪によって辱められ、さらには犯人によって辱められると言うのでしょうか? 答えなさい、人でなし! あなただったの?」

「知らなかったのか!」ジルベールは愕然として呟いた。

「助けて!」アンドレが部屋に駆け戻った。「フィリップ、助けて! フィリップ!」

 ジルベールは絶望に駆られて後を追い、辺りを目で探した。見つかるのなら、覚悟していたように一撃の下で気高く倒れる為の場所でもいい。身を守る為の武器でもいい。

 だが助けに応える者はなく、アンドレは一人きりで部屋にいた。

「一人にして!」アンドレの身体は怒りで震えていた。「ここから出て行って、人でなし! 神の怒りを煽るようなことはしないで!」

 ジルベールがゆっくりと顔を上げた。

「僕が怖いのはあなたの怒りだけです。どうか僕を苦しめないで下さい!」

 ジルベールは手を合わせて頼み込んだ。

「人殺し! 人殺し!」アンドレが叫び続ける。

「話を聞いてくれないのですか? まずは話を聞いて下さい。殺したいのならその後にして下さい」

「このうえさらに話を聞けですって! 何を話すつもりなんです?」

「先ほど言ったように、僕は罪を犯しましたが、僕の気持がわかる人なら許してくれるはずです。僕は罪の償いをしたいんです」

「それよ! その言葉の意味がわからないうちからぞっとしたわ。結婚ですって!……そう言ったように聞こえたけれど?」

「お嬢様……」

「結婚?」アンドレの態度にますます高ぶりが見え始めた。「あなたに感じているのは怒りではなく、蔑みと憎しみです。蔑みほど卑しくておぞましい感情はないというのに、面と向かってそれを投げつけられながら耐えられるとは、理解できないわ」

 ジルベールは真っ青になった。目の縁には涙がきらめき、口唇は真珠母の切片のように薄く白くなっていた。

「僕は――」全身が震えていた。「あなたの名誉を傷つけてしまった償いが出来ぬほどちっぽけな人間ではありません」

 アンドレが立ち上がった。

「名誉を損なったというのなら、あなたの名誉であってわたくしのではありません。わたくしの名誉は損なわれておりませんし、それが汚されるとしたらあなたと結婚する時にほかなりません!」

「母になった女性が考えなくてはならないのはただ子供の未来のみではありませんか」ジルベールの声は冷たかった。

「あなたの方こそ、そんなことを考えているとは思えません」アンドレの目には炎が燃えていた。

「考えていますとも」ジルベールは足許への攻撃にぐらつかずに立て直そうとした。「この子を飢えさせたくはありませんから。名誉を聞かされて育った貴族の家では飢えを選ぶこともままあるじゃありませんか。でも人間は平等なんです。誰かに名誉を説かれようとも、自分は自分なんです。僕が愛されてないのはわかってます。あなたには僕の心が見えないんだから。軽蔑されてるのもわかってます。僕の考えていることがわからないんですから。だけど、僕には我が子のことを考える権利がないと思われることだけは理解できません! あなたと結婚しようとすれば、宿望も情熱も野心も叶えることが出来ません。それでも義務を果たすことにしたんです。あなたの奴隷となって、人生をあなたに捧げたんです。でもあなたが僕の名を背負うことはないでしょうね。これからも庭師のジルベール扱いしたければしてくれればいいし、それが正しいんです。でも子供にはそんな犠牲を払わせてはいけません。ここに三十万リーヴルあります。親切な方からいただいたものです。あなたとは違う裁きを僕に下し、持参金として下さったのです。結婚したらこのお金は僕のものです。でも僕自身は何も要りません。生きていたら呼吸できるだけの空気があればいいし、死んでしまえば死体を埋めるだけの穴があればいい。それ以上のものは子供にやるつもりです。さあ、三十万リーヴルです」

 ジルベールは札束をアンドレの手元にある卓子に置いた。

「たいへんな誤解をなさっているみたいだけれど、あなたには子供がいないではありませんか」

「そんな!」

「どの子の話をしているのかしら?」

「あなたが母親となった子供のことです。二人の前で認めたのではないのですか? 兄であるフィリップの前と、ド・バルサモ伯爵の前で。妊娠していると認めたのではないのですか? そして相手は僕だったと。ひどい人だ!……」

「聞いていたのね? だったら話が早いわ。あなたは卑劣にもわたくしを暴力で犯した。眠っている間に力ずくでわたくしを奪った。罪を犯してわたくしをものにした。わたくしが母なのは間違いないけれど、子供には母しかいません。わかる? あなたがわたくしを辱めたのは事実だけれど、わたくしの子の父親ではあり得ません!」

 アンドレは札束をつかむと汚らわしいとでもいうように部屋の外へ放り投げた。札束はジルベールの青い顔をかすめて飛んで行った。

 ジルベールがどす黒い怒りの衝動に駆られたのを見て、アンドレの守護天使が守り人のことを心配してまたも震えおののいてもおかしくはなかった。

 だが怒りは荒々しく抑えられ、ジルベールはアンドレに見向きもせずに通り過ぎた。

 ジルベールが敷居を跨ぎ越えるとすぐにアンドレは駆け出し、扉も窓も鎧戸もしっかりと閉めた。あたかもそうすることで世界を現在と過去の間に閉じ込めてしまえるかのように。

『ジョゼフ・バルサモ』 152

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十二章 ジルベールの計画

 外に出るとジルベールは火照った空想を静めるのに精一杯だった。伯爵の言葉を耳にして、可能性ではなく実現性を夢想していたのだ。

 パストゥレル街に着くと里程標の上に腰を下ろし、辺りを見回して誰からも見られていないことを確認したうえで、しっかりと握っていたせいで皺くちゃになった札束をポケットから取り出した。

 恐ろしい考えが心をよぎり、額に汗を滲ませていたのだ。

「よし」札束を見ながら呟いた。「あの人に騙されたわけじゃなかったのかどうか確かめよう。罠に掛けられたわけじゃないのかどうか。甘い餌で釣っておいて死をお見舞いされるわけではないのか。草花で気を引いて屠殺場に連れて行かれる羊のように扱われたわけではなかったのか。たくさんの贋札が流通していて、それを使って宮廷の好き者たちがオペラ座の娘さんたちをカモにしていたというじゃないか。伯爵が僕に構ってくれたのは騙すためではなかったのかどうか、確かめてみよう」

 ジルベールは一万リーヴルの札束の一つをつかんで、一軒の店に入って紙幣を見せ、両替の出来る銀行の場所をたずねた。主人から頼まれたのだ、と言い訳して。

 商人は紙幣を何度もひっくり返して見とれていた。慎ましやかな店舗には大変な金額だったからだ。やがてサン=タヴォワ街を指さし、ジルベールが知りたかった金融商の場所を教えた。

 紙幣は本物だったのだ。

 ジルベールは喜びを爆発させてまたもや空想に心を預け、ポケットの中で今まで以上に大事に札束を握った。やがてサン=タヴォワ街で古着屋を見つけ、ショーウィンドウを見とれるように眺めて、二十五リーヴルで――とはつまり、バルサモから貰った二ルイのうちの一枚で――栗色の羅紗の上下揃いを購入した。清潔感のあるところが気に入ったのだ。それからあまりくたびれていない黒い絹靴下を一組、光る留金のついた短靴を一足。それから仕上げに、悪くない生地のシャツを一枚、購入した。高級でこそないが品が良く、古着屋の鏡に映してみたジルベールは一目で気に入った。

 そこで今まで着ていた古着を売って二十五リーヴルのたしにすると、ポケットの中の貴重な手巾を握り締め、古着屋から鬘店に移動した。十五分後にはジルベールの頭は洗練されて見事と言えるまでのものになっていた。

 こうしたことを終えると、ジルベールはルイ十五世広場の近くにあるパン屋に入って二スーのパンを買い、急いで頬張りながらヴェルサイユに向かった。

 コンフェランス(Conférence)の泉では一休みして水を飲んだ。

 旅を再開してからも、御者の誘いは断固として断った。御者にしてみれば、これほど小ぎれいな若者が靴墨を犠牲にしてまで十五スーを節約するのが信じられない。

 徒歩で先を目指すこの若者がポケットに三十万リーヴル持っていると知ったら、御者たちは果たして何と言うだろうか?

 だがジルベールにも徒歩を選んだ理由がある。一つには、必要最低限を超えては一リヤールも使わないという固い決意。いま一つは、あれこれ動いたり考えたりするには一人の方が都合がよいと考えたからだ。

 二時間半にわたって歩いていたこの若者が、頭の中で幸せな結末をもてあそんでいたとは神のみぞ知るところであった。

 二時間半で四里の道のりを歩いていたが、距離の感覚もなければ疲れも感じていなかった。体力では誰にも負けなかった。

 計画は練り終わっている。どうやって目的を達すべきか考えるのはとうにやめていた。

 父親であるタヴェルネ男爵との戦いには言葉を費やそう。男爵の許可を得た後で同じようにアンドレ嬢に言葉を費やせば、許してくれるだけではなく、感動的な演説をおこなった自分に敬意や愛情を示してくれるだろう。

 そんな風に考えれば、不安よりも希望が勝った。アンドレのような立場の娘が、愛情のこもった償いを拒むことなどあり得ない。とりわけそれに十万エキュの持参金がついていれば。

 ジルベールは旧約時代の幼子のように、このような叶わない夢を見るほどの無邪気なお人好しだった。自分がおこなった悪事もすっかり忘れていた。人が思うほど悪い心のせいでああした悪事をおこなったのではないらしい。

 すべての準備が整った頃、ジルベールは締めつけられるような気持でトリアノンの敷地にたどり着いていた。来たからには用意は出来ている。フィリップの怒りに触れたら、誠実さでなだめなくてはならない。アンドレに蔑まれれば、愛情で屈服させなくてはならない。男爵に罵られたら、金貨で機嫌を取らなくてはならない。

 自分を受け入れてくれていた共同体から離れたことで、ポケットの中の三十万リーヴルこそが固い鎧なのだということを、ジルベールは本能的に悟っていた。もっとも心配なのはアンドレが苦しむのを見ることだ。恐れていたのは自分の弱さだった。試みを成功させるのに不可欠な力を奪ってしまう弱さだ。

 そこで庭に入ると、いつものように蔑みを浮かべ、昨日までの仲間であり今日からは目下となった使用人たちを見回した。

 まずはド・タヴェルネ男爵についてだ。使用人棟の小姓にさり気なく居場所をたずねた。

「男爵はトリアノンにいらっしゃいません」

 ジルベールは一瞬躊躇いを見せた。

「ではフィリップ殿は?」

「フィリップ様はアンドレ嬢とお発ちになりました」

「発ったって!」ジルベールの顔に驚愕が浮かんだ。

「はい」

「アンドレ嬢が立ち去ってしまったというのか?」

「五日前に」

「パリに?」

 小姓は「知りません」というように首を振った。

「知らないって? アンドレ嬢は誰にも行き先も知られずに立ち去ったのか? だけど何の理由もなけりゃ立ち去らないじゃないか」

「馬鹿らしい!」小姓はジルベールの栗色の服装にもてんで敬意を払わなかった。「もちろん理由もなく出かけたりはなさいません」

「じゃあ理由は?」

「空気を変える為です」

「空気を?」

「ええ、トリアノンの空気が身体に合わないらしくて、医者の助言に従ってトリアノンから離れたんです」

 これ以上たずねても無駄だ。今までの話が、この小姓がド・タヴェルネ嬢について知っていることのすべてだろう。

 だがジルベールは唖然として、その耳で聞いた話を信じることが出来なかった。大急ぎでアンドレ嬢の部屋に向かったが、扉には鍵が掛けられていた。

 ガラスの破片、麦藁や干し草の屑、藁布団の束が廊下に散らばり、部屋の主が引っ越してしまったことを告げていた。

 この間まで住んでいた自分の部屋に戻ると、そこは出た時のままになっていた。

 アンドレの部屋の窓が換気の為に開いていて、控えの間まで見通せた。

 部屋は見事なまでに空っぽだった。

 苦しくて辛くて、何をする気も起きなかった。頭を壁にぶつけ、腕をよじり、床を転がった。

 気違いのように屋根裏から飛び出し、翼が生えたように階段を駆け降り、髪を掻きむしって森に飛び込んだ。呪詛の叫びをあげてヒースの真ん中で倒れ込み、己が命とその命を与えた存在を呪った。

「はははっ! もう終わったんだ。みんな終わった。神様は僕とアンドレを二度と会わせたくないらしい。死ぬほど悔いて絶望して焦がれさせるつもりらしい。罪を償えということか。辱めた相手の不名誉をそそげということか……それにしても何処に行くというのだろう?……タヴェルネだ! そうか! 行ってやるとも! 世界の果てまでも行ってやる。必要とあらば雲の上まで。手がかりを見つけたら追いかけるんだ。たとい飢えと疲労で道半ばで倒れたとしても」

 だが苦しみを爆発させたおかげで徐々に苦しみも和らぎ、ジルベールは立ち上がって、楽に息を吸い込み、穏やかな態度で周囲を見回し、ゆっくりとパリへの道を取った。

 今回はたどり着くまでに五時間かかった。

「男爵はパリから離れたりはしていないに違いない」ジルベールは冷静に見えた。「話をしよう。アンドレ嬢は失踪した。そりゃそうだ。トリアノンに居続けられるわけがない。でも何処に行ったにしても、父親ならきっと居場所を知っている。父親の言葉から足跡をたどれるはずだ。いや、それよりも、どうにか意地汚さを満足させられたら、呼び戻してくれるかもしれない」

 ジルベールはこうした思いつきに力を得て、夜七時頃パリに戻って来た。夜七時――つまりシャン=ゼリゼに人を引き寄せる涼しい時間帯に。シャン=ゼリゼ――夜霧と、二十四時間にわたる昼を実現させている人工の光が漂っている場所に。

 ジルベールは覚悟を決めて、コック=エロン街の宿に真っ直ぐ進み、躊躇うことなく門を敲いた。

 沈黙だけが答えを返す。

 さらに強く敲き金を鳴らしたが、何度敲こうとも結果は同じだった。

 当てにしていた頼みの綱が擦り抜けてゆく。ジルベールは怒りにまかせて手をぼろぼろにした。魂が苦しんでいるのだから、肉体を苦しめるのも当然のことだ。出し抜けに道を戻り、ルソー宅の門のバネを押して階段を上った。

 三十枚の札束を包んだ手巾には、屋根裏の鍵も結びつけられていた。

 ジルベールはそれに飛びついた。ここにセーヌ川が流れていたとしても飛び込みそうな勢いだった。

 夜も更け、綿のような雲が紺碧の空で戯れ、甘い芳香が菩提樹やマロニエから立ちのぼり、蝙蝠が翼を窓ガラスに打ちつける頃、ジルベールが昂奮に駆られて天窓に近づくと、木々に囲まれた庭の離れが白く見えた。かつてあそこで、もう二度と会えないと思っていたアンドレを見つけたのだ。心が砕け、気絶しそうになって樋に手を突くと、目の前がぼんやりとして視界が失われた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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